それでも心は交じりあうだろうか 【#004】
ミュージシャンの小沢健二さん(オザケン)が一昨年、ツイッターでこんなことをつぶやいた。
日本の歩道橋等に書いてある、標語なのか、川柳なのか、あれ、好きです。すてきです。そこで、一つ。「忘れるな、他人の普通は、超異常」
僕はオザケンの大ファンだ。
名盤『LIFE』がリリースされた翌年の夏に僕は生まれたので、彼を知ったのは2017年に音楽活動を本格的に再開してからだけど、コーネリアスの小山田さんと組んでいたフリッパーズギター(パーフリ)まで遡るほどオザケンに熱中した。
最近オザケンはツイッターで定期的につぶやいている。
僕はSNSがあまり得意でないけど、それでもオザケンのつぶやきを読みたくてツイッターのアカウントを持っている。
彼の詩はもちろん、ツイッターでの子供に話すようなさっぱりとしてユーモアのある言葉が僕は好きだ。
さて、冒頭のつぶやき。
忘れるな、他人の普通は、超異常。
なんだかこの言葉はすごく当たり前のようなひびきがあるけれど、人と関わる上で大切なのに忘れてしまいがちなことだとも思う。
最近になって僕はこの言葉を思い出し、その重みを感じている。
自分と他人って思っているよりも違いがたくさんある。
自分に近い家族や恋人とも違うことはたくさんある。
たくさんあるのだ。
例えば身体。
僕の恋人は辛い食べ物がとにかく大好きだ。
僕も嫌いではないので、時々一緒に辛いものを食べに行く。
美味しそうに食べる恋人の隣で、僕はひいひい言いながら完食する。
ああ、辛かった。
そう、味の好みが違う。
でもそれだけじゃないのだ。
食後1時間くらい経つと、僕は猛烈な便意を感じる。
僕は辛いものを食べると、決まって腸がゆるくなる。
そしてトイレにこもってひいひい言っている。
でも恋人はこんなことはないみたい。
普段から食事は同じものを食べているから、耐性の有無ではないはずだ。
どうしてこんなにも違うんだろうと涙目。
身長や体重、髪の毛の色、肌の色など目で見てわかる身体の違いはわかりやすいけど、こんな風に目に見えない身体の違いだって他にもたくさんあるのだ。
オフィスのエアコンの設定温度だってそうだ。
自分にとっては今の室温がちょうどいいとしても、誰かにとっては暑かったり寒かったりする。
男女の違いもそう。
身体の構造が違うから、抱える痛みも違う。
忘れるな、他人の普通は、超異常。
つまりは、自分の普通は、他人にとって超異常。
さらにやっかいなのは心の中にあることの違いだ。
価値観や好みや嫌なことや趣味やストレスとかとか。
身体のように物質として存在することがないから、それが自分と他人で違っていることを意識するのは難しい。
僕たちはしばしば二元論を元に、誰々はいいかげんな人とか、非常識な人とか非難してしまうけど、これってけっこう間違っているんじゃないかって思う。
例えば、神経質さについて。
僕はものの整理整頓が苦手だ。
特に洋服タンスをきれいに維持するというのがなかなかできない。
だからTシャツや下着は畳まなくてもいいように箱に入れて管理している。
でも、恋人は整理整頓が得意だ。
洋服はきちんと畳んで整頓している。
机の上も物の定位置管理をできていていつも整っている。
じゃあ、恋人の方が神経質な性格かというとそうでもない。
衣服の干し方は僕の方が気にする。
僕は半乾きの匂いが嫌だから、乾きやすい素材のものと乾きにくい素材のものを交互に並べて、全体的に乾きやすいようにする。
でも恋人はあまり半乾きの匂いが気にならないようで、干し方にはこだわりがあまりないみたい。
だからどちらがより神経質か、というのでなく神経質になる対象が違うのだ。
マナーや常識など社会通念と思っていることもそう。
ポイ捨てはしないけど、赤信号の横断歩道を渡る人もいる。
選挙には行くけど、不倫をしている人だっている。
だからある人が自らの常識に反する行動をしたとき、その人をマナーが悪いと非難するのは正しいだろうか。
それはただ一面を切り取っただけではないか、それに、誰かを責めることなど自分にできるだろうか、と自身に問うことが大切じゃないのかって思う。
こんな風に細かな差異をないがしろにし、大きな枠で捉えることで、何か大きな間違いをすることは言葉の性質によるものだと思う。
言葉は情報を媒介するための道具だ。
この道具を使って、他人と情報を共有できる。
こういうことって他の動物にはなかなか難しいんじゃないかなと思う。
例えば嗅覚が鋭いネコは飼い主を匂いで覚えたりするだろう。
でも、飼い主の匂いを近所に住む友達のネコに伝えることはできない。
言葉を使えばそれがどんな匂いか説明することができる。
匂いを嗅ぐことはできなくても、言葉で説明を受ければ心の中でイメージをすることができる。
ただ言葉を用いても間接的にしか、その情報に触れることができない。
匂いを説明する言葉は、匂いではない。
だから言葉を聞くだけでわかる気になってしまうのはこわいこと。
さらに厄介なのが、抽象的な概念だ。
抽象的な概念は誰もそれに直接触れることができない。
だから正解がないのだ。
抽象的な概念は言葉で扱うしかないが、その言葉が全ての人に同じイメージを与えるとは限らない。
僕にとっての愛と、君にとっての愛は似ているようで違う。
同じ言葉を扱っていても人によってその言葉の持つ意味が違っていることは忘れてはならないと思う。
古代ギリシャに修辞学に秀でたゴルギアスという人がいた。
修辞学というのは、多くの人を納得させるための喋り方についての学問だ。
彼は話術に優れ、その雄弁さで大きな富を築いた。
ソクラテスは皮肉をこめて、彼のことを「言葉で飾ることに秀でた人間」と呼んでいる。
社会的に成功した彼だが、その一生を通して悩みの種があった。
それは言葉を巧みに操る彼でさえ、自分の心の内なるものを他人に正確に伝えることができないということだ。
話し手の心の内なる体験は言葉にくるまれて、他者の脳を通して濾過されてしまうと、それはもととは違ったものになってしまう。
自己の主観的体験を言葉に変換する時にさえロスが生じる上に、この言葉が思考の癖の異なる他者の脳を通して濾過されると、最後に残るものはもとのものとは違ったものになる。
「心の理論」という概念がある。
これは他者を心を持つ存在として理解する機能を指す言葉だ。
例えば、あなたが電車の席に座っている時に、目の前に座る魅力的な人物があなたを見てウインクをしてきたらどう思うだろう。
もしかして自分に気があるのか。あるいは昔あったことがある人間か。それともただ片目が痒くて閉じただけか。
など、その人の意図や目的を自然に考えてしまう。
ただ状況を写実的に理解するならば、向かいの人間が片目を閉じただけのことだ。
でも、僕たちはどうしても他者の行動をその心と連動させて考えてしまうのだ。
この機能があるから人間は高度に社会的な生物になれた。
心の理論をあまり持たない人は、いわゆるサイコパスと呼ばれる行動を示すだろう。
極度に利己的で、自己の利益のためなら他者を利用することをいとわない。
心を意識することができないから、他者を思いやるということができない。
これは多くの場合で脳の構造の問題であり、本人の意志の問題では解決できないこともある。
だから心の理論は社会生活を営む上で必要なものだ。
しかし、この機能が強く働き過ぎても問題が生じる。
他者の心を過剰に推測してしまい、現実から大きく乖離した妄想に近いような思考に囚われてしまう。
対人恐怖や気が弱い人などは、心の理論が強く働きすぎたために起こるものだと思う。
「過ぎたるは及ばざるが如し」というように、人の性格というのものは中庸であることが最も適応的なのだ。
心は不確かで、その心をうつす言葉はみな同じように理解しているようで違う。
自分と他者って思っているよりも違う。
他者を理解することは想像以上に難しく、同様に自らを他者に理解してもらうことも難しい。
忘れるな、他人の普通は、超異常。
この悲しみをうまく表現した言葉がある。
「セックスの悲劇は、心が永遠に処女のままだということにある」
誰の言葉だったか忘れてしまったので、あとで調べます。
さて一方で人間というものはみんな同じだなと思ったりもすることもある。
今まで話してきたこととまったく反対のことだけども。
僕は高校は理系コースだったので、歴史や宗教、哲学にあまり触れてこなかった。
最近になってようやく興味が湧き、いくつか本を読んでみた。
昔の人のことを知ると面白いなと思うことは、今の人とあまり変わらないんだな、ということがわかることだ。
例えば、古代ギリシャ神話。
ギリシャ神話の登場人物はみんな不倫や浮気をして、残された夫や妻は妬みや憎しみや怒りを抱く。
最近芸能人の不倫が話題にのぼり、今年は不倫問題が多かった、なんていうけども、何千年も前から人類は不倫をしてきたから不倫するのもしゃあないなって思う。
古代ギリシャの詩人のヘシオドスは、『仕事と日々』という詩の中で今は人類が堕落した時代だ、などいっている。
これは現代でも大人の人がよく話す、「今の若者はだめだ」というのと同じだなと思った。
今よりも昔の方がいい時代だったと嘆くようにおそらく人間はできているのだ。
16世紀のフランスを生きたモンテーニュの著書『エセー』を読んだ。
多くの人に読んでもらう目的ではなく、ただ自らの思考を書き留めることを目的として書かれたとても個人的な内容の本だ。
でも彼の言葉は僕の心の深いところで共鳴するのだ。
何百年も前に、日本から遠く離れた土地で生きていた人と、心の深いところで通じ合うような思いがするのだ。
昔の人と現代の人では、考えていることや話されていることが違うのかなとなんとなく思っていたけど、そんなことはなかった。
僕はこんな経験が初めてで、結構感動したのだ。
心理学者のユングは「集団的無意識」という概念を提唱した。
集団的無意識とは、個人の持つ無意識よりも深い層に人類として共有している無意識をさす。
人の心の根本的な動きはみんな同じなのだ。
僕の苦しみと、ある時代にある場所に生きた誰かの苦しみはどこかでつながっているのだ。
小説家の村上春樹さんの著書に、『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件を受けて作られた作品がある。
事件当時、マスコミはオウム真理教に関する報道ばかりして、被害者の声はあまり報道されていなかった。
そのため彼は被害者にインタビューして、彼らの思いや苦しみを一冊の本にまとめた。
彼は後にこの事件は人間の「根源的な悪」が表出した出来事だと話している。
そしてその後の小説ではこの「根源的な悪」との対決を自身の大きなテーマにしている。
僕は彼の小説を通して根源的な悪について考えることがあったけどいまいち理解しきれていなかった。
でも、今は根源的な悪がなんとなくわかった気がする。
これは人間という生物として人類みんなで共有して持っている悪なのだ。
人類の過去の歴史には非人道的な出来事がたくさんある。
それは例えば戦争、暴力、虐殺、レイプ、差別。
第2次世界大戦時のドイツ強制収容所体験したヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を読んだ。
ヒトラーはあまりにも身勝手な理由から、罪のない多くのユダヤ人を虐殺した。
僕は今平和な日本に住んでいるから、文字通り死を目の前にしながらも生き残った彼の言葉を通してしか、彼らの苦しみを知ることはできない。
それでも僕は彼らの苦しみを自分の中で抱きしめて、その震えを冷たさを痛みを知りたいと思う。
人間の根源的な悪は生む苦しみは、人間の根源的な苦しみでもあるのだ。
この出来事は間違いなく悪だ。
しかし虐殺をした彼らを僕は責めることができるだろうか。
もし彼らと同じ環境にいたなら、僕も虐殺する側にいたのではないか。
彼らを非難できるのは僕が直接関係のない立場にあるからで、同じ状況にいたとしても彼らを非難することができるだろうか。
人間が今までに行ってきた非人道的な行為は全ての人間に、そして僕にも繋がっている。
それらは人類の持つ悪の表出であり、僕の中にもある悪の表出なのだ。
幸い僕は平和で恵まれた環境に生きている。
誰かを不可逆的に傷つけなくちゃいけない状況にない。
でも、この現代の世界にも悪は生きている。
そして人類が続く限り、悪がこの世から消えることはない。
僕はその悪を簡単に非難するだけでは終わらすことができない。
だから自らに問うしかないのだ。
自分の中にもある悪と対峙するために。
Var 1.1