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「審判」の視座

躰道(たいどう)という武道をやっていて、試合の審判をちょくちょくする。

躰道ってなに?というのは今日の本筋ではないので、割愛。とんでもなくざっくり言うと、空手発祥の日本の武道で、すごくたくさん動きます。(関係各位から怒られそう…)

審判をやるようになって、試合を見る目が変わったように思う。
選手としてしか試合に出ていなかった時は、見えなかったもの・気づかなかったものが、見えるようになった。

なんでこの技を取ってくれないんだ。
今、いい技が入ったのに!
いやいや、なんで相手の技有り?

などと、選手は思っているもので、正直に言うと僕も思っていた。
あるいは選手だけじゃなく、周りで見ている観客も、「え?なんであの技ダメなの?」とか批評しながら見ている。

それ自体はどんな競技でもよくある話だと思うけど、実は「選手」や「観客」からは見えず、「審判」にしか見えないものがある、と実際に「審判」を務めるようになって気づいた。

選手は、どうしたって「勝ち」を目指して、目の前の相手を見て、試合を戦う。観客は、どちらかの選手に思い入れがあるか、なにもコミットしていないかのどちらかだ。
唯一「審判」だけが、場に対して強く関わりながら、フラットにその「場」を見ている。いや、実際にフラットかどうかはともかく、とりあえず立て付けとしては、フラットであるという立場にいる。

その極めて特殊な視座に立って初めて見える、「試合」の姿がある。
単発の技の良し悪しや、当たった当たらないの次元とは違う判断。どういう基準で、競技を見るかという価値観。
知識としては等しく教えられていることではあっても、実際にその立場に立ってようやく実感されるものがある。と思う。

そして「選手」とは異なる目線の「審判」が、試合の結果を決めている。

ヘボ選手だった僕は全く気づいていなかったけど、とんでもなく強い一部の選手は、審判と同じ目線で見てるんじゃないか?とも思う。
意識的か無意識的かはともかく、「審判」と同じ目線で自分自身もフラットに見ているとすれば、それは「勝ち方」をわかっているということになる。だからこそ、彼らは強いのかもしれない。

で、これって、すごく示唆的なことだなと感じる。

一見すると、相対する二者の関係。
しかし、結果を決める強力な第三者(審判)がいる。
その「審判」の視座を得たものが、果実を得る。

こういう関係・場は、いろいろなところに隠れていそうだ。

たとえば、仕事で言うと「審判」は誰だろう?
一見すると、お客様と提供者の関係。だけど、そこには見えない「審判」がいるかもしれない。上司?いやいや、それは違う気がする。経営者のように上司のいない仕事もあるし。

ちょっと深掘りして考えてみると面白そうですね。

(あ、躰道の動画を貼っておきます。見るとすごく面白いので時間ある時にぜひ。)


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