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vol.2 コンテンツビジネスで財を成し、不動産で仕上げる

ポチ サウザーの白熱教室
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※試聴版。オリジナル版(58:32)は購入後に視聴可能。

第二話(全五話)。

さて、ここで言うコンテンツビジネスにおける良いネタとは何なのか?
僕の個人的な見解を率直に言うと
「役に立つこと」
である。
これで一点突破しなければならない。

なぜか?と言うと、原価がかかっていないからだ。
本来、無形物の商売とは異端である、ということをよく意識し注意を払わねばならない。
さまざまな種類の覚悟が必要な商売であるが、得てして勤め人どっぷりの人間ほど、すっと無形物商売に入ってゆけたりする。
なぜかと言うと、勤め人稼業じたいが労働力という無形物を売るなりわいであるから、コンテンツビジネスなりスクールなりの無形物商売とある程度親和性が高く、怖さを感じず適切な用心を飛ばしてすっと参入できてしまう。
(※厳密には自分の労働力を再生産するための原価がかかっているのだけど、それは巧妙に見えないように隠されていて、勤め人本人は原価無し商売をしているつもりになっているのだ)

書きながら、この話題に深入りしてゆくのも得策ではない気がして来た。
つまり前振りのこの段で言いたいことは、無形物の商売では、仕入れや在庫のある有形物の商売にある「顧客からのお目こぼし」「ちょっと甘やかしてくれる」が、一切期待できないし期待してはいけないということである。
一途に顧客の役に立つこと、ここに立脚したコンテンツを作らねばならない。

意外と思われるかもしれないが、コンテンツビジネスはちゃんと要点さえ押さえれば結構高い確率で売れっ子になれるはずのものである。
あまりこう言うことを書いちゃうのは憚り多きことなのであるが、ぶっちゃけ失敗する方が難しい、と僕は個人的に思ってしまうぐらいなもんで。
もちろん本オーディオブックに売れるコンテンツ製作者になるためのヒントはたくさん散らばっているが、少し僕の方でも考えてみたい。

失敗する人の典型的パターンがどんなものか?と言うと、外したネタ、偽善者キャラ、読むに耐えない文章、などの売れる要素が何も揃わないことにあるのだが、この頁はネタが主題であるので外したネタとは何か?を少し考えてみたい。
外したネタとは、役に立たないネタである。
では役に立たないネタとは何か?

「カネと女の話」が役に立つ話で、それ以外は役に立たない話でしょ。
と思っているならそれは大間違いであると言いたい。違うんである。
外したネタとは、対象顧客と話のネタの組み合わせを間違った場合をこそ、指すのである。
ここをより詳しく解説するために、一つ、前提となる知識を挟みたい。

これは僕の個人的見解になるが、日本国の人口別の思想分布の件を紹介する。

・現実主義者 66%
・観念主義者 34%

ざっくりこんな感じである。
厳密に基礎データを取って学問的な裏付けがあるって話をしているのでは無い。あくまで僕の勘によるし冗談半分に聞いてほしい。

ただし僕はこのヤマカンに基づいて、自分の身銭を投じ肉を切らせて骨を断つ実践商売を展開しており、「勘」が外れれば地獄行きの厳しい宿命と隣り合わせの身の上でその「勘」を元にそこそこの売れっ子をやれているので、妥当性はあるぞとは言いたい。コンテンツ商売をやる人間として秘伝の秘でもある。与党支持者と野党支持者の割合もこんな感じだし。

現実主義者とは、現実を見て、現実に働きかけ、現実を生きる人々である。
山の中の畑にサツマイモ植えて、さあ収穫だとなった時にイノシシに全部食われてしまった、と言うことをそのまま認識できる人が現実主義者である。その現実に対して、畑を鉄柵で囲ってしまうか、逆にイノシシを捕まえて食うか、そもそも中山間地に芋類を植えるのが愚かだったと反省し来年はニンニクとかトウガラシとかイノシシが好まない作物を植えようか、その土地の特性に合ったものを作らなければな、などと、合理的に物事を考える。これが日本の人口の約2/3。

観念主義者とは、空想の中を生きている。正義とか道徳とかの観念が現実よりも上位に来る。
上の場合と同じように畑のサツマイモをイノシシに食われたら、正義と悪みたいな話を延々とし始める。彼らは「被害者と加害者」のような構図で物事を考えるのをたいへん好み、加害者は被害者をいじめる「べきではない」という結論に毎度達し、そこに喜びを感じるのである。

イノシシに作物を食われただけのことなのに、悪い人間が山の環境を破壊しただの、温暖化がどうだの、とにかく観念が好き過ぎる。

作物をイノシシに食われて「イノシシは悪だ!」と面罵していながら、隣の現実主義者がそのイノシシをくくりわなに掛けて槍で刺して解体して食おうとすると「かわいそうだ」とか騒ぎ出して、現実主義者とは並行線である。

彼らの中ではその言い分に何ら矛盾なく、自分は完璧に整合性ある言動をしているとゆめ疑いはしない。これが1/3。

たとえば「カネと女」についても、現実主義者と観念主義者ではスタンスが全く異なる。

現実主義者は、カネも女もこの世界にはある程度の競争があって、それに勝たなければ良い思いは出来ないのだという現実を見、その現実世界に沿った身の振りをするものである。競争に勝てる自分を作るべく努力しましょうね、という方向に進む。

が、一方で観念主義者は、カネも女もみなに平等に分配するべきだ、人間は平等な権利を持つからだ、強い者が独り占めするのは不正義である、という見方をする。彼らにとっての努力とは、延々と仮想的(強者)に向かって文句を言い続けることである。なお、観念主義者は「終末論」が大好きで、このままでは世界は滅びてしまう的なことをいつも信じているのも特徴だ。

また余談になるが、僕が尊敬するユヴァルノアハラリ教授が最近の著書でけっこうそういう終末論みたいなものに傾いて来ていて、ああやっぱりこの人もなのかという落胆を隠せないでいる。

さて結論。

現実主義者にとっての「役に立つ」と、観念主義者にとっての「役に立つ」は、ぜんぜん違うのだということです。
どのネタを、誰に向けて発信するか、組み合わせの妙を発揮しなければ「役に立つ」は成立しない。

みなさま、是非ともターゲット選定をミスらないように頑張ってください。


聖丁

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