アートディレクターと結婚寸前までいって、別れた話

20代の後半から、30代半ばまで、名の通った年上のアートディレクターと恋愛し濃密な時を過ごした。

お互いに家は別々にあったのだが、彼の住むインテリア雑誌に何度も取り上げられる家を維持していくのが経済的に難しくなり、仙台坂上のマンションを引っ越し、目黒の私の家に一緒に住むようになった。

業界の話は分からないが、重鎮になればなるほどギャラも高くなり、次々とギャラも安くセンスの良い若手に追い上げられていくということだったらしい。
仕事は必然的に減り、経済的に苦しくなっていたのだ。

とにかく、センスは良いし、とても有名な仕事もこなしていたけれど、プライドが高すぎてついていけない人も多かった。

彼の忘れ難いエピソードの一つとして、彼の母親の写真の話がある。
二人で彼の家族のアルバムを見ていた時、お父様はとても恰幅の良い紳士で自慢されたのだが、誰の目にも彼のお母様だと思われる写真は素通りしてページをめくる。美しい女性とは決して言えないけれど、彼にそっくりな昔の昭和のお母さんを、彼はお手伝いさんだと言い放った。

彼の美意識に、自分の母親の容姿はそぐわなかったのだろう。

その時、彼を愛するメモリが1メモリ減った。いや、10メモリか。

それでも、彼から学ぶことは多く、骨董や葉巻やバーでの酒の作法など色々な美の基準を教えてもらった。
だが、骨董の目利きではあったかもしれないが、実際に茶道を習っていたわけではないので、一緒に呼ばれた茶会の前に、茶碗は何回右に回すのかを聞いてきたりする。

本物と偽物が交錯する。

若かった私は、翻弄された。

でも、今の歳の私なら分かる。

それが、自分の名前の金看板を背負い、アートディレクターとして実力と見栄とプライドの世界で生き抜いてていくことだったのだなと。

オークラのバーのカウンターで飲んでいた時に、喧嘩になったことがある。
女性とホテルのバーで飲んでいて、喧嘩になり、女が席を立ちその後バーテンダーにヤレヤレと肩をすくめるまでが、彼の中での作られたストーリーだったのだろうけれど、その見え透いたストーリーに私は乗るつもりはなく、私は頑として帰らなかった。
そんな茶番に繰り返し突き合わされうんざりしていたのだと思う。
業を煮やした彼が先に席を立ち、その後、私が私の家に帰ったら、ちゃっかりベッドで寝ていた。

見栄張りな彼は、経済的に豊かではないことを隠すために、私に無言の要求をしていた。
その儀式はこうだ。
キッチンのカウンターにそれなりの金額の入った封筒を私が置いておく。
彼は、何も言わず、その封筒を持って行き、お互いにそのことには一切触れない。

彼が経営していた南青山にあった骨董店と併設していた葉巻屋を閉めてから、鎌倉にバーを出した。
それから、鎌倉で暮らすことが多くなり、私の家で過ごすことが減って行った。

これで別れられる…

それが偽ざる私の本心だった。未練もあったし、心の底から愛していると思ったこともある。
しかし、それは私には重荷だった。
婚約していたけれど、結婚していたら間違いなく離婚していただろう。

今になって思えば、とても印象的なことがある。

例えば母。

私は、本当に大事な人に彼を会わせたことは無かった。
本能的に、いずれ別れる人なのだと分かっていたのだ。

彼は、色々なことを学ばせてくれた。

真に美しいというのは、こういう物だということ
見栄で生きることの虚しさ
人を深く愛するということとそのしんどさ

高い勉強賃を払った恋愛だった。

それでも、一時期は、彼を深く愛していた。

とても、とても深く。

あなたと出会わなければ、私の人生は変わっていた、間違いなく。

彼が亡くなった今は、感謝の言葉を贈る。










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