見出し画像

『全体性と無限』はいつ刊行されたのか

 エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』(講談社学術文庫)をお求めいただいたみなさま、誠にありがとうございます。

 本が店頭に並ぶのに先立ちまして、各種Web書店の商品説明欄に、「訳者解説」における記述の誤りについて、以下のようなお詫びと訂正を掲載させていただいております。ご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ありません。

[引用はじめ]

*お詫びと訂正
第1刷の「訳者解説」(561頁14行目)に記述の誤りがありました。心よりお詫びいたしますとともに、以下のとおり訂正させていただきます。第2刷以降は訂正いたします。
【誤】
博士論文としての審査後に
【正】
博士論文としての審査の少し前に

[引用おわり]

 どのような訂正かといいますと、

フェノメノロギカ叢書の第8巻としての『全体性と無限』は、国家博士号請求論文としての「審査後」(つまり1961年6月6日以降)に刊行されたのではなく、審査の「少し前に」刊行された

というものです。

 書籍の刊行日という単なる事実をなぜ間違えたのか、という疑問を持たれる方もいらっしゃると思い、この文章で経緯をご説明させていただきたいと考えた次第です。やや込み入っているため、長文になりますが、ご興味のある方はお付き合いいただけましたら幸いです。

 まず最初にお伝えしなければならないのは、『全体性と無限』が1961年の何月何日に刊行されたかについては確実な情報がない、少なくとも私には調べることができていない、という点です。『全体性と無限』の初版には奥付がなく、本を見ても刊行年しかわかりません。レヴィナスが『全体性と無限』によって国家博士号を取得したことは知られていますが、

「フェノメノロギカ叢書の一冊として刊行された『全体性と無限』が審査の対象となったのか」
「審査用の『全体性と無限』が存在し、それがのちにフェノメノロギカ叢書の一冊として刊行されたのか」

 について、正確なことは知られていません。

 今回、「訳者解説」で『全体性と無限』の刊行をめぐる状況を詳しく述べるにあたり、ぜひともこの点は明らかにしたいと考えていました。私の知るかぎり、以上の疑問に明快な答えを提供しているものがなかったからです。

 先取りして誤りの原因を述べますと、「調べることのできた資料にもとづいて判断を下したあと、引き続き調査を進めるなかで、より信頼できそうな情報が見つかり、それが当初の判断と異なっていた」ということになります。

 以下、具体的な調査の流れをご説明します。『全体性と無限』は国家博士号請求論文としての「審査後」に刊行されたのだろう、という判断は、次の資料・証言によっています。

(1)『パリ大学報』(1961年7-9月号)の記述
(2)大学資料総合目録システム(SUDOC : système universitaire de documentation)に登録されているデータ
(3)サロモン・マルカの伝記(『評伝レヴィナス』)で紹介されているミカエル・レヴィナスの証言

 まず(1)は、博士論文としての『全体性と無限』の要旨を掲載したものです。そこには要旨の本文に先立って、

パリ大学人文学部で1961年6月6日に審査された文学博士号請求の主論文(デン・ハーグ(オランダ)のマルティヌス・ナイホフ社からフッサール文庫の後援により刊行されている「フェノメノロギカ叢書」で近刊予定)。
Thèse principale pour le doctorat ès lettres, soutenue le 6 juin 1961 devant la Faculté des Lettres et Sciences Humaines de l’Université de Paris (à paraître dans « Phaenomenologica », collection publiée sous le patronage des centres d’Archives-Husserl, chez Martinus Nijhoff, à La Haye (Pays-Bas) (Annales de l’université de Paris, 31e année, n. 3, juillet-septembre 1961, p. 385).

というリード文がついています(太字は引用者)。「近刊予定(à paraître)」とあるので、これ以降に、つまり審査のあとにフェノメノロギカ叢書の一冊として刊行が予定されていることがわかります。この資料が当初の判断の最大の根拠になっています。なおこの要旨の本文は、合田正人先生による『全体性と無限』の「訳者あとがき」でも紹介されています(国文社、改訂版2006年、491-493ページ)。

IMG_0840のコピー

 次に(2)です。このSUDOCというサイトは、フランスの大学図書館等に所蔵されている資料の書誌情報を調べるのに非常に便利なものです。これで『全体性と無限』を検索すると、改訂版やポッシュ版も含めて多くの件数がヒットするのですが、そこから1961年に刊行されたものを探すと次の2件が見つかります。

博士論文に分類されている『全体性と無限』
フェノメノロギカ叢書という注記があるもの

 いずれも1巻本でXVIII-284ページ、25cmとあるので、書物としての外見は同じだろうと推測できるのですが、別立てで登録されており、データ上でも次の違いがあります。

・①には副題(「外部性についての試論」)の記載がない
・①は「論文または博士論文(元ヴァージョン)」(Mémoire ou thèse (version d’origine))とされている
・②には①にないerrata(正誤表)がついている

 これらの相違から、①が先で②が後という時間的な順序が考えられます。

 最後の(3)は、サロモン・マルカの伝記で紹介されているミカエル・レヴィナスの証言で、ジャン・ヴァールがレヴィナスに電話を寄越し、「出版するのをすぐ止めて下さい。博士論文として提出しなければなりません」と言ってきた、というものです。ミカエルによると、レヴィナスはガリマール社に出版を断られたあと、フェノメノロギカ叢書の責任者であるファン・ブレダに原稿を渡していました。このエピソードは「訳者解説」でも紹介していますが、詳しくはサロモン・マルカ『評伝レヴィナス 生と痕跡』(斎藤慶典・渡名喜庸哲・小手川正二郎訳、慶應義塾大学出版会、2016年)の360ページ以下をご覧ください。この証言は間接的な情報にすぎませんが、いちど出版をストップさせて論文審査に回した、という時系列は確認できます。

 以上の3点から、『全体性と無限』は博士論文としての審査後に出版されたのだろうと考えていたのですが、これとは反対の結論を要求する情報もありました。

 それは『全体性と無限』の編集をおこなったジャック・タミニョーによる、「『全体性と無限』の出版過程」(« La genèse de la publication de Totalité et Infini »)という文章で、2012年にカーン大学から出版された『全体性と無限』の論文審査をめぐる未完資料集(以下「資料集」)で発表されたものです。この「資料集」は今回の「訳者解説」や訳注の作成の際にも依拠したものですが、タミニョーの文章のなかに次の一文があります。

1961年に刊行されたこの本〔『全体性と無限』〕は、その年の春にソルボンヌで、以前の仕事とあわせて、ジャン・ヴァール主査の審査団をまえにした国家博士号取得のための論文審査の対象になることとなっていた。
Paru en 1961, le livre allait être au printemps de cette année-là, à côté de travaux antérieus, l’objet d’une soutenance de thèse à la Sorbonne, en vue de l’obtention d’un doctorat d’État face à un jury présidé par Jean Wahl (Emmanuel Housset et Rodolphe Calin (dir.), Levinas : au-delà du visible. Études sur les inédits de Levinas des Carnets de captivité à Totalité et Infini, Cahiers de philosophie de l’Université de Caen, n. 49, 2012, p. 75).

 ここにも正確な刊行日は書かれていませんが、先に刊行されていた「この本」が「その年の春」(つまり6月)に論文審査の対象となったという流れが読み取れます。ただ、この文章はタミニョーの回想からなっており、証拠としては上に挙げたものよりも弱いと考えてしまっていました。

 ちなみにこの「資料集」には、『パリ大学報』に載った『全体性と無限』の要旨(上の(1))も、先ほど引用したリード文とともに再録されているのですが、そこには

『パリ大学報』に発表するために論文審査後にパリ・ソルボンヌ大学に送られた論文要旨である。
Résumé de thèse envoyé à l’Université de Paris-Sorbonne après la soutenance de thèse pour publication dans les Annales de l’Université (ibid., p. 54).

という注がついており(太字は引用者)、これを読むと「近刊予定」という情報が「審査後」に大学に送られた、と考えざるをえません。つまり「資料集」の内部でも時系列が混乱しているのです。

 以上を総合的に判断したうえで当初の「訳者解説」の記述になったわけですが、なんと校了の一週間後に、よりはっきりとした情報を含む資料が見つかりました。

 それは『ルーヴァン哲学雑誌』(1961年5月号)のクリスチャン・ヴェナンによる時評で、

さまざまな哲学叢書から最近出版された著作のリストを下記に掲げる。
Nous donnons ci-après une liste des ouvrages qui ont été publiés récemment dans des collections philosophiques :

という文章のあと、30冊ほどの著作のなかに、フェノメノロギカ叢書第8巻の『全体性と無限』の書誌情報が挙げられていたのです(Revue philosophique de Louvain, t. 59, n. 62, mai 1961, p. 399)。「最近出版された著作」の情報が5月号に載っているわけですから、6月6日の審査の前に刊行されたというのが事実だろうと思われます。ただし、正確に何月何日に刊行されたのかはここからもわかりませんので、審査の「少し前に」という曖昧な訂正になった次第です。

画像1

 それでは『全体性と無限』が「審査後」に刊行されたことを示唆する情報をどう考えたらよいのでしょうか。以下は現段階での私の推測です(あくまでも考えうる可能性にすぎず、事実である確証はありません)。

・論文審査用に提出された『全体性と無限』は書籍版と同じ体裁を取っていたが、出版前のヴァージョンであり、のちに刊行されたものと完全に同一ではなかった。
・論文(本)と同時か、あるいは、論文審査前かつ本の刊行前のある時期に、『パリ大学報』のための要旨が提出された(だとすると、要旨は論文審査後に送られたという「資料集」の注記は誤っていることになる。もしくは、要旨本文だけが論文審査後に送られ、リード文に書かれた「近刊予定」という情報はそれ以前に別の形で提供されていた)。
・これらの提出後、1961年6月6日の審査の「少し前に」、『全体性と無限』はフェノメノロギカ叢書の第8巻として刊行された。
・刊行後にもかかわらず、『パリ大学報』1961年7-9月号には、要旨提出時の情報(少なくとも「近刊予定」というリード文の情報)がそのまま掲載された。

 おおよそこのような流れが想像できますが、「何月何日に刊行された」という明確な情報にたどりつけていない以上、推測の域を出ないものであり、引き続き調査を続けていく予定です。ここまでの調査が刊行に間に合わなかったことにつきまして、自分の能力不足を反省するとともに、本をお買い求めいただいたみなさまには深くお詫び申し上げます。もし版を改める機会がありましたら、訂正をさせていただきたいと考えております。

 ご迷惑をおかけしてしまいましたが、かえって、研究書や論文の対象になりようもないこうした些末な調査内容を、読者の方々に提供できる機会になったとも言えます。

 さらに情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご指摘をいただけますと幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?