vol.1 ラーメン屋オープン前に店舗を燃やした支那そば軍曹の人生語り
支那そば軍曹 サウザーの白熱教室
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※試聴版。オリジナル版(53:30)は購入後に視聴可能。
第一話。(全四話)
どうもサウザーです、紹介文になんと支那そば軍曹ご本人がエッセイを書いていただけることになったので、紹介文の代わりとさせていただきます。
講師陣がお酒飲みながら、ラーメン屋になるまでの人生とラーメン屋になってからの人生を語ってくれているという趣旨です。話題が脱線するとラーメン屋経営やノウハウの深層部が語られます。
あと、これを聴いとけばとりあえず無保険で店を燃やすという馬鹿な真似を犯さずにラーメン屋を開業することが出来ますね。素晴らしいことです。他人の失敗を自分の経験値に加えるという意味で有用な語りと言えるでしょう。
注意点としては下ネタが多すぎな点でしょう。ラーメン屋の店主は女にモテるという誰も語らない真相にしつこく切り込むあたりに、僕の意欲が垣間見えます。では、以下、軍曹どのの文章です。
--------
あれからもう、どれだけ経ったろう。充満する煙の匂い、サイレンの音、回転灯。火の煌めき。悪夢。恐ろしい一夜。思い出したくもない、でも忘れられない。そんな夜の出来事。
ラーメン屋を始めようと思った。そしたら借りた店が燃えた。そんなことあるか?あるのだ。確かにあるのだ。この世にそんな事象は存在する。僕は確かにこの目で見た。というか僕がやった。火を付けた、というワケではないが何故か燃えてしまった。そんなお話。
唐突ですが祝と呪の話をしよう。祝う呪うの旁「兄」は跪き祈りを捧げる人をあらわす。そして示す編の「示」は三宝を意味し、供物を乗せる三つ脚の台、あるいは神を祀る場所を意味する。つまり「祝」とは神棚の前に跪いている姿、又は神に供物を捧げる姿だ。
そして「呪」とは安倍晴明のいうところの「シュ」、物事を縛り付ける言葉、つまり言霊を意味する。即ち祭壇にひざまづく姿を「祝」とし、口から発せられる祝詞そのものが「呪」なのだ。言葉の成り立ちとしてはそうだが、つまり何を言わんとしてるかと言うと、言霊とはわかりやすく言うと「言った事は本当に起こる」という信仰なわけで、それが敵に打ち勝つための言霊利用として、やがて人を傷つける言葉、即ち「呪」となって分離されたという経緯を前提として知ってもらいたかった。
ところでそもそも何故そんな話を始めたかというと、人が日常的に人にかける言葉とはまさに「祝」と「呪」の体現なのだ。
これはオカルトな話ではない。むしろ真逆。極めて現実的で現代的で科学的な話である。でも一つの事象に対しての実証が悪魔の証明みたいなレベルで面倒くさい割に、実証結果が「なんかそう言う事ってあるよね」ぐらいで済んでしまうから誰も統計を取ろうなんて考えないってだけの、激烈にありふれた現象の話。
呪いは効くのだ。
オカルト話では全くない。もちろん祝いも効く。時と場合と方法にもよるが覿面に効く。それらの正体は何の事はない、日常的に誰もが発しているし受けているちっぽけなやりとりである。何も丑の刻参りや黒魔術のような儀式を持ち出さなくてもいい。
例えば誰か憎い相手がいるとする。その相手にあなたが「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」と思う。わかりやすくする為にここまでが呪いレベル1とする。そしてそれを相手に向かってそのまま言葉で「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」と伝える。これをレベル2とする。レベル2の段階で相手は「呪われた!」とは決して思わない。思ったとしたらそれはちょっと色々問題がある人なので、それはまた別のお話。
しかし呪われたとは思わないながらも、その言葉を聞かされた時と状況によっては深く心に残り、きっと長く憶えている事だろう。そして本当に「いつか」「どこかで」という曖昧な条件下では必ず「酷い目に」逢う。
その事象自体の原因はその呪いに起因しない場合が多い。人は生きていれば必ず事件にも事故にも遭う。潜在意識下で気にかけていた言葉に引っ張られる事もあるが、レベル2段階ではそれは極稀だ。
しかし「酷い目に」逢った当人が呪いの言葉を受けたのが数十年前だとしても、それを憶えていたとしたら「あのときあいつにあんな事を言われたからこんな目に逢った」と思う事があるだろう。日本には平安の世から続く言霊信仰がこんなところに残っているのだ。そして「いつか」と「どこかで」と「酷い目に」の部分をさらに細かく指定すると呪いの強さは格段に上がる。
繰り返し申し上げるがオカルト話ではない。
「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」と言われるよりも、「明日、学校の前で事故に遭えばいい」と言われる方が気味が悪いっていうだけの話なのだ。何の事はない、ギャンブルと同じ。細かく指定して当たる確率が低いところに張った方が配当が高いってだけの話である。「明日、学校の前で事故に遭えばいい」なんて言われて、実際に翌日学校の前で事故に遭う確率なんて天文学的な低さである。潜在意識で惹かれる事を鑑みても、まず有り得ない。
要するにロイヤルストレートフラッシュ「明日、学校の前で事故に遭えばいい」を狙う人は少なくても、スリーカード「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」を狙う人はそこら中に溢れかえっているって事だ。
しかしそこでご存知の通り「人を呪わば穴二つ」という言葉がある。ここまで説明したらもうお分かりかだろうか?「あのときあいつにあんな事を言われたからこんな目に逢った」を体現した人間は感情的にはもちろんそこで完結しない。呪いには呪い返しが付き物と言うのはそういう事だ。神や悪魔が代償を回収に来るなんて話ではなくて、言葉で受けた記憶は反射対象が明確ってだけの事なのだ。「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」をくらった人は、言われた事を忘れているか、あるいは「…あいつがあんなことを言ったからかもしれない」と思うぐらうだろう。だけども「明日、学校の前で事故に遭えばいい」を不幸にもくらってしまった人は「完全にあいつのせいだ!」と思うに違いない。
随分ざっくりとした説明になってしまったが、これが僕の思う「呪」だ。ちなみにレベル3以上は実際の行動に出る事。しかし実際の行動と言っても、あくまで呪いであるので、相手に直接的な危害を加えるのではなく、それこそ藁人形に五寸釘を打ってみるだの、暗い部屋で魔法陣を書いてみるだの、個人的な趣味の領域にとどまった話である。まあ、オカルト話でそれらが人に見られたら失敗して自分に呪いが来るって話も、上記を諸々鑑みたら合点がいくことだろうと思う。だって誰かを憎んだ挙句にそんなキモチ悪い具体的な行動に出てたのが判明したら、その後自分が酷い目に遭うのは必然であるはずだ。呪いはオカルトじゃない。コミュニケーションにおける必然なんですわ。
そして「呪」の概念さえ理解してもらえれば「祝」は単純にその真逆。しかし「祝」は「呪」に大しては実にささやかである。「呪」の例えでギャンブルを持ち出したが、それに対して「祝」はコツコツ働く事だと考えてもらうとわかりやすいかもしれない。日常的な「祝」は奇跡や呪文なんかではもちろんなくて、神前の祝詞ですらない。「おめでとう」や「ありがとう」、または「頑張って」や「気を付けてね」等のごくありふれた労いの言葉や挨拶なのだ。放った側も受けた側も憶えていないし覚えていない。でもその瞬間や、その後のある刹那、ちょっといい気分になる「かもしれない」ぐらいのささやかなものなのだ。でもこれが積み重なると人の行動に大きな結果を齎すのだ。
でも聞いてほしい。僕は思いもよらない場面で輝くような「祝」をもらった。
滅茶苦茶に端折るが、物件を燃やしてしまった。当然のように「呪」を覚悟した。代償を払う覚悟は完全に出来ていた。でも貰ったのは「祝」だった。しかもロイヤルストレートフラッシュに張ってくれた。
「これで厄が落ちたから必ず成功するね!大丈夫!」
これは「祝」であるが「呪」でもあるのかもしれない。僕はもう成功する以外の選択肢はない。一切ない。やるしかない。
あれから7年。ラーメン屋は順調で店舗も増えた。スタッフも増えた。僕はあの時とは比べものにならないぐらい豊かになった。
しかし2020年4月13日現在、After COVID-19 30日目ぐらい。ラーメン屋はまた佳境に立たされている。でも必ず乗り越えられるであろう。だってロイヤルストレートフラッシュの「祝」と「呪」を受けたのだ。成功以外の選択肢なんて無い。
でも安心して欲しい、再現性は必ずある。というか再現性しかない。この音声を聴いてもらえばわかるのだが、僕は本当にどうしようもない人間で何も秀でているところがない。しかしながらラットレースを抜ける事が出来た。それは何故か。ただ単に借りた物件を燃やしても諦めない「竹を割ったような粘着質」みたいなガムシャラさがあっただけなのかもしれないけれども。
別にラーメン屋じゃなくてもいいよ。でも頭も悪くて特段なんのスキルもない金もない与信も人脈もない人間が勤め人から抜け出すにはやっぱりラーメン屋が最も早いよ、そんな与太を聖帝に聞いてもらったんだ。
君もきっと上手くいく、さあラーメン屋をやろう。
をはり。
どうもサウザーです、紹介文になんと支那そば軍曹ご本人がエッセイを書いていただけることになったので、紹介文の代わりとさせていただきます。
講師陣がお酒飲みながら、ラーメン屋になるまでの人生とラーメン屋になってからの人生を語ってくれているという趣旨です。話題が脱線するとラーメン屋経営やノウハウの深層部が語られます。
あと、これを聴いとけばとりあえず無保険で店を燃やすという馬鹿な真似を犯さずにラーメン屋を開業することが出来ますね。素晴らしいことです。他人の失敗を自分の経験値に加えるという意味で有用な語りと言えるでしょう。
注意点としては下ネタが多すぎな点でしょう。ラーメン屋の店主は女にモテるという誰も語らない真相にしつこく切り込むあたりに、僕の意欲が垣間見えます。では、以下、軍曹どのの文章です。
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あれからもう、どれだけ経ったろう。充満する煙の匂い、サイレンの音、回転灯。火の煌めき。悪夢。恐ろしい一夜。思い出したくもない、でも忘れられない。そんな夜の出来事。
ラーメン屋を始めようと思った。そしたら借りた店が燃えた。そんなことあるか?あるのだ。確かにあるのだ。この世にそんな事象は存在する。僕は確かにこの目で見た。というか僕がやった。火を付けた、というワケではないが何故か燃えてしまった。そんなお話。
唐突ですが祝と呪の話をしよう。祝う呪うの旁「兄」は跪き祈りを捧げる人をあらわす。そして示す編の「示」は三宝を意味し、供物を乗せる三つ脚の台、あるいは神を祀る場所を意味する。つまり「祝」とは神棚の前に跪いている姿、又は神に供物を捧げる姿だ。
そして「呪」とは安倍晴明のいうところの「シュ」、物事を縛り付ける言葉、つまり言霊を意味する。即ち祭壇にひざまづく姿を「祝」とし、口から発せられる祝詞そのものが「呪」なのだ。言葉の成り立ちとしてはそうだが、つまり何を言わんとしてるかと言うと、言霊とはわかりやすく言うと「言った事は本当に起こる」という信仰なわけで、それが敵に打ち勝つための言霊利用として、やがて人を傷つける言葉、即ち「呪」となって分離されたという経緯を前提として知ってもらいたかった。
ところでそもそも何故そんな話を始めたかというと、人が日常的に人にかける言葉とはまさに「祝」と「呪」の体現なのだ。
これはオカルトな話ではない。むしろ真逆。極めて現実的で現代的で科学的な話である。でも一つの事象に対しての実証が悪魔の証明みたいなレベルで面倒くさい割に、実証結果が「なんかそう言う事ってあるよね」ぐらいで済んでしまうから誰も統計を取ろうなんて考えないってだけの、激烈にありふれた現象の話。
呪いは効くのだ。
オカルト話では全くない。もちろん祝いも効く。時と場合と方法にもよるが覿面に効く。それらの正体は何の事はない、日常的に誰もが発しているし受けているちっぽけなやりとりである。何も丑の刻参りや黒魔術のような儀式を持ち出さなくてもいい。
例えば誰か憎い相手がいるとする。その相手にあなたが「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」と思う。わかりやすくする為にここまでが呪いレベル1とする。そしてそれを相手に向かってそのまま言葉で「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」と伝える。これをレベル2とする。レベル2の段階で相手は「呪われた!」とは決して思わない。思ったとしたらそれはちょっと色々問題がある人なので、それはまた別のお話。
しかし呪われたとは思わないながらも、その言葉を聞かされた時と状況によっては深く心に残り、きっと長く憶えている事だろう。そして本当に「いつか」「どこかで」という曖昧な条件下では必ず「酷い目に」逢う。
その事象自体の原因はその呪いに起因しない場合が多い。人は生きていれば必ず事件にも事故にも遭う。潜在意識下で気にかけていた言葉に引っ張られる事もあるが、レベル2段階ではそれは極稀だ。
しかし「酷い目に」逢った当人が呪いの言葉を受けたのが数十年前だとしても、それを憶えていたとしたら「あのときあいつにあんな事を言われたからこんな目に逢った」と思う事があるだろう。日本には平安の世から続く言霊信仰がこんなところに残っているのだ。そして「いつか」と「どこかで」と「酷い目に」の部分をさらに細かく指定すると呪いの強さは格段に上がる。
繰り返し申し上げるがオカルト話ではない。
「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」と言われるよりも、「明日、学校の前で事故に遭えばいい」と言われる方が気味が悪いっていうだけの話なのだ。何の事はない、ギャンブルと同じ。細かく指定して当たる確率が低いところに張った方が配当が高いってだけの話である。「明日、学校の前で事故に遭えばいい」なんて言われて、実際に翌日学校の前で事故に遭う確率なんて天文学的な低さである。潜在意識で惹かれる事を鑑みても、まず有り得ない。
要するにロイヤルストレートフラッシュ「明日、学校の前で事故に遭えばいい」を狙う人は少なくても、スリーカード「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」を狙う人はそこら中に溢れかえっているって事だ。
しかしそこでご存知の通り「人を呪わば穴二つ」という言葉がある。ここまで説明したらもうお分かりかだろうか?「あのときあいつにあんな事を言われたからこんな目に逢った」を体現した人間は感情的にはもちろんそこで完結しない。呪いには呪い返しが付き物と言うのはそういう事だ。神や悪魔が代償を回収に来るなんて話ではなくて、言葉で受けた記憶は反射対象が明確ってだけの事なのだ。「いつかどこかで酷い目に遭えばいい」をくらった人は、言われた事を忘れているか、あるいは「…あいつがあんなことを言ったからかもしれない」と思うぐらうだろう。だけども「明日、学校の前で事故に遭えばいい」を不幸にもくらってしまった人は「完全にあいつのせいだ!」と思うに違いない。
随分ざっくりとした説明になってしまったが、これが僕の思う「呪」だ。ちなみにレベル3以上は実際の行動に出る事。しかし実際の行動と言っても、あくまで呪いであるので、相手に直接的な危害を加えるのではなく、それこそ藁人形に五寸釘を打ってみるだの、暗い部屋で魔法陣を書いてみるだの、個人的な趣味の領域にとどまった話である。まあ、オカルト話でそれらが人に見られたら失敗して自分に呪いが来るって話も、上記を諸々鑑みたら合点がいくことだろうと思う。だって誰かを憎んだ挙句にそんなキモチ悪い具体的な行動に出てたのが判明したら、その後自分が酷い目に遭うのは必然であるはずだ。呪いはオカルトじゃない。コミュニケーションにおける必然なんですわ。
そして「呪」の概念さえ理解してもらえれば「祝」は単純にその真逆。しかし「祝」は「呪」に大しては実にささやかである。「呪」の例えでギャンブルを持ち出したが、それに対して「祝」はコツコツ働く事だと考えてもらうとわかりやすいかもしれない。日常的な「祝」は奇跡や呪文なんかではもちろんなくて、神前の祝詞ですらない。「おめでとう」や「ありがとう」、または「頑張って」や「気を付けてね」等のごくありふれた労いの言葉や挨拶なのだ。放った側も受けた側も憶えていないし覚えていない。でもその瞬間や、その後のある刹那、ちょっといい気分になる「かもしれない」ぐらいのささやかなものなのだ。でもこれが積み重なると人の行動に大きな結果を齎すのだ。
でも聞いてほしい。僕は思いもよらない場面で輝くような「祝」をもらった。
滅茶苦茶に端折るが、物件を燃やしてしまった。当然のように「呪」を覚悟した。代償を払う覚悟は完全に出来ていた。でも貰ったのは「祝」だった。しかもロイヤルストレートフラッシュに張ってくれた。
「これで厄が落ちたから必ず成功するね!大丈夫!」
これは「祝」であるが「呪」でもあるのかもしれない。僕はもう成功する以外の選択肢はない。一切ない。やるしかない。
あれから7年。ラーメン屋は順調で店舗も増えた。スタッフも増えた。僕はあの時とは比べものにならないぐらい豊かになった。
しかし2020年4月13日現在、After COVID-19 30日目ぐらい。ラーメン屋はまた佳境に立たされている。でも必ず乗り越えられるであろう。だってロイヤルストレートフラッシュの「祝」と「呪」を受けたのだ。成功以外の選択肢なんて無い。
でも安心して欲しい、再現性は必ずある。というか再現性しかない。この音声を聴いてもらえばわかるのだが、僕は本当にどうしようもない人間で何も秀でているところがない。しかしながらラットレースを抜ける事が出来た。それは何故か。ただ単に借りた物件を燃やしても諦めない「竹を割ったような粘着質」みたいなガムシャラさがあっただけなのかもしれないけれども。
別にラーメン屋じゃなくてもいいよ。でも頭も悪くて特段なんのスキルもない金もない与信も人脈もない人間が勤め人から抜け出すにはやっぱりラーメン屋が最も早いよ、そんな与太を聖帝に聞いてもらったんだ。
君もきっと上手くいく、さあラーメン屋をやろう。
をはり。
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