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憧れの魔女

愛媛の松山に、「露口」というバーがあった。
あったと、過去形で書くのが寂しくなるのだが、マスターは85歳、マダムの朝子さんは80歳と老齢で限界だったのだろう。64間続けたの名店の幕を去年降ろした。

私の長年のバー通い好きの人生の中でも、1,2位を争うぐらいの素敵なバーだった。

私が特に惹かれたのは、マダムの朝子さんだ。
すごくおしゃべりな小柄なマダムなのだけれど、人の気分を害することの一切ない、嫌みなところが全くない人だった。
生まれつきの性格もあるのだろうが、長年の接客で身に着けた高等な技術とも思わせた。

とにかく、周りの人達たちを元気にさせる独特の伊予弁。

初めて主人と訪れた時、東京からのお人でしょうとズバリと言われた。
そうですよと答えた後の、朝子さんのコメントが良かった。
モデルさんと、芸能事務所の方でしょう?と歳の差凸凹夫婦の私たちを評した。
確かに、長身のわたしと、小柄な主人はそう見えたのかもしれない。苦笑いで、夫婦なんですよと主人が答える。

明日は、須之内徹コレクションのある久万美術館に行くんですよ、伊丹十三記念館に行くのも楽しみにしているんですよと伝えたら、ポップコーンのお通しを出しながら、ご主人、絵は描きなさらんの?尋ねてきた。
僕に絵心はないんですよと答えたら、あら~、綺麗な奥さんの絵を描きなさいや!と最高の笑顔で答える。
とにかく彼女は、周りのお客さんが自然と笑顔になってしまう魅力の塊のような老夫人である。
サントリーの角のハイボールで有名な店で、ほとんどの客が同じものを頼むのだが、ギムレット、マティーニと頼んでみたらとても美味しく驚いていた。
そう伝えると、カクテルバーやけんねとマスターの顔を見ながら、得意気な笑顔で朝子さんが答えた。

こんな風なおばあさんになりたいなと思ったのは2度目である。

目黒に住んでいた30年前、近所に小さな郵便局があった。
その日はとても暑い日で、しかも混んでいて、お母さんが連れた赤ちゃんは泣き喚き、気の短い客はいつまでかかるんだと大声を出す。
皆がイラつき、期限付きの支払いが無ければ私は席を立っていた。

そこに、また更なる危険分子と思われる老女が入ってきて、受付に行こうとしたら、整理券を取ってお並び下さいと疲れ切った局員が棘のある声で注意した。
その時だ。
一陣の涼風が吹いた。
とても柔らかい涼やかな声で、ごめんなさい、よく分らなくってと穏やかにそのおばあさんが答えた。
魔法のように、その一声で、イラついた狭い一室が落ち着いた。

私たち、郵便局の手続きごときで何をイラついているんだろうと自省するような優しい声。
あれからずっと、あんな柔らかな声や表情のお婆さんになりたいなと思い続けている。
ほんの一瞬の邂逅で、人生観が変わることがあるのだ。

私は、愛情をこめて、そういう老女たちを心の中で魔女と呼ぶ。

あなたの人生は、よい事ばかりではなかっただろう。いろいろな苦労もあっただろう。
それなのに、一瞬で人を穏やかな気持ちにさせる魔術を持っている。

何て魅力的な魔女たちなのだろうか。









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