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研究書評 2024年度


(0411)

選択した論文

ダニエル・リフ&スティーヴン・レイシー&&フレデリク・フィコ著 日野愛郎監訳千葉涼&永井健太郎訳『内容分析の進め方:メディアメッセージを読み解く』2018年、勁草書房

選択理由

本文献は合同ゼミの際に相手方の教授の方から勧めていただいたものである。私の研究の分析手法は、「内容分析」に位置付けられている。そして、その手法に則って研究を進めるのであればその教科書として良いとして、勧めていただいた次第である。

この書評では、本文献のイントロダクションの中の、マスコミュニケーション研究・強力効果・限定効果・随伴効果・内容分析とコンテンツ生産の文脈・コンテンツの中心性について取り上げる。

要約

マスコミュニケーション研究
マスコミュニケーション研究の重要な区分には観念論と経験論というものがある。観念論は精神とイデアが究極的な源であり本質であると主張するアプローチであり、経験論は観察と実験が知識を生むと主張するアプローチである。内容分析は後者である。また、一つは還元論と全体論という区分がある。マスコミュニケーションは基本的な個別の要素へと還元することで理解することができるという「還元論」という考え方に案に立脚している。

強力効果
これらはプロパガンダなどが挙げられる。皮下注射モデルや弾丸効果とも言われ、オーディエンスに説得的メッセージを打ち込むことで送り手が望む効果が得られるというものである。一方でこれらはオーディエンスが無力であるという前提に(ある程度)根付いている。

限定効果
実験室では、オーディエンスへのメッセージで知識を変化させることはできても、態度や行動は変化させられなかった。オーディエンスは一様に無力で受け身な存在ではなく概して画一的ではない。家族や共同体が彼らの重要な決定要因であり、マスコミュニケーションというよりはあくまでその中の一つでしかない。

随伴効果
コミュニケーション効果は単一の原因の結果ではなく、さまざまな随伴条件をしていた。ここでは、その中のダイナミクスとして、メディアを利用する消費者が得る心理的な満足等が挙げられる。内容分析は強力効果をある程度前提とした枠組みでありながら、随伴効果が支持される現代においてもなおよく利用される。

総括

今回はコミュニケーション科学の「教科書」を読む、といった試みである。私の研究は論文のアブストラクトを元にソーシャルメディアにおけるコミュニケーションの様相を探るというものであったが、強力効果、限定効果、随伴効果如何なる思想を持って分析されたものかというものは考える必要があると感じた。 
さらに、私の研究は還元論ではなく、全体論の解明を目的としているということは、ゲートキーピング理論における双方向のゲート生成を考えても、明らかである。一方で、強力効果などをはじめとした個別のコンテンツ分析はソーシャルメディアエコシステムとも言えるカオスを解明できるだろうか。一方で、一つ可能性として感じたことは、ソーシャルメディアは情報の摂取のみならず、共有や交換といったダイナミクスを観測できる点である。文献内においても取り上げられていたように、随伴効果説では家族やコミュニティといった共同体に影響を大きく受ける。そのため、情報摂取のみならず、本来は内容分析の「外」として認識されていた環境のダイナミクスを観測することもできるだろう。一方で、それらは特定のユーザを研究対象としプライバシー上の影響を及ぼしかねない。
また、経験的でなく、観念論的な研究の視点を設けることは、卒業論文の執筆のために必要があると言える。今までは定量のみに傾倒していたが、検討したい。

(0418)

選択した論文

ダニエル・リフ&スティーヴン・レイシー&&フレデリク・フィコ著 日野愛郎監訳千葉涼&永井健太郎訳『内容分析の進め方:メディアメッセージを読み解く』2018年、勁草書房

選択理由

前回の続きの書評である。内容分析の手法を深めるため採択した。

要約

内容分析とコンテンツ生産の文脈
従来のコミュニケーション研究ではコンテンツをオーディエンスの満足や認知的イメージといった「結果」をもたらす「条件」であると見なされてきた。一方で、コンテンツはさまざまな条件やプロセスの結果もたらされるものであると意識する必要がある。例えば、ニュースを生成する報道機関は採択する情報や画像を取捨選択する。(ゲートキーピング理論)

コンテンツの「中心性」
理論構築において、コンテンツの選考条件、コンテンツ、それらの効果というコンテンツを中心に据えたフローで考える必要がある。先行条件には「個人的な心理状態や職業」「社会的・経済的・政治的・文化的要因、もしくはそれ以外」といったものが挙げられる。効果としては「想定通り」「即座の・遅れての」「個人的・社会的・文化的」といった尺度がある。
一方で、内容分析の研究の文脈ではこれらが体系だって分析されるとは限らない。72%もの研究がコンテンツの先行条件と効果の理論的枠組みを欠いているという。
メディア現象を予測し、説明し、コントロールするという科学的な目標にむかって、達成には遠いものの精力的に研究が行われている。

コンテンツの記述という目的
ここでは「記述的な」内容分析について考える。理論構築でない内容分析、つまりは事例検討である。このような研究は「リアリティチェック」としての役割がある。特定のメディアを分析した際に、それらが実社会との大きな乖離がある場合、それらはメディアの歪みとして認識することができる。

総括

今回は特に理論的枠組みの提唱と記述的な内容分析という2つの対照的な手法について検討した。現時点での研究計画は理論的枠組みの提唱(には到達しないとしても、ある程度の仮説は立てたい)であるが、記述的な内容分析というものにも非常に魅力を感じた書評であった。記述的な例で考えると、2024年のアメリカ大統領選挙における国内の反応などが考えられる。アメリカ大統領選挙はソーシャルメディア上の重大なアジェンダのうちの一つであるし、それらのダイナミクスを計測することは、国内の主要な論調の特徴を検討することにもつながるし、ソーシャルメディア特有の陰謀論といった属性のユーザの分析も行えるだろう。一方で、ホットなテーマであるがゆえに同様でかつ大規模な研究が行われる可能性は十分にあるが、研究費が調達できるのであれば、API取得等も検討したい。

(0425)

選択した論文

Goyanes, M., Borah, P., & de Zúñiga, H. G. (2021). Social media filtering and democracy: Effects of social media news use and uncivil political discussions on social media unfriending. Computers in human behavior, 120, 106759.

選択理由

一旦数理モデルでの分析ではなく、文献研究をしたい。今回はソーシャルメディア特有の政治コミュニケーションモデルを取り扱う文献を採択した。卒論に向けて、ソーシャルメディアにおける政治コミュニケーションの要点を整理することを目的とする。

要約

今日のソーシャルメディアでは極性化やヘイト、相容れない見解といったコンテンツに晒されている。そのような中、ユーザはブロックをはじめとする回避戦略を取ることがある。本研究では米国のパネル調査(W1=1338/W2=511)に基づいてソーシャルメディアニュースの使用が非文明的(?)な政治的議論への露出に関連しているかどうかを調査し、両方の構造がユーザーの非フレンドリー行動に因果的に影響を与える方法を探ることを目指す。

ソーシャルメディアはユーザーの意思によってフィルタリングが可能である。フィルタリングのプロセスを理解することは、市民が同様の政治的見解を持つ他の人と話す傾向がある「好感的な情報環境」を形成する一助になる可能性があるため、重要である。また、不快なコンテンツをフィルタリングすることに、アルゴリズムが一躍買うことも考えられる。

本研究では「フォロー解除」に焦点を当てる。「フォロー解除」に関する議論にはかなりの先行研究がある。一方でメディアや議論の属性にはあまり焦点が当てられていないことが現状である。そこで、本文献では3つの目的を立てている。1つ目がソーシャルメディアが「横暴な」議論に与える影響を検討すること、2つ目が、ソーシャルメディアにおけるフォロー解除を行うプロセスにおいて変数の影響を因果的に決定すること、3つ目がフォロー解除とソーシャルメディアの使用の関係性を検討する上で、非市民的な政治的議論の偶発的な役割を考えることである。(おそらく野蛮な議論と非市民的な議論は同義と考えて良い)

1.ソーシャルメディアのフィルタリングとは
ソーシャルメディアには多様な属性のユーザが参加するために、政治的意見の総意に晒される可能性が高まる。依然として、意見の相違への暴露は人々の社会心理状況に同じ影響を与える可能性がある。そのような意見への対峙は政治的参加を高める可能性も、低下させる可能性もあると先行研究によって明らかにされた。

相違意見への反応の一つにフォロー解除がある。ダイアドの関係を終わらせるための意識的な行為である。特に強い政治イデオロギーを持つ人々にとっては、これらは最も一般的な手段であり、非常に厳しい。これらは戦時中・通常時・政治的混乱時など様々なフェーズで起こり得る。

1.2非市民的な政治コミュニケーション
多くの論者が政治コミュニケーションにおける「無礼」を定義する。中でもPapacharissi(2004)は「無礼」を「民主主義の集団的伝統に対する無礼」と定義した。これらは民主主義と市民社会の形成と発展に有害であると従来研究でも明らかにされてきた。無礼はフィルタリング行為んい密接に関係している可能性がある。

1.3仮説

・ソーシャルメディアのニュースコンテンツとの使用は、非市民的な政治議論に積極的に(正の相関を持ち)関連している。

・野蛮な政治的議論は、ソーシャルメディアユーザーのフィルタリング(つまり、友達解除)a)横断的に、b)タイムラグ関係、c)パネル自己回帰関係に積極的に関連付けられる。

・ソーシャルメディアニュースの使用は、ソーシャルメディアユーザーのフィルタリング(つまり、友達解除)a)横断的、b)タイムラグ関係、c)パネル自己回帰関係に積極的に関連付けられる。

・a)横断的、b)タイムラグ、およびc)ソーシャルメディアニュースの使用(X)とソーシャルメディアの非友達解除(Y)の関係に関する野蛮な政治的議論(M)のパネル自己回帰的、寄与発散正の相互作用効果がある。

ー今回は数理はカットー

4.結論・議論
非市民的な議論は多くのオーディエンスが離脱すること、飽きること、怒りを掻き立てることにつながる。その方法として、フィルタリングがあり、本文献における研究はその議論を前進させた。

調査の結果、ニュースにソーシャルメディアを使用するだけで、ユーザーが非市民的な政治的議論(H1)と、興味深いことに、フィルタリング(H3)に及ぶ可能性を大幅に直接的に高めることが示された。

したがって、これらの調査結果は、政治的不協和音の視点やニュースの入力に自分自身を孤立させることは、広範で成長しているソーシャルメディアの行動である可能性があることを示している。

この効果は、反体制派の他人をブロックまたは隠すユーザは、異質な見解や少数派の社会集団の顕著な問題にさらされにくくなるため、言説的、情報に基づいた参加型社会の衰退を促進する可能性がある。

総括

ソーシャルメディアのフォロー解除やブロックという「拒絶」という機能に注目した文献であった。このように、何かしらの機能と、それらが民主主義的なコミュニケーションや参加に及ぼす影響を検討することは一種有効な視点であると思った。ソーシャルメディアの機能は、政策によってもたらされる制度や構造に似ている。ソーシャルメディアという構造を検討する上で、その構造を形成するための一種のレギュレーションの検討は非常に価値があると思った。

ソーシャルメディアの功罪について明確に結論を出すことはできないが、様々な実証研究の積み重ねによって、それらが民主主義の文脈においてどのように理解されるようになったかについてはある程度文献研究で理解ができる。

(0502)

選択した論文

Hanna, R., Rohm, A., & Crittenden, V. L. (2011). We’re all connected: The power of the social media ecosystem. Business horizons, 54(3), 265-273.

選択理由

やや古い文献であるが、ソーシャルメディアのエコシステムについてはどうしても触れたかったため選択した。今回もいわゆる文献研究の積み上げの一つである。中間発表に向けてある程度全体感を持って行きたい。
今回はわりと消費者行動論的な側面が強い文献を引いた。やはり、経済学の文脈で用いられている研究を政治学に輸入することはよくあるようで、私もよくよく経済学の文献は読むべきであると感じている。ソーシャルメディアエコシステムの議論はまだまだ未熟であり、議論の余地がある。

内容総括

ソーシャルメディアのエコシステムは消費者体験を中心としている。コーコランはエコシステムを3つのメディアタイプに分けている:オウンドメディア(マーケティング担当者によって管理される。例えば、会社のウェブサイト)、有料メディア(マーケティング担当者によって購入される。スポンサーシップ、広告など)、およびアーンドメディア(マーケティング担当者によって管理または購入されない)また、LiとBernoffは5つの異なるタイプの社会的行動に基づいて、エコシステムのアクティブな参加者をセグメント化する。クリエイター(公開、維持、アップロードなど)、批評家(コメント、レートなど)、コレクター(保存、共有など)、ジョイナー(接続、団結など)、観客(読書など)。たがって、マーケティング担当者は、さまざまな社会的行動セグメントにおける消費者間の違いを理解しながら、これらの複数のプラットフォームをナビゲートして統合することを学ぶ必要がある。今日のマーケティング担当者の中には、会社のソーシャルメディア戦略を理解し、管理するための体系的なアプローチで活動している人はほとんどいない。そのため、彼らはファンダメンタルズを理解するのではなく、最新のアプリケーションを追いかけ、要素をスタンドアロンプラットフォームとして扱う危険性がある。ソーシャルメディアエコシステムの概念により、マーケティング担当者は戦術ではなく、全体的な戦略の観点から最初に考えることができます。エコシステム内で作業することで、マーケティングマネージャーは重要な質問をすることができる。

総括

政治学の文脈で咀嚼するにはやや畑違いな文献であったが、エコシステムのアクティブな参加者を分類することは有意義であった。私はマッピングを目指しているので、ソーシャルメディアのアクターやら、歴史、もしくは作用等々、網羅する必要があると感じた。研究とは別に、教科書を作るつもりでソーシャルメディアを見つめ直したい。

(0502)No.2

選択した文献

Bennett, W. L. (2012). The personalization of politics: Political identity, social media, and changing patterns of participation. The annals of the American academy of political and social science, 644(1), 20-39.

選択理由

今回は2本取り上げた。先ほどは行動経済学的であったため、政治論を。ボトムアップ式の個別集団行動に関する枠ぐみに関する文献である。マッピングのうちの一つとして用いた。

内容総括

中東の腐敗した権威主義体制に対する広範囲な蜂起や金融危機・緊縮財政等にソーシャルメディアにおいて反対する事例がある。これらの議論は社会に流通し、全国的な会話につながった。これらのムーヴメントは社会運動に分類することは困難である。社会運動として考えるための分類法として、「central coordination:中央調整」「collective identity frames:集合的アイデンティティの枠組み」「focused political demands:特定の支持的要求の有無」等がある。一方で、ソーシャルメディアによるジェンダ形成は非常に緩やかなものである。さらに、これらは排他的な集団アクションの枠組みよりも好意的であり、参加を促すことができる。これにより、従来触れられなかった政策アジェンダが触れられる可能性がある。一方で、これらの要求は常に受け入れられるわけではなく、たとえば右派は不平等の是正が消費能力を損なわせるのではないかと危惧する場合がある。

総括

単純に和訳がしづらく、読みづらい内容であった。ただ、デジタルメディアを通じたボトムアップ式の政策アジェンダ形成を記述的に研究することにも意義があると感じた。ソーシャルメディアの大きな正の側面であると考えることができるため、卒論として取り扱うことにも意義があると感じた。理論ベースでの検討が十分になされていない領域であることが推測され、研究の余地があると感じた。緩やかな集合をどのように理解するか、という点が非常に重要になる。

(0509)

選択した文献

小笠原盛浩(2014)「ソーシャルメディア上の政治コミュニケーションとマスメディア<特集>現代のメディアとネットワークにおける政治参加」『マス・コミュニケーション』85巻、63-80

選択理由

「限定効果説」の検討にシフトするために、限定効果説の教科書的な文献を取り上げた。コミュニケーション研究の歴史において特に1940-50年代に一般的であった議論である。

内容総括

(今回は3節のみをピックアップする)
インターネット以前、以後において、人々のメディアへのチャネルは増大した。特にソーシャルメディアでは情報発信主体が増えており、内容の多様化や細分化も進んでいる。

そのような中、メディア接触が内生的に決定されるようになると、人々は政治的な先有傾向を強化してしまう「限定効果の新時代」になった。そして、サンスティーンが指摘するような、自分とはことなる情報を遮断するようになり、社会がより極性化してしまうという。極性化ではパリサーのフィルターバブル等もあげられる。

一方で、選択的回避は必ずしも行われるわけではなく、それらを否定する論者も多くいる。一方で、メディア→コミュニティ→オーディエンスというニュースの流れの中で、コミュニティとメディアが同質化する、つまり、本来コミュニティにおいて形成される政治的イデオロギー等々がソーシャルメディア上で友人や家族といった主体から共有されることがある。

ソーシャルメディア上では多様な意見に触れることもあるし、同様に極性化するとも考えられている。

総括

限定効果に対する検討を、リアルに検討したい。多くの文献で述べられているのは、「理論の検討はされているんだけれども、実社会とのギャップがある」ということである。そこを学部生なりに切り込みたい。

(0516)

今回は書評というか、メディア効果論の理論的変遷を体系的に綴る。noteによくまとまった体系レビューを公開することは、意義のあることなのではないか?と考えるようになり、今回のような試みになった。より簡潔に、より論点を過不足なく捉えたものとなるよう心がけた。

なお、先週の研究発表に集中しすぎたあまり、公開を忘れていました。

弾丸理論・皮下注射モデル

1920年代ごろから、さまざまな論者によってメディア効果に関する研究が行われるようになった。その背景はさまざまで、例えば市民を教育し啓蒙するためであったり、もしくは戦争におけるプロパガンダといった国家安全保障上の視点がある。

弾丸理論・皮下注射モデルという言葉が指し示す通り、強大なメディアとメディアからの情報の需要において無抵抗な市民といった構図をとっている。

H.DLasswellはプロパガンダをはじめとしたコミュニケーション過程の基本型を提唱した。また、キャントリルは「火星からの侵入」という火星人襲来を知らせるラジオ放送により、パニックが起こったことを報告した。これらはいわゆるパニック研究に位置付けられているが、現代の研究ではその限界を指摘するものが多い。一方これらはメディアの効果をセンセーショナルに提唱するものであり、多くの論者に影響を与えたと考えることができる。

限定効果モデル

1940年代ごろより、社会調査手法が発展し弾丸理論・皮下注射モデルが非常に「限定的であった」という学説が有力になった。

弾丸理論や皮下注射モデルと異なる点は、メディア受容において「人間的要因」が情報伝達の阻害要因として考慮されている点である。人間的要因とは何か。

 Katz& Lazarsfeldは「二段階のフローモデル」を提唱した。二段階のフローモデルはオピニオンリーダーの存在を指摘する。私たちは家族・友人をはじめとしたさまざまな隣人の影響を受け、メディア情報を受容する。そのため、メディアの持つ効果は弾丸理論におけるそれと比べ限られる。
Klapperは限定効果モデルを一般化させた。彼は多くの実証を積み上げ、限定効果のパラダイムをつくり上げた。

強力効果モデル

1970年代ごろより限定効果説に対する批判がとられるようになる。強力効果モデルが支持されるこの時代では、テレビの発達に伴いメディアの多様な側面、特に機能的側面に着目した実証が行われた。

McCombs&Shawは、メディアは何を考えるべきか(What to think)ではなく、何について考えるべきか(What to think about)という視点を我々に与えると指摘する。これらを議題設定機能(the agenda-setting function)として提唱し、メディアには大きな権力があるとした。

Noelle Neumanは沈黙の螺旋モデルを提唱した。人は孤独な存在し、「多数派に所属したい」という心理的作用がはたらく。そのため、メディアにおいて多数派とは何か・少数派とは何かといったフレーミングがなされると、少数派であるという自覚がある人は意見を表明しづらくなる。(一方、積極的に表明しようという人々をハードコアという)そのため、多数派・少数派という視点を与えるメディアには大きな効果があるとする考え方である。

George Garbnerは「培養理論」を提唱している。例えばテレビにおいて交通事故や殺人事件が多く報道されていれば、メディアの接触時間が長い人ほど「交通事故は起こりやすい」「殺人事件は身近なものである」といった考えを持つというものである。つまり、テレビが提示するリアリティを受容しやすくなるということであある。

小まとめ

ここまで、主に取り上げられるメディア効果論の理論的変遷を辿った。メディア効果論は政治的・社会的要因、情報伝達技術の発展、社会調査手法という3つの要素に大きな影響を受ける部分であると考えられる。今後のメディアはどのように変容するのか。そして、これまでの効果論はどこまで適応可能なのか。さまざまな視点が必要である。

(0523)

選択した論文

Levy, R. E. (2021). Social media, news consumption, and polarization: Evidence from a field experiment. American economic review, 111(3), 831-870.

選択理由

今後の研究は、体系的なレビューに向けた実証の積み上げに注力したい。今回の論文もそのうちの一つ。政治的二極化に対する有力かつ新しい実証である。尚且つ、フィールド実験的手法を用いている点も魅力的だ。

ソーシャルメディアの研究は、実際どのようになっているのか。議題設定機能や、ソーシャルメディアにおける政治的二極化の議論等々、さまざまな実証が行われていることは確かである。一方で、その実証研究のスタイル(?)がやや特異的であるような所感を持つ。というのも、理論の提唱といったものはあまり終始せず、重大とされる命題(例えばソーシャルメディアは政治的二極化をもたらすか)について実証で結論を出すといったスタイルが多い。やや言語化しづらいのだが、そのような印象があり、従来メディア効果論とは何か異なると感じる。考えられるのは領域横断的研究が増えたことによって、論文や論者をつなぐものが理論ではなく命題や仮説になっているのではないか?ということである。ソーシャルメディアはもはやメディアではないのか。どのように崩壊するのだろうか。学術領域を超えた視点が必要である。

内容総括

ソーシャルメディアは主要な情報ソースである。選択性メカニズムは果たしてはたらいていて、政治的二極化は起こっているのか。本文献ではそれらが実際に起こっているのかについて大規模なフィールド調査を行い検証を行なった。

はじめに、実験の導入として、被験者に「facebookを通じてアクセスされたニュースサイトはそのほかのものと比べてより分離的で親的態度に偏り、極端なニュースに関連している」ということを提供した。facebookの広告においてアメリカ人のユーザを実験に参加させた。その後属性調査を行い、リベラルな治療群、保守的な治療群、そしてランダムな対称群として割り当てた。リベラル派、保守派の参加者にはfacebook上のリベラルと保守的な記事をそれぞれ1つづつ購読するように求め、約半数がそれらを遵守した。その後、メディア効果における因果関係の連鎖をデータ収集によって明らかにした。

〜数理や設計は省略〜

今回のフィールド調査によって4つの発見があった。

1.ソーシャルメディアでのニュースへの接触のランダムな変動は個人が購読するニュースサイトの傾向に大きな影響を与える。

2.反姿勢的なニュースへの接触は個人が購読するニュースサイトの傾向に大きな影響を与える。

3.態度への変容とは対照的に、報道機関の政治的傾向が政治意見に影響を与えるという証拠は見つからなかった。

4.論文執筆時のフィスブックのアルゴリズムは、個人が記事を購読していることを条件に、反姿勢的な媒体からの投稿を個人に共有する可能性が低くなる。

これらを統合すると、ソーシャルメディアアルゴリズムが反姿勢的なニュースへの接触を制限し、それによって二極化が進む可能性がある。

総括

今回の記事の総括としては、アルゴリズムの観点に着目し二極化の可能性を指摘した。これを一つ次元をあげて検討するのであれば、「従来メディアにおいて保証されていた情報の受け手の能動性をアルゴリズムが代替することの問題」である。これらは議論の余地があるだろう。(3回の春学期の見解にやや立ち返っているが)一方で、アルゴリズムの問題は解決され始めている。卑近な例ではあるが、Yahoo!ニュースではコメント欄に多様性AIなるものを導入しており、さまざまな意見を満遍なく表示するよう努めているようである。この手の研究は、やはり新たな情報仲介者であるソーシャルメディアの運営企業の努力と実証のイタチごっこになるようだ。一方で学術がチェック機能を果たし提供されるサービスが新たな情報仲介者によって改善されるのであればそれは理想的であるとも考えられる。

(0530)

選択した文献

Terren, L. T. L., & Borge-Bravo, R. B. B. R. (2021). Echo chambers on social media: A systematic review of the literature. Review of Communication Research, 9.

選択理由

エコーチェンバーに関する体系レビューを見つけたのでピックアップ。選択理由の主なところとしては、従来効果論の言及や引用が多かったことである。また、「体系的に積み上げる」とは如何なることかという相場感を知るためでもある。レビュー研究における主観性の排除にはどのような方法論が有効なのだろう。本文献では取り扱う文献をnとして捉え、採択のためのプロセス・方法論が科学的に示されている。これらは今後の文献研究でも参考にしたい。

内容総括

ソーシャルメディアは民主主義にどのような影響を与えうるのだろうか。ICTおよびソーシャルメディアは新しい独立した公共圏をもたらし、政治的に相容れない主張への露出を増やすと主張する論者がいる一方で、エコーチェンバーの形成を通じて分極化につながると警告する論者もいる。

エコーチェンバーという巨大なテーマに対して、文献によるアプローチ、それらの類似点・相違点・利点・欠点を55件の研究の文献のレビューを通して明らかにする。

・方法論としては以下の要件を設けている
・期間指定2020年1月1日以前
・英語で書かれている査読付き論文を採択
・エコーチェンバーの概念に触れているもののソーシャルメディア上でないものは除外(除外したものとしてはサジェスト機能研究やハイパーリンク相互作用パターンなどのソーシャルメディアに特化しないものがある)
・ScopusとWeb of Scienceで検索したのちGoogle Scholarで追加検索
・検索ワードとして Social media,Social network,echo chamber , filter bubbleを用いた。

その後、関連性順で各検索エンジンからScopus222件、Web of Science169件、Google Scholar500件を合わせて891件の研究を得たのち、2人の研究者によってタイトルとアブストラクトのレビューを行いスクリーニングをした。除外基準(今回は割愛)に基づき合計3回?のスクリーニングを行い、最終的には55件の文献を採択した。

得られた結果の中で最も重要なことは、エコーチェンバーの明確な証拠を発見した研究はデジタルトレースに基づいており、証拠を発見できなかった研究は全てユーザの自己申告データに基づいていたということである。今後の研究では、さまざまなアプローチの潜在的なバイアスと、自己申告データとデジタルトレースデータを組み合わせる大きな可能性を考慮する必要がある。

総括

体系レビューの方法論に特に注目した。論文採択のプロセスは私がテキストマイニングによって数理分析を試みた際によく検討したものと類似していた。同時に、やはり客観性を担保するとなると研究者が2人以上必要となり、さらに共通認識としてのスクリーニング要綱を明確に定め文献内で明示する必要性があるということである。科学的な体系レビューとは何か。まだ手法を検討する必要性があるだろう。

(0606)

選択した文献

Wells, C., Zhang, Y., Lukito, J., & Pevehouse, J. C. (2020). Modeling the formation of attentive publics in social media: The case of Donald Trump. Mass Communication and Society, 23(2), 181-205.

選択理由

今回はやや毛色の異なる研究をピックアップした。やや実証よりの先行研究である。今回はドナルド・トランプがどのように大衆を形成したかという命題に基づいて実証を行うというものである。こういった実例に基づいて、特に政治家単位での分析を行う文献を選択した理由としては、安芸高田市市長のソーシャルメディア利用を対象として実証したいと考えたためである。石丸氏のソーシャルメディア戦略・およびエンタメ的な立ち回りは賛否あるものの「特異」である。いわゆるリーディングケース。日本というフィールドにおいて米国で主流の政治家単位の経験的実証を行うことは、社会的意義もあると思う。石丸市の戦略は、議会を機能不全にした・分断を煽った・徹底的に正しさを求め日本の政治に風穴を開けるかもしれない、等々さまざまな意見が飛び交っている。米国の論者が分極をいわゆる「悪」とするのはなぜか、民主主義のモデルはどのように推移するのか、といったさまざまな疑問に応えうる何かがあるかもしれない。やや長くなったがまとめると、実証のための先行研究として採択した。一方で、米国の政治家単位での研究はイデオロギー的なバイアスがひどい。選挙で研究が発展する米国ではドナルド・トランプを悪魔のように扱う研究が多い。中立な立場で研究するためにも手法を検討したい。

要約 

聴衆を集める、ということは経済的・政治的に非常に理があるとして多く研究されてきた領域である。注目経済として現代では研究されている。本文献では時系列分析を定量的に行なっている。ソーシャルメディアにおけるオーディエンス形成のプロセスを「ソーシャルメディアのアフォーダンス」「いいねやリツイート」「ハイブリッドメディアシステム」の構造的論理の産物として概念化した。我々は、ソーシャルメディアのオーディエンスが、定期的な注目を収集し、その能力を他者に示す能力に伴う多面的な力を与えることから、重要であると考えた。そして、本文献における実証的分析は、ハイブリッドメディアシステムのオーディエンス形成に関する現代理論を、ドナルド・トランプのツイッターフォロワーという、単一だがユニークで成功し重要な注意深いオーディエンスの発達に対して適応した。

本文献の結果はトランプが集めた注目と同様に、トランプの注意深いオーディエンスは、ソーシャルメディアの増幅、彼のツイートをハイライトしたメディア露出、著名な選挙イベントなどの要因の組み合わせから発達したことを証明している。ソーシャルメディアの活動、特にトランプのリツイートが彼のフォロワーの増加に貢献したという発見は、デジタル注意経済の「二重性」の一側面を示している。リツイートを個々のユーザーの好みを表現する行動と見なすと、それらのリツイートがその後のフォロワーの増加に貢献し、ユーザーの好みとメディア構造のつながりが明らかになった。つまり、一部の人がトランプ氏を広める選択をすることで、他の人への可視性が高まり、そのうちの何人かが彼をフォローすることを選択し、新しい構造的つながりが生まれた。多くの個々のユーザーの好みが蓄積されて、新たなコミュニケーションの世界を形作るため、ここでは堆積プロセスのアナロジーが適切かもしれない。

総括

今回選択した論文はデジタル注意経済学におけるトランプの位置付けを考えるものであった。既存の枠組みを新たなものに適応するというスタイルは文献研究においても参考になると感じたが、数理は正直手が出なかった。一方でトランプを対象とした論文としては非常に科学的に分析されているという印象を持った。

(0613)

選択した文献

小野塚亮, & 西田亮介. (2014). ソーシャルメディア上の政治家と市民のコミュニケーションは集団分極化を招くのか: Twitter を利用する国会議員のコミュニケーションパターンを事例に. 情報社会学会誌, 9(1), 27-42.

選択理由

選択理由の前に少し私見を綴る。前回、ソーシャルメディア研究でよく論じられる分断やら分極といった話をした。上久保教授がこれに関する記事を出していらっしゃったのでそちらも拝見した。私も研究界を牛耳っているエリート思想には思うことがある。ソーシャルメディア研究、特に分断に関する研究はルーツがトランプ批判にあるため、「お行儀の悪い」とみなすこともできる保守党支持層に対して問題視する研究も多いのだろう。さらに、これらの研究は偽情報対策とも結びつくことがあるため、Qアノンといった陰謀論支持層と保守過激派層を同一視している節がある。エリートにとっては「未知の存在」とも言える集団が政治コミュニケーションの空間に参入したことに対して嫌悪感を抱いているのだろう。

一方で、ポピュリズム現象が言論空間にもたらす影響もある。はじめに「お行儀の悪さ」というものはやはり考えるべきである。例えばヘイトスピーチであったり、偽情報であったりという問題。ポリュリズム現象はメディアの大衆化をもたらし、情報のエンタメ化をもたらす。情報のエンタメ化は、多くの人々を政治参加させることができるという点で評価できるが、その根源には「フレーミング」があるということを留意すべきである。フレーミングは善悪の二項対立を作り出しがちであるし、リアリティの共有が困難になることもある。現に近年のネットニュースは消費者の明確なターゲティングによってより強い党派性や攻撃性帯びているというレビューも多い。(これがソーシャルメディア時代に起こった全く新しいものとは考えられないが、その傾向が強まった可能性はある)

つまるところ、自らの意見と異なる集団とのコミュニケーションが闘争のみでしか成り立たなくなることを究極的に危惧すべきなのでは?と考える。排除されていた集団が政治コミュニケーションに参入することは絶対的に肯定すべきことであるが、それらが対立を前提とするものではなく、対話を前提としたものであることが理想的である。言論空間がヘイトに満ちたものになってはいけない。ややまとまりのない主張であるが。

ようやく選択理由に移る。石丸市長をリーディングケースとしてエンタメ的な立ち回りのソーシャルメディア利用が社会や政治にもたらすインパクトについて考えたい。今回は珍しく日本語の文献を採択。サンスティーンの議論に深いレベルまで入っていっているように思う。やや古い文献ではあったが採択する意義があると考えた。

要約

政治家のソーシャルメディア利用によって影響力の到達範囲は拡大したのか。無関心層にリーチするのか、それとも関心層に流通するのに止まるのか。同質的な選好を持つ市民にしか関心を持たれないのであれば、彼らの集団は分極化するのではないか。そしてエコーチェンバー効果によって選択的メカニズムは補強されるだけなのではないか。本研究はTwitter APIを用いて実証分析を行い、「RTの連鎖」「タイムラインへの閉じこもり」「揺らぎ」「集団分極化」についての仮説を提示する。

(そのまま考察へ移る)情報の外部効果と評判の外部効果という構造化では、Twitter議員はRTの閉じこもり(エコーチェンバー?)と集団分極化の仮説検証を行った。はじめに、伝播力は集団に同質性をもたらす力とそれを解消する力両方を併せ持っている。はじめに、個人が持つ選好とは異なるRTをしたとき、これらは揺らぎとして考えられ、同質性を解消する可能性がある。一方で、同質的な「圧力」がある場合はネットワークのメンバーに気に入られようとするため、RTに閉じこもりの効果が生まれると考えられる。つまり、両方の可能性がある。

双方向性にも同質性を生む力、反対の効果がある。

感情的操作は極化をコントロールしやすいし、この操作に双方向性が利用されている。「双方向性を用いた同質性を強化する対話」と「伝播力を用いた集団の同質性を強化するRTの閉じこもり」が合わさった場合、集団分極化を導く可能性が高い。

総括

2014年段階で極性化に対して深いレベルで実証や考察が行われていたことに驚いた。特に「評判性の圧力の高さ」は日本の政治コミュニケーションを考える上で重要な要素な気がしている。特定のイデオロギーを持つ政治家の過激な発言は一種フォロワーである支持層からの期待によるものであるとも考えることができるし、非常にパフォーマンス的である。

(0620)

選択した文献

Andersen, I. V. (2021). Hostility online: Flaming, trolling, and the public debate. First Monday.

選択理由

今回は実証ではなく文献研究を。ソーシャルメディアとは何か、という視点。どこまでがメディア?という疑問にやや根差した文献である。本文献はオンライン上のメディア的な炎上という概念に触れつつ、その中に生じる「敵意」について論じている。敵意とはコミュニケーションにおいてどのように位置付けられるのだろうか。1対多数のマスコミュニケーションにおいてフレーミングとして一種の敵意のようなものは存在していたのかもしれない。一方で、ソーシャルメディア上に存在する敵意は1対1の場合もあるし、マス対1としても存在している。いわゆる、「炎上」というもの。さらにマス対マスの場合もある。これはいわゆるソーシャルメディア研究の文脈で語られる分断や分極といったものだろうか。つまり分断を仮に悪とするのであれば、その悪の正体は敵意では?敵意によって異なるイデオロギー間の対話が成り立ってしまうのであれば、民主主義で想定される「相互理解のコモンウェルスに基づいた対話」は実現しない。ややリアリティに欠ける主張であるが。

要約

ネット上で見られる敵意の量は増えているが、一方で敵意に関する研究は減少している。本稿では、1.敵意の定義においてテキスト、話者の意図、ターゲットの認識はどのような役割を果たすべきなのか、2) 敵意は常に破壊的なものなのか、それとも公開討論においては生産的なものにもなり得るのか、3) 破壊的な敵意と生産的な敵意をどのように区別するのかという3つの疑問に問いかける。

本稿が目的とするところは、オンライン上の敵意が政府、メディア専門家、および「平均的な」市民にとってますます懸念される、公共の対話に新しい視点を提供することである。

炎上の定義に対する明確な合意がないことが炎上に対する学術的関心の低さの原因となっているのではないか。

炎上に関する文献では、時間の経過とともに定義の変化が見られる。炎上に関する初期の記述では、炎上は一般的にテキスト要素に基づいて定義されていたが、後期の定義では、一般的に、発信者の意図とターゲットの経験が炎上の中心となる定義要素として強調されている。定義において唯一共通しているのは、炎上は抑制のないオンライン行動とみなされていることである。明確な定義は困難であり、むしろさまざまな状況で発生する炎上という現象を継続的に説明し、評価する必要がある。

敵意・炎上に関する議論で主となる疑問は、「炎上」がデジタル通信技術の発達の結果なのか、社会的状況の結果なのかという問題である。

第一の立場としては、炎上はデジタル通信技術の発達に先立つものであるという立場を紹介する。否定的な行動はデジタル環境における社会的手がかりや、抑制の欠如の結果であると考えられる。デジタル環境では匿名性及び、ボディランゲージや口調などの非言語的手がかりの欠如している。そのため、非社会的で抑制のない行動を引き起こすと考えられるというものである。

第二の立場では、炎上は社会的影響に依存するもの、つまり、メディアの特性ではなく、特定のトピック、参加者の背景と所属、さまざまな議論の場の結果であるとみなしている。

一方で本稿ではどちらかの影響ではなく、双方の影響を認めるべきという立場を取る。もっと正確に言えば、デジタル技術は、さまざまなデジタルメディアが特定の修辞的行為を可能にする一方で、他の行為を妨げることから、発言の社会的文脈の中心的な部分として捉えられるべきである 。デジタル メディアはユーザーの行動を誘導するが、テクノロジーの実際の使用は、ユーザーがこれらのアフォーダンスを活用する能力と「意欲」に依存している したがって、テクノロジーのアフォーダンスは、「オブジェクトに対する主体的なアクションの可能性」を「決定する」のではなく、「形作るもの」である 。デジタル テクノロジー自体は、非社会的で制約のない行動を引き起こすことはないが、それを「促進する」ことはできる。

炎上という現象は、市民がソーシャルメディアにおいて意見表明することを妨げるかもしれない。炎上はソーシャルメディアにおいて生産的か?それとも破壊的か?こちらも論者はどちらの側面も存在すると主張する。

負の側面としては個人の発言の自由を阻害するという点がある。白人男性によって女性や少数派を標的にされることが多い傾向にあり、性別や人種を理由とした敵意の方向性を考えると 、嫌がらせを恐れて公共の議論への参加を控える人々の結果として、一部のグループの声が他のグループよりも少なく代表される、歪んだ公共の議論になる可能性がある。また 、差別、憎悪、敵意がますます常態化していること問題である。敵意がオンラインの共通語である場合、オンラインでも、最悪の場合オフラインでも、敵意のある行動の常態化と増加につながる可能性がある。

一方で正の側面を見出す論者も存在する。ミルンは、炎上を常に否定的なものとして扱う傾向を批判し、炎上に対するそのような解釈は「集団や個人のアイデンティティ形成における炎上の生産的または創造的な能力を探求する余地を与えない」と指摘する。これらの議論では、公共圏での対決の役割、政治的議論の不可欠な部分としての「敵意」、コミュニティの規範や価値観の違反を是認するための修辞的手段としての「侮辱や悪口」などに関する、多くの修辞的、政治的思考を反映していると解釈ができる。また、「対立において礼儀正しいことは一種、敵意によって立ち向かってきた人々を議論の土俵にあげない、ということにもつながる。つまり、礼儀正しさは一種の拒絶なのではないか」という主張もできる。

総括

今まで十分に炎上という概念を取り扱ってこなかった分、その意義を再発見することができた。今回得た重要な視点は「平均的な市民」の議論参加という点と、炎上・敵意の正の側面に対する視点である。
はじめに「平均的な市民」という視点。ソーシャルメディアは開かれた存在であるという前提は必ずしも正しくなく、アクセスはできるが「危険が及ぶために」発言できない、という排除はありうるなと考えた。
また、「敵意をむき出しにすること、無礼であることは一種相手との対話なのである」という主張は無礼を悪とするエリート的な研究とは全く異なる視点であり、興味深かった。関連文献もきっちりと読み込みたい。

(0627)

選択した文献

山腰修三. (2017). ポピュリズム政治における 「民衆」 と 「大衆」: 批判的コミュニケーション論からのアプローチ. メディア・コミュニケーション: 慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要, 67, 19-28.

選択理由

東京都知事選が話題となっている。そこで考えることは、大衆という概念と民主主義について。メディアの結果としての大衆なのか、いずれにせよ、マス・コミュニケーションはあくまでマスが前提にある。今までは割とメディアそのものに着目しており、情報の受け手である大衆に十分に目が向けられていなかった。そういった視点から、今回は受け手に着目した文献を取り上げた。個人的な興味関心はメディアというよりはむしろ大衆に移り変わりつつある。それでも尚メディアという構造における従属変数としての大衆という見方に、変わりはないのだが。 

要約

大衆社会の成立によって同質的かつ原子化した集団が登場した。大衆に研究で切り込むのであれば社会形態・階級構造・政治機構・政治指導・政治心理をはじめとする政治過程的な分析が重要である。その中で大衆民主主義における情報操作・動員といったものからマス・コミュニケーションに視点が移った。

「大衆社会論的視座」におけるますコミュニケーション論ではエリートto受動的な大衆,皮下注射モデル,ネガティブ論の3つモデルに分けられる。そのため、大衆のマイナスイメージは大衆民主主義において否定的に捉えられ、オルタナティブ民主主義の構想といった批判的プロジェクトとの親和性が高かった。

科学的な手法が進んでも研究が目指すところは「大衆の解放」であった。例えば限定効果モデルや同時に民主主義とマスコミュニケーションを考える視点は退いた。

ソーシャルメディアをはじめとする双方向のコミュニケーションが登場し、テレビや新聞といったマスメディアのプレゼンスは低下したが、以前としてマスという概念は知見を提供するものである。民主主義とメディアの間に生じる問題としてポピュリズムが挙げられる。

ポピュリズムは「社会を2つの勢力に分断する」「善悪二元論の対立図式を取る」「勧善懲悪の物語を提示し支持を集める」「メディアを積極的に利用する」という4つの性質がある。トランプ現象もこれらに位置付けられる。

マスコミュニケーション研究はどのようにして、ポピュリズムを支える政治主体が構築される過程を分析するのか。ここでは批判的コミュニケーション論を手掛かりに論ずることとする。

批判的コミュニケーション論は大衆をいち早く「構築されたもの」とみなしていた点で評価できる。英国カルチュラル・スタディーズの祖であるレイモンド・ウィリアムズは「大衆などというものは実際には存在しない。人々を大衆とみなす、さまざまな見方が存在するだけである」と指摘する。批判的コミュニケーション論に影響を与えたルイ・アルチュセールのイデオロギー論は政治主体の意味構築を説明する上で有効である。アルチュセールはイデオロギーを「諸個人が自らの現実的な存在諸条件に対して持つ想像的な関係を表している」と定義する。そして、メディアを資本主義国家の支配的価値観を支える主体を形成するイデオロギー装置として位置付ける。アルチュセールのイデオロギー論の再検討を行ったスチュアートホールは、サッチャーのイデオロギー戦略分析を通してイデオロギー論を階級還元主義的な点で批判している。サッチャーは反労働者的政策とったのにも関わらず労働者から根強い支持があった。そのような点から、その限界を指摘している。ホールはサッチャーのイデオロギー戦略を権威主義的ポピュリズムと名付けここからポピュリズム分析フレームワークが始まった。

サッチャー政権の特異な点は多様なアイデンティティから統一的な政治的主体を構築した点にある。アルチュセールが想定した呼びかけより複雑で偶発的な過程である。

サッチャー政権を説明するためにホールはネスト・ラクラウの言説理論を参照している。ラクラウはイデオロギー闘争の結果として偶然結びつくことを節合とよぶ。これらは自由・平等・秩序といったイデオロギーを超越した政治的シンボルの要素、「人民=民主主義的」要素によって起こり得ると説明する。サッチャーも保守党支持者に対しては反労働組合的な呼びかけ、労働者に対してはナショナリズムに訴える呼びかけをした。

ポピュリズムは理論的検討が進み新たな転換を見せた。ポピュリズムとはすなわち、異なるアイデンティティをまとめ、統一的な主体を産出する枠組みであるとも考えることができる。コミュニケーション科学で想定される大衆は同質性を帯びたものであったが、ラクラウが想定する民衆は異質性をもとに不安定に存在している。

今日のポピュリズム政治は大きく変容している。また、ソーシャルメディアの存在も検討すべき。

総括

「節合」という概念が非常に参考になった。現代のポピュリズム政治をマクロなダイナミクスのうちの1つと考えるのであれば、これらが向かう先には「節合」があるのか。本文献は「同質的かつ相互に関係を持たない多数からなる集団としての大衆」という考え方とは異なるスタンスをコミュニケーション研究において提示しているという点で意義があると感じた。ソーシャルメディア研究において、分断について論じる研究はあっても、批判的コミュニケーション論の立場から接合を前提とした「民衆」について論ずるものは少ないという所感がある。もう少し時間をかけて関連文献をあたりたい。

(0711)

選択した文献

Moffitt, B. (2024). How do populists visually represent ‘the people’? A systematic comparative visual content analysis of Donald Trump and Bernie Sanders’ Instagram accounts. The International Journal of Press/Politics, 29(1), 74-99.

選択理由

サッチャーの節合に関する概念を検討した際に、共通の表象や象徴の存在が重要視されていた。今回はこれらを画像データで検討しようというもの。内容分析の文脈ではテキストに依存し過ぎている点があるため、一種画像データから見る「大衆象」や「民衆象」には意義があるだろう。

要約

多くの学者が、ポピュリストがどのように「民衆」を特徴付けるかを、演説や政策、党の資料などのテキストや言語に基づいて分析してきた(Bonikowski and Gidron 2016; De Cleen et al. 2020; Hawkins et al. 2019)。しかし、ポピュリスト指導者が視覚的コミュニケーション、つまり画像で「民衆」をどのように描写しているかについては、これまで驚くほど研究されていない。政治の意味作りにおいて画像の流通が中心的な役割を果たす「視覚の時代」であることや、視覚と美学がポピュリストが「民衆」と「エリート」を差別化する際に重要であるという認識が高まっている点でこの研究の意義を定義できる。

この研究では、アメリカの右派のポピュリスト指導者であるドナルド・トランプと左派のバーニー・サンダースの公式Instagramアカウントから2019年の6ヶ月間の期間中に投稿された「民衆」の画像を対象に、視覚的コンテンツ分析を行なっている。具体的には、画像内の主な人種、性別、年齢層の特徴をコーディングし、それぞれのポピュリストが描く「民衆」のカテゴリにおける表現について議論したい。その結果、トランプの「民衆」の画像は全てのカテゴリにおいてより均質であること、特に白人が多く、男性が多く、若者が少ないことが明らかになっている。これらの発見は左派と右派のポピュリズムの違いにおいて位置付けられ、ポピュリズムのコミュニケーション研究において以下のような貢献を目指している:(1)「民衆」の表象における画像の役割を強調すること、(2)左右のポピュリストがこれを異なる方法で行っていることを分析すること、(3)今後の研究において使用可能な「民衆」の画像内の人口統計的特徴を測定する方法論的アプローチを発展させることである。この研究は、画像がポピュリストのコミュニケーションにおいて「余分なもの」ではなく、ポピュリストアイデンティティの構築の中心的な戦場であることを強調したい。

この研究では、左右のポピュリストが「民衆」の視覚的描写においてどのように異なるかを理解するため、人種、性別、年齢の三つの主要な人口統計的カテゴリを中心に分析を行う。右派ポピュリストは一般には人種的に均質であり、男性的な特徴の人々が多く描写されると仮定される(仮説1および仮説2)。一方、左派ポピュリストの視覚的描写はより多様で、特に若年層がより多く描かれると予想され流。(仮説3および仮説4)

結果として、ポピュリストが明言しているわけではないものの、「『民衆』は白人であり、男性であり、成人であり、非白人市民や女性、若者を代表する意欲がない」というような差別的で炎上を招く声明が、彼らの公に向けた「民衆」の画像を通じて非常に直接的かつ明確に伝えられる可能性がある。そのため、ポピュリストの視覚的コミュニケーションを重視することが重要であり、その言葉だけでは得られない情報を提供し、またはそれらをより明確に伝えることができる。

具体的には、左派のポピュリスト(サンダース)と右派のポピュリスト(トランプ)が自身のInstagramアカウントで「民衆」をどのように視覚的に表現しているかを比較した結果、サンダースの「民衆」は全体的に人種的にも性別的にも年齢的にもはるかに多様性があり、一方でトランプの「民衆」は圧倒的に白人で、男性的な外見を持つ人々が多く、若者はほとんど含まれていないことが示れた。これは左右のポピュリズムの差異を考慮したものであり、左派ポピュリズムの「民衆」のより広範な定義が異なる社会的セクターやグループの政治的統合のためにより多くの余地を残していることを示唆している。

ただし、この研究がアメリカの2つのケースに焦点を当てたため、その結果をポピュリズム全般に適用することについては慎重である必要がある。また、他の地域や文脈におけるポピュリズムにおける「民衆」の視覚的描写は異なる可能性があるため、比較的適用可能な方法論的カテゴリを調整する必要がある。

この研究の限界としては、Instagramの画像に限定され、他のメディアやプラットフォームとは異なる可能性がある点や、量的な方法論的アプローチに基づく内容分析の使用、および人口統計的カテゴリの粗い性質などが挙げられる。さらに、画像の制作や受容の側面については触れておらず、これらも重要な研究対象であると考えられる。

今後の研究の展望としては、世界各地の異なるケースに対して同様の分析を拡張し、ポピュリストが異なる地域でどのように「民衆」を視覚的に表現しているかを理解することが重要である。また、ポピュリストと主流派のリーダーとの比較や、デジタルメディアを用いた方法を組み合わせることで、ポピュリズムの視覚的コミュニケーションに関する洞察をさらに深めていくことができるだろう。

総括

左派ポピュリズム・右派ポピュリズムの差異については非常に参考になった。民衆観・大衆観に関する考察は今後も続けたい。今回は総括が短めですが。

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