見出し画像

研究書評 2024年度 秋学期


10月3日

採択した文献:毛利嘉孝. (2017). ポストメディア時代の批判的メディア理論研究へ向けて. マス・コミュニケーション研究, 90, 29-45.

採択理由:批判理論の文脈でデジタルメディアを取り扱う文献はそう多くない。非常によくまとまっていたので採択した。これらは一種卒論執筆の指針となりうる可能性がある。、

内容:昨今のメディア環境の変化は、古典的な哲学的原理でさえも揺るがしつつある。このような中、どのようにメディアを理論によって定義することができるのだろうか。本文献では批判理論の文脈において論述されている。

今回の射程では、「文化産業論」「制御社会」「ポストメディア「カルチュラルスタディーズ」以降のメディア文化研究を含める。

ここでの議論で2つ留意することがあり、1点目は普遍的な理論の提唱を目的としないこと、2点目が決定論と還元論を否定することである。

レフ・マノヴィッチはデジタルメディアをニューメディアと呼び、その特徴は「メタメディウム」という言葉で説明している。これらはマスメディアの延長線上ではなく、計算機として始まったコンピュータ技術の発展の延長としてのデジタルメディアとしての系譜がある。

メタディウムは単なるツールではなく、あらゆる表象や表現の自由を含んでいる。ここにおけるニューメディアの定義は極めて広義であり、マーシャルマクルーハンは兵器でさえもメディアとして再定義した。

テクノロジーの発展は身体性の侵食とも考えられる。大量生産・大量消費を前提とした「フォーディズム」としてのメディアとは一線を画するものである。そして、「メディアとしてのコンピュータが世界をシュミレートしているというのは、抽象的な議論ではない」

フェリックス・ガタリのポストメディアという概念も参考になる。リバタリアン的な性格を持ち、かつ今後到来するかもしれないユートピア空間を意味する概念は、新たな民主主義のモデルとして期待されているという点でカリフォルニアン・イデオロギーとの類似性がある。新たな政治の実践を、ガタリは「ビックブラザーの権力には通じていない」とし、「オルタナティブなモル上の実践が衝撃を加えればフロントガラスのように爆破しうるのだ」と表現した。

携帯端末が身体性を獲得することで、コンテンツのはっきりとした輪郭は失われていった。これらをドライブするものは「情動」であり、非言語の領域にある。「いいね」や」「リツイート」はそれらを測定するためのインターフェースである。

今日的に政治を分析するためにはメッセージではなく、ソフトウェアの分析が必要であり、それらは「ソフトウェアスタディーズ」として提唱されている。

10月10日

私はこれまでアメリカ的な研究の文脈で研究を行っていた。メディアスタディーズの中では、マス・コミュニケーション研究であったり、コミュニケーション学であったり、メディア効果論研究にあたると思う。

対して、現在理解を深めているカルチュラルスタディーズや批判的メディア理論は、政治や経済にピントが合っていないことがある。

例えば、現在学んでいるレフ・マノヴィッチの『ニューメディアの言語』は今まで取り扱ってきた文献とは志向性が異なっている。

マノヴィッチは政治学にルーツがある人ではなく、美術や建築、CGに造詣が深い。彼は本文献の中で、いずれ「見えなくなってしまう」現在のパラダイムを記述する意義を、映画史を引用して指摘している。

映画史はサンプリングにムラがあり、新聞や日記といった粗悪な資料に頼りざるを得ないという状況がある。それに対し、現在我々は歴史的な転換を目の当たりにしているわけである。

マノヴィッチはそれらを記述する必要性を「まさに生まれつつある瞬間に、つまりそれを形作っている諸形態がまだはっきりと見え、識別もでき、まだ一貫性のある言語に溶け込んでいるときに、似たような系譜を打ち立てようとしなかったのか」という言葉で指摘している。

彼は19世紀のダゲレオタイプ・解析機関というメディアとコンピュータのルーツから記述を試みている。彼は両者が相補的な関係にあるとし、メディアを「同じイデオロギー的な信念を持たせること」コンピュータを「市民の出生の記録、職歴、医療歴、犯罪歴をたえず見逃さずにいる能力」として例出し、これらがどちらも近年の大衆社会を機能させるために必要であるという。メディアを研究する上で、社会・メディア・コンピュータという軸は密接にあると意識する必要があるようだ。

ソーシャルメディア・デジタルメディア・ニューメディア等々さまざまな呼び方があるが、いずれも「権力装置である」という意識が必要である。

10月17日

今回は某政策コンテストに出すテーマに関することを記事にする。今回取り扱っているテーマはダークツーリズムとジェントリフィケーションである。そして、研究として取り扱うフィールドは大阪府西成区にある「あいりん地区」である。

あいりん地区は2013年に発足した西成特区政策の影響もあってか、国内外の人々を対象として観光地としての機運が高まりつつある。特区政策における要項には、当該地域における魅力として、食文化が挙げられている。なるほど確かに「安くてうまい」西成地区のグルメは観光資源になりうる。

一方で、「安くてうまい」だけが西成地区の観光資源となっているのだろうか。私は「西成のダークツーリズム的な側面が観光客を引き寄せているのではないか」という仮説を立てている。ダークツーリズムについて国内でよく論じているのが、立命館大学の須藤であり、本研究もそれらに則った形で研究を行ないたい。

10月31日

現在は京都コンソーシアムに向けて、釜ヶ崎のダークツーリズムの研究をしつつ、卒論においてはソーシャルメディアの研究を行なっている。正直、キャパオーバー気味というか、ソーシャルメディアの研究に栄養が行っていない。

ソーシャルメディアを論じるにあたって、どのレヴェルで論じるかという問題がある。

例えば、政治や経済にピントを合わせるか、という問題である。政治、特に民主主義にピントを合わせて研究をしてきた。

例えば、フィルターバブルの問題や、サイバーカスケード・エコーチェンバーの問題など。これらはよく論じられているが、実証研究では結果がわかれているところである。そして、選択的回避や先有性の議論においては「自分とは対極のイデオロギーに触れることは少なくない」。

一方で、私が研究したいことは何かミクロ的なことではなく、マクロな視点でのものである。例えば、資本主義の変容など。

文化人類学というか、何か人間社会の発展に関わる大きな転換点があって、その潮流の中のソーシャルメディア、といった議論を取り扱いたい。

11月14日

今日は卒論の構成について。

本研究はソーシャルメディアと民主主義の関係性を批判的アプローチによって再考することを目的としている。

はじめに、本研究はソーシャルメディアのパラダイムに着目する。ソーシャルメディアを「政治的なもの」として扱う学術領域はさまざまである。例えば、メディアスタディーズ(この言葉は十分に浸透しているとは考えないが)に内包される批判的メディアコミュニケーション研究や、マス・コミュニケーション研究、もしくはメディア効果研究や、その中に位置付けられる情報社会論など、キリがない。さらにこれらを重なりなく線を引くことは非常に困難である。

パラダイムが多元的に存在している。一方で、彼らを繋ぎ止めるものがあるとするのであれば、ポピュリズム現象である。

ポピュリズム現象はトランプをはじめとしてソーシャルメディアをめぐる研究に大きく影響を与えている。1940年代のCantrilの「火星からの侵入」が如く、ポピュリズム現象においてソーシャルメディアが結果論的に重要であるとされている。

ざっくりいうと、ソーシャルメディアはポピュリズムにとって最も好都合なツールであるとされている。そして、それらをどう是正するか、といった解決志向がある。ポピュリズムとソーシャルメディアが鬼に金棒のように論じられるのであれば、少なくとも学術において「ポピュリズムは民主主義の病理である」などと論じられる以上、その武器となるソーシャルメディアは「悪」とされてしまう。

当然、功の側面も論じられている。例えば、アラブの春をはじめとするカウンターデモクラシーの議論や、マイノリティの方々が声を上げられるなど。

一方で、この「功罪」という二項対立はソーシャルメディアという「何か」を説明しうるのだろうか。例えば、マス・コミュニケーションの文脈やメディア効果論の文脈において「政治的なもの」としてのソーシャルメディアを説明すると齟齬が生じることが多い。その理由として一つ挙げるのであれば、ソーシャルメディアにおいて国家というアクターは非常に存在感が薄い。プラットフォームは基本的にテクノロジー企業に所有されるものであるし、グローバルに展開するものであるから従来の枠組みでは困難である。ソーシャルメディア研究において多くの論者が恐れ、強いていうなら「ヘゲモニー」と考えられているものは、たとえばアルゴリズムであったり、ポピュリズム的な振る舞いの政治家であったり、「反知性主義」と痛烈に批判を受ける人民であったりと言える。

大きな構造の変化が起こっている。ソーシャルメディアは何を代替するのか。私は究極的には「代議制民主主義の代替」であると考えている。

認識論的民主主義の理論において、投票つまりは多数決を支持するのは「集合知」の概念である。つまり、端的に言えば多くの人によって出された結論は、その多様性によって最も理想的な人間の選択を上回るかもしれない、というものだ。

インターネット黎明期の議論(特にサイバーリバタリアン的思想に根ざしているのかもしれない)において、インターネットを「代議制民主主義の対案を見つけ出すための、世界規模の実験場」と指摘する声があったという。

ソーシャルメディアは、ソーシャルセンサという文脈で語られることが多い。人々が社会のセンサとなって何か発信であったり、もしくはいいねといった「小さな政治行動」を行う。これらを実社会とデジタルのインターフェースとなるソーシャルメディアは蓄積し、アルゴリズムによって何らかの世論のようなものを作り出す。

インターネット黎明期と比べて、より多くの人にとってインターネットやソーシャルメディアは身近なものとなった。当時と比べて、アルゴリズムも発達し、意見の集約や合意形成における知見も広まっていると評価できる。

炎上やトレンド機能が政治に与える影響は大きい。従来は政治システムのインプットのたるものが選挙であったのに対し、世論が可視化されるという点においてソーシャルメディアというインプットが選挙より直接性を有している可能性がある。

メディアと民主主義の関係性を考えるとき、あくまで外部要因であるという点において、メディアはあくまで民主主義の中心たるものではなかった。一方で、ソーシャルメディアは従来メディアと比べて民主主義の中心たる要素を多く揃えている。

小さなレヴェル・大きなレヴェルにおける政治参加、合意形成、世論の可視化、(従来メディア的な)情報の提供と権力の行使など。

これらが制度化されるのであれば、彼らは選挙をも代替する可能性がある。これは非常にラディカルな議論であるが。

現状をより丁寧に説明するのであれば、メディア環境、ひいては合意形成のテクノロジー的な発達に伴い、代議制民主主義の代替と言えるほどソーシャルメディアが民主主義の中心性を有している。一方で、それらは制度化されておらず、極めて脆弱で、不透明で、経済的文脈に属するものである。

テクノロジー企業は極めて「政治的なもの」の管理を任されているのにも関わらず、その代替が自然発生的で「ボトムアップであった」ために、それを管理する体制が整っていない。彼らが代議制民主主義を代替したのであれば、民主主義の最後の良心でなければならない。

ソーシャルメディアは国家に保有されるべきなのか、何らか分割で保有することが望ましいのか、困難がある。

理想的なアルゴリズムや制度設計を行い開発された政治的プラットフォームにpol.isというものがある。台湾のデジタル民主主義でも用いられたようだ。これらをどう取り扱うか。現在ドミナントとなっているプラットフォームはとにかく「売れている」どのような理想的なサービスもシェアがなければ意味がない。

イーロンマスクがトランプに擦り寄ったりと、動きがある。この動きは注視しなければならない。そして、いわゆる「ポスト真実」「反知性主義」といったポピュリズム的な要素を考えると、今後の民主主義の行末も再考する必要がある。熟議民主主義におけるハーバマスの「公共圏」といった議論も持ち出したいが、一方で、 現実を諦観する必要がある。

政治体制も時代と共に変わってきた。今後は情動で政治が行われる時代が来る可能性もある。ソーシャルメディアは決して結果論ではなく、多くの複雑性を持った中での一つの要素として、政治体制の変革に一助となるかもしれない。


いいなと思ったら応援しよう!