パネットーネという魔物

442年ぶりだという皆既月食が神秘的に見えた満月の夜、俺は疲れていた。。。

前日の夜に最初の捏ねを終わらせ仕事を終え、この日は朝6時に店に入った。

発酵具合をみて、7時半から *本捏ねをした。

*(パネットーネは1回捏ねたら8時間発酵させ、もう一度捏ねる。これを本捏ねという)

前日は市場にも行ったので、俺は寝不足気味だった。

いや、ここ数年は、毎年この時期はこんな感じだ。疲れなんて覚悟の上だ。このご時世、やりたい事がやれるだけ有り難い。

話を戻し、月食のあった日の俺は、そんな疲れを感じさせないほど本捏ねに意欲を燃やしていた。

本捏ねをスタートする。

いつものように緊張感に満ちながら、大量の卵とバターを投入して行く。

この日は料理教室の日で生徒さん達が来てしまうので、捏ね上げて片付けまでを絶対に9:45までに終えなければならない。

気が焦る。

しかしなんとか良い状態で捏ね終えられた。

実は前日の捏ねは失敗していて、今季の勝率は5割。この日に失敗すれば負け越す俺。

この成功は感無量だった。

Instagramのストーリーには「あとは焼きだけ!」なんてアップしていた。

料理教室の生徒さん達が笑顔でやって来た。

俺も笑顔だった。

笑顔になれていて良かった。

レッスン中、パネットーネの成形に時間を割くなどご迷惑をおかけしながらも、生徒さん達の優しさに救われパネットーネは順調に型に収まり、最後の発酵のホイロに入った。

ここからがまた長い。

夜の部の料理教室の生徒さん達がやって来る。

発酵は遅めで夜のレッスン後に窯入れとなりそうだった。

安心して夜のレッスンをし、片付けを終え、ホイロを覗く。あと1時間で焼きに入れる。

そう。
1時間、俺に空きの時間ができた。

小腹も空いていた。

ここ1週間、フィオッキはありがたくも満席が続き、この日も前日も朝が早く仕事尽くめだった俺には、少しオフの時間が必要だった。

いや、オフを味わいたいという俺の欲求が湧き溢れていた。

ちょうど俺の店の前には和食の由という美味しい小料理屋さんがある。

俺はコックコートを脱ぎ捨て、さっそうと由さんの暖簾(のれん)をくぐった。

疲れていたのだろう。ビールがえらく回る。

しかしその時の俺はパネットーネの成功を前に喜びを感じ、疲れなど気になっていなかった。

美味しいお料理を摘み、グラスのビールを飲み干し、俺は店に戻った。

ホイロを覗くとパネットーネ達が「焼いてくれ」と俺に問いかけていた。

ふんわりと触れあがった生地は本当に愛くるしい。。

クープを入れバターを乗せ160℃に上がった釜に入れる。1時間で焼き上がる。

その間にまた酵母を捏ねて、、

さて、
あと30分、俺にまた空き時間ができた。

フィオッキのホールの椅子に座る俺。

さっきのビールが五臓六腑に染みわったていたことを感じ、意識がぼんやりしてきて。。。。。

。。。。

。。。

。。


パン釜は焼き上がり時刻になると心地よい音が店中に響き鳴る。

。。。

。。


気づかなかった。


いや、気づけなかった。

。。

目が覚めたその時、俺は焦りと恐怖に満ち溢れながら時計を見た。

30分もオーバーしていた。

釜を覗く。

とても良く膨れ上がって焼けていた。そりゃそうだ。生地は良い感じに捏ね上げられていたのだから。
ここまでどれだけの時間を費やして来たか。。。

しかし釜のパネットーネはいつもとは違う色をしていた。

チョコレート思わせるその色は、俺に「絶望」という二文字を叩きつけた。

釜から出し、串を刺し、逆さまに吊るして冷ます。

成功した時のこの作業はたまらい幸せだ。

しかしこの夜は違った。

絶望と落胆とそして、、、

あそこでビールと小腹を満たしたいあの小一時間の欲に、俺は完全に負けたのだ。

情けない。。

すっかりと皆既月食は終わっていた。

パネットーネは仕込みと準備がやたらと長い。

「成功という余裕、は成功してから味わえ。」と頭の後ろ側から聞こえ続けながら店を出た。

夜空には満月が美しく輝いていた。

ただただ、この夜の満月は俺には眩しすぎた。

次、頑張ろう。

一つの失敗は一つの成功でしか癒せないのだから。


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