執着

☆だいぶ偏った話になりました
☆閲覧注意
#袋綴じ推奨



精神的に自分の一部を切り離すみたいなものが、あったとして、それが例えばガンみたいなものであっても、捨てられないのは執着というものだろうなと。

執着というのは、妄執というか、やっぱり感情の塊がぎゅっと詰まったもので、決してポジティブなものばかりじゃないけれども、捨てられない

ああだから、こうだから、という理由が具にもつかない物になっても、そう理解しても感情が引っ張られるのは、言葉には言い表せない気持ちがずっと凝って残り続けているから

良い執着というか、強迫観念とかいうものは、持っていても罪悪感があっても、許されている気持ちがする。まあ、執着は執着なんだけど

うまく言えないが、心だけはどこにでも行ける、何にでもなれる。そういうのがストレスをためない方法だと思うのだけれど、なかなかうまくいかない。

どんな角度からもものを考え、どんな立場からも寄り添ってみる。そうすれば他者との軋轢がへる。ちょっとだけ、他人を理解することで、自分の考えがどんなものかを理解する。お互いにどこが理解できないのか理解する。
決して、イコールにはなり得ない他人の事をちょっとだけ理解するとこういう人なんだなと、自分のなかでマッピングできて、衝突を避けることができる

その角度はきっと4次元的なものでなくてはならない。想像もつかない立場のひとがいる。どういう立ち位置にしろ、その人がどういう環境にしろ、適切な距離感をもって関わっていかなければならない。清濁、白黒、貧富、そんなただ2次元的なことだけで、理解したことにならない。理解できないことがある、わからないことがある。それが大前提なのだ。
全く重なり合わない価値観の人がいる。そこが出発点で終着点。
ひとも自分も流動していく中で、立ち位置も距離感も変わり続けていく。それを泳ぎきるには、自由である自分が必要だ。
何もとらわれない、少なくとも自分自身の中では、どこへでも行ける心がいる

執着はそれを阻害する。自分のどこかに重力が発生する。それも自分なのだろうけど、なんだか苦しい。重力が発生することで自分の中で方向軸が発生する。その方向軸から抜け出せない感じがするのだ。自由じゃない自分はイヤだな。

価値観が囚われる。つまらないきっと。自分のものの見方はあっていい、でも、違う角度から見れないのはイヤだ。定まっているようで、定まっていないかたち、そういうもので満ちている。から、きっと、想像もできない価値観を認めることができる。

こうでなければならない、は存在しない。すべてはあらゆる確率のパラメータだ
どのさじ加減なら、少なくとも自分自身が楽に呼吸できるのか、自由じゃないとその都度自分の姿勢を変えることができない。

方向を持たない自分はどこにもたどり着けないのかもしれない。逆に言えば、こうでなければうまく呼吸できないという方向に出会ってないだけかもしれないが、今の所、執着からは自由でいたい

#今日の戯言

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