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「好きなものと欲しいものが違う」現象との付き合い方を探る

ヒントはガールズの皆さんの記事にあった

自問自答ガールズの方の記事で「前に試着したコートが忘れられずもう一度お店に行って試してみたら、びっくりするほどときめかなくなっていた」という話がありました。

自分の中で何かが決定的に変わってしまったこと、って結構ショックなことないでしょうか。
それは、「朝でも夜でもコーヒーを飲むくらい大好きだったのに、今は紅茶しか飲まなくなった」ぐらいの些細なものから。(このあたりはまだ取るに足らない)
青春を捧げたアイドルたちの曲を少しずつ聞かなくなっていったり、一生ものの体験だと思っていた海外旅行の記憶が少しずつ薄れていったり。(このあたりは何となく切ない)
はたまた村上春樹の小説に出てくるようなドラマチックな過去の自分との決別かもしれない。(このあたりまで来ると多分演歌バッグなどを買わないとやっていられない)
変化するのは多分しょうがないことなのに、罪悪感を覚えてしまうのは、理想の自分像はきっと変わらず好きなものを大切にしているはずだと、思ってしまっているからかもしれません。

友人で、10年近く前に発売されたゲームのことがずっと大好きで、今でも登場するキャラクターを推している子がいます。大好きなものをそのまま真空保存して変わらずずっと思っている。そんな風にいられたら素敵だなあ。その子みたいになりたいなと、熱し易く冷め易い私はそう思うのです。

でもどうやら好きだけではだめらしいです。特に自問自答ファッションにおいては。

”ときめくってことは、「なりたい、似合う、好き」が揃っているってことだと思う”

思い返せば、自問自答ファッションとはこの3つを満たす究極の服を探すための哲学なのでした。もっとも大事な部分忘れかけてました…

"せっかくときめいた物があったのに、似ている違う物を買って使うこと、はどうか。
私は、 その時の「なりたい」に近づくための精一杯の挑戦。
できる範囲の精一杯の勇気。だったのかなって思う"

先日自分が書いた記事の中で挙げた「好きなものと欲しいものが違う」現象、「なりたい・好き・似合う」の3つが揃っていない状況なら起こって当然なのかも。モヤモヤするのも、「なりたい」に近づこうともがいて葛藤しているからなんだと思えば、ちょっと自分を許してあげられそうな気がします。(ブラボーなかまちさんの記事に救われました。ありがとうございます)

昔買ったバーバリーのバッグのこと

また話が変わるのですが、先日こちらの記事を読みました。

寿命を迎えた靴を手放すことがなかなか出来ないという参加者からの相談に対して、あきやさんが「卒業式としてnoteを一本書くのはどうか」とアドバイスされていたのがすごく良いなあと思い。(レポートをまとめてくださったあいさん、ありがとうございます)
同時に、そこまで思い入れのある靴や服を、私は多分持ったことがないんだなと思いました。

そこで思い出したのが、バーバリーのバッグ。私がまだ社会人になりたてぐらいのときに海外に行ったとき勢いで免税店で買ったあのバッグは、購入経緯も処分時もエモーショナルなエピソードはついぞ生まれないまま終わってしまったのでした。肩がけの、A4サイズの書類とノートパソコンがしっかり入るバッグで、買った当時は多分キャリア志向もあったので自分に箔をつけたくてバーバリーを選んだんじゃないかなと思います。親にお金を借りてめちゃくちゃ無理をして買いました。普通に仕事や出張で使っていたし、プライベートでも、自分を大きく見せたいときに持っていったような気もします。

でもあのときの私に「良いものを長く持つ」という考えを本当に理解して体現することはできなくて、大事に使ってあげられなくてすぐどこか汚くしてしまって、修理に出すときもあまり深く考えずに適当な業者に出してしい、きれいに保ててあげられませんでした。そうしていつしかそのバッグは使わなくなり、数年前に「処分しようかな」とリユーズの買取に出してみたのですが、「値段はつけられません(=買い取れません)」と言われ究極的に落ち込んだことを思い出しました。

自分に落ち込むし、こんな使い方をしてしまったバッグに対してはごめんねだし。何かこの気持ちってデジャヴというか…「たいして愛情を注いでもあげられなかったけど結末もこんな情けない終わり方で凹む」出来事って、この1件だけじゃなくこれまでの人生でたくさんあったから、「好きと公言するものなら愛情を注ぐべし」のような戒めが自分の中に生まれているのかもしれないです。

好きなアイテムを大切に敬意を持って使っていけたら理想です。そうは言っても私はどうやらまだ全然一人前の自問自答ガールズになりきれてないし、そんなことを言っている間にも人生は続いていくし、旅の終わりはまだずっと先だし。

"靴の購入を「靴大学入学」と例えていたけれど、思えば「卒業」もあるんだなと。まさに大学ですね。
靴を履いていろんなとこに出かけて、新たな経験をするのが「単位修得」なのかな"

あいさんのお言葉

(こういうモヤモヤの解消も「単位修得」といえないものでしょうかどうでしょうか…)
でもこの「供養方式」すごく良いなと思ったので、これからも何かを手放すときはこうして記事を書くなりで卒業→新しい出発をしていきたいですね。

コンセプトって何だろう

自問自答ファッション。考えているはずなのにどんどん分からなくなっていきます…服って何だろう。ファッションって何だろう。
イヴ・サンローランいわく、

"ファッションは時代遅れになるが、スタイルは永遠である"

少し前までやっていたこちら↑の展示の中でたしか引用されていました。
(展示すごく素敵だったけど私の中ではやっぱりマルジェラの服の方がワクワクするなあと思いました…このモヤモヤの解消にはもう少し時間がかかりそうです)

ファッションは刹那的なもの。
スタイルは普遍的なもの。
コンセプトは何だろう、と考えたとき。
多分「思考」なんじゃないかなと思いました。

始まりがなくて終わりがない川の流れのようなもの。
完成されていない故に常に可能性に満ちているもの。
たとえばそれはアーティストのスケッチブック。作家のメモ帳。旅人の足跡。
常に形を変えて模索を重ねて創造を続ける。

私たちはいつでも生まれ変わることができるのかな…そうできたら良いなあと思いながら、もう少しまだこのモヤモヤと格闘をし続けます。