閻魔の控え室

閻魔は午後五時半となったので、仕事を切り上げて控え室に入った。
頭にかぶっている冠(かんむり)を投げすて、重い衣装をはぎ取るように脱ぐと、下着姿のまま、緑色のベルベットが張られた大きな長椅子に、倒れるように寝ころび、ため息をついて、目を閉じた。しばらくすると、大きなイビキが部屋中に鳴り響き、部屋を揺らさんばかりだったが、自分のイビキに驚いて目をさまし、目をあけると、目の前に丸坊主の男の子が立っている。「これはこれは地蔵菩薩殿、いや失礼、今着替えをしますので」と、閻魔はもともとの赤い顔を一層赤くして言った。
「いや、どうぞそのままに」と地蔵は、自分の法衣の乱れを不器用に直しながら、ていねいな口調で言う。閻魔はタンスからバスローブを取り出し、慌てて着込んで言った。「また何か問題でもありましたか」
「はい、今日のタケシという子ですが・・・」
「はあ、上級生を刺して校舎から飛び降り自殺をした男の子ですな」
 閻魔はそう言いつつ、地蔵に椅子に座るようすすめた。
「そのタケシの刑罰についてまだ決めていないのであれば、私に預けてもらいたいのです」と、地蔵は言いつつ椅子に座った。閻魔は、それを聞いて苦笑しながら自分も椅子に座り、
「そうですか、実はこの閻魔もどう決めるか迷っておったのですが」と、肩の荷を降ろすような口ぶりで応え、
「まあ、仕事が多すぎて困っていたところです、あんまり疲れたので、つい眠っているところを見られましたからな」と閻魔は言うと、やかましいほどの大声で笑った。

 そのタケシが暗い雑居房(複数の囚人がいる牢屋)にいると、閻魔庁の看守から呼ばれ、狭い取調室に行かされた。そこには丸坊主の男の子が、灰色の法衣を着用して座っている。眉間には白毫(びゃくごう)という、第三の目のようなものがあり、ただの子供でない事を物語っていた。この子が何者なのか、最初タケシは分らなかった。ただ、目付きは閻魔のような恐ろしさはなかった。伏し目がちで、タケシの心の内を読み取っているようで、恥ずかしいような気になった。
「タケシ、閻魔大王の許可を得たので、君をここから出してやろうと思うが」と、その男の子が言うと、
「え?あなたは誰ですか、ここを出て、どこに行くのですか」とタケシは聞いた。
「私は地蔵だよ、娑婆(しゃば:タケシが生きていた世界)に戻って一緒に現場で調べるのだ」
「はっ?僕がイサオを刺したのは間違いありません」
「そうだろうけれど、刺したのが事実であっても、地獄に落ちるほどの罪であったのか調べたいのだよ」
「はい、でも僕は、罪は償います」
「じゃあタケシ、地獄がどんなところか見せてやろうか」
 そう言うと地蔵は、タケシを連れて炎熱地獄を見せに行った。

 炎熱地獄では、巨大な釜から火炎が舞い上がり、天まで届く勢いだった。多くの罪人が串刺しにされ、苦しみ、もがいている。それだけでなく、獄卒と呼ばれる鬼たちが苦しむ罪人を思いきり打っているのだ。
「さあ、あれを見てごらん、タケシが刺したイサオだよ」と言って地蔵は指をさした。タケシがその方向を見ると、イサオが真っ赤に焼けた鉄の上で焼けただれ、もがき苦しんでいる。
タケシは驚いた。刺された方のイサオがあんな目にあっているのだから。「むごい、いくら何でもやり過ぎではないですか、ここには神も仏もないのですか」と、タケシはおびえながら言った。
「残念だが、ここは神も仏も手の届かないところにある、一旦閻魔がこの刑を言い渡せば、限りない苦しみが待ち受けるのだ、どうだ、こんな所に落ちたくはないだろう」
 タケシは恐ろしさのあまり、うなずくしかなかった。

 タケシと地蔵は、孫悟空の觔斗雲(きんとうん)のような雲に乗って地上を見ている。そしてイサオがいつものように誰かをカツアゲしてお金を要求し、殴る蹴るの暴力を振るっていた。
「タケシ、おまえもあのような目にあっていたのだね」と、地蔵はつぶやくように言った。
「はい、地蔵様、でもこれは過去の出来事ですね」
「さよう、だが、おまえの場合はどうだったのか移動してみよう」
 地蔵がそう言い、移動する内、タケシの家の中が透けて見えて来た。そこではタケシ自身が引き出しから金を抜き取ろうとしてためらっている。そして金は取らずに台所から包丁を取り出して、外に出て行った。
「タケシ、おまえはどうして包丁を手にした」
「はい、地蔵様、イサオにお金を渡さないと殴ったり蹴ったりするで、脅かすつもりで包丁を手にしました」
「そうなのか、おまえは本来やさしい子と見えるが、よほど腹に据えかねたのだな」
「はい、でもその時は何も考えず、無我夢中でした」
「そして、おまえはイサオを刺してしまった」
「はい、僕がもう金なんか渡さないと言って包丁を見せると、イサオは狂ったように襲いかかってきたのです、その恐ろしさのあまり、目を閉じて包丁を差し向けました」
「刺したあと、どうした」
「はい、僕は包丁を投げ捨て、もう生きてはいられないと思って、校舎の屋上から身を投じました」
「自分のした事をどう思う?」
「イサオを殺してしまったのには反省はします、けれどあの時は、イサオなど死んでしまえばいいと、本気で思っていました」
「でも、今となってはやりすぎたと思っているのか」
「はい、でもイサオには人の痛みを分ってほしかった」
「おまえは今のイサオを許してやりたいか」
「はい、あの炎熱地獄はひどすぎます」
「そうか、ならば閻魔に再審の請求、つまり裁判のやりなおしを求めてもいい」
「え?そんな事が出来るのですか」
「まあ、閻魔と相談してみるよ」と地蔵は言い、タケシにウィンクした。

 地蔵はタケシを雑居房に戻したあと、閻魔の控え室に向かった。そのドアの前に立つと、閻魔のイビキでドアが震えていた。ノックしたが応答はないので、やはりそっと入る事にした。すると、緑色のベルベットの張られた長椅子に閻魔は下着姿で横たわり、大きな口をあけてイビキをかきながら眠っている。その表情は疲れはて、苦悩の色がにじんでいるかと思えば、急に、にんまりと笑ったりした。地蔵は無理に起こさず、閻魔が自然に目覚めるのを待った。そして閻魔が喉を詰まらせ、咳き込むようにして目覚めると、「おや地蔵殿、また見られてしまいましたな」と言いつつ起き上がった。「いや、お休み中申し訳ない、ちょっとばかりお時間を頂きたいが、いいですか」
「はっは、タケシの件ですな、地蔵殿の頼みなら、聞かない訳にはいかんでしょう」と閻魔は言って、バスローブを着込み、散乱している閻魔の衣装を片付けた。
 地蔵はタケシの調査報告をし、タケシとイサオを成仏させてやりたいと言った。閻魔は苦笑して、
「タケシはともかく、イサオは判決が終わったものだ、再審となると閻魔庁のプライドに関わるというもの、相変わらず地蔵殿は無理を申されますなあ」
「いや、済まない、ただイサオはもう充分に罰を受けました、あの子は暴力や恐喝を繰り返してはいたが、誰かを殺すまでには到っていない」
「いや、地蔵殿、この閻魔に言わせれば、イサオはタケシを殺したも同然だ、タケシをあのように追い込んだ罪は、決して軽くありませんぞ」
「はい、その通りです、しかし、炎熱地獄にさらされ、今も苦しんでいます、もう充分ではありませんか」
 閻魔は沈黙して考え、腕を組んで地蔵に言った。
「分りました、しかし、イサオを呼び出し、心から悔い改めるならば、地蔵殿に託しましょうぞ、それにしても地蔵殿の甘い性分は直りませんな」と言って、閻魔はクスクス笑った。地蔵は、甘い性分ではないと思ったが、
「ありがとうございます」と言い、深々と頭を下げた。

 イサオは罪人として再び閻魔の前に引き出された。その身は血まみれとなり、目は恐怖におののいている。
「イサオ!おまえの刑を軽くするよう、嘆願書が来た、この願いを出したのはタケシと地蔵菩薩なるぞ、おまえが今となって悔い改めているならば、減刑を考えよう、何か申してみよ」と、閻魔は持ち前の大声で言った。
 イサオは、今の状況が分らないでいる。それどころか、全身が痛み、被告席に立っているのがやっとだった。まわりを見回すと、十王という冥界の裁判官らが並んでいたが、廷内の隅にタケシの姿があった。イサオはよろめき、崩れるように膝をついた。と同時に、タケシの姿に猛烈に腹が立ってきた。こんな目にあっているのは、すべてタケシのせいだと思った。閻魔は何を勘違いして自分をこんな目にあわせているのか、自分がタケシに刺され、殺された上、地獄に落とされたのだ。彼は喋ろうとして口を開いた。しかし喉から血が溢れ出て、声を発する事が出来なかった。彼はそれを吐き出し、再び喋ろうとした。けれども、喉は焼けただれており、依然として声は出なかった。閻魔を見ると、恐るべき形相でイサオを見ている。しかも、浄玻璃(じょうはり)という、生前のイサオの行為を見る鏡を見ながら、心も読み取っているようだった。タケシはこの哀れなイサオを見て、彼が何を言いたいのか分るように思えた。その怒りに満ちた表情からは、苦しさと痛みを越えて、何かを悔い改めるなど、出来るはずもないと思われた。すると、地蔵は額(ひたい)にある白毫(びゃくごう)を開き、阿弥陀仏の誓願をイサオの口に向かって放出した。それはすべてを救う阿弥陀如来の誓いであったが、閻魔庁での使用は禁止されている。閻魔はそれを見て見ぬふりをした。だが、役人の一人が気付いて地蔵を制止した。とはいえ、既に誓願は届けられている。イサオから全身の痛みが和らぎ、気持ちが楽になってきた。彼は立ち上がり、まっすぐに閻魔を見つめた。
「イサオ!どうだ悔い改めるか」と、閻魔は廷内に響き渡る声で言った。「お、俺は・・・」とイサオは声が出た。
「俺は、俺を刺したタケシを憎んだが、俺も刺されるような事をした罪は認める、俺の刑罰は炎熱地獄で、罪の深さがそれほど大きかったのかと、今になって思う、タケシは同じような俺からの地獄を味わっていたのだろう、そ、それで、俺はもう、タケシを憎まないことにする」
そこまで言うと、イサオは閻魔に頭を下げた。
 閻魔はガベル(木槌)を数回打ち鳴らし、
「それでは結審する!」と叫び、十王らと集まってヒソヒソと話し終えると、
「イサオの刑を打ち切り、その身をタケシと共に地蔵菩薩にゆだねる、イサオの反省は不充分だが、地蔵菩薩がこれを正すであろう、これにて閉廷する」と、大声で言い、そのまま十王らと出て行った。

 地蔵はタケシとイサオを觔斗雲(きんとうん)のような雲に乗せて、とある湖のほとりまで連れて行った。その波打ち際に降りると、不意にイサオはタケシに後ろ蹴りを喰らわせようとした。と同時に、イサオはひっくり返り、尻餅をついた。地蔵はすでに、イサオを厳しく見つめていた。その両眼は涙目を充血させて怒りを噴出させており、白毫(びゃくごう)は紫色に光っていた。たちまちの内にイサオの身体は、地獄での痛みが蘇ってきた。
 それは一瞬の出来事だった。けれども、イサオの中で何かが突き動かされた。イサオはもがくように心を変えようとした。その変えようとする心の内に、地獄の苦しみは遠のいた。彼は再び地獄を見たのだった。その時、地蔵の姿は閻魔に成り代わり、また地蔵の姿に戻ったりした。イサオは、地蔵にあらがう事など不可能と知った。彼は負け犬のように地蔵の前に合掌し、深く頭を下げ、自分が心から悔い改める事を誓った。そしてその悔しさに、身を震わせていた。地蔵は、使いたくもなかった法力を、使ってしまったことを悲しんだ。タケシがイサオを刺したのも、刺したくて刺したのではない、と信じた。
 地蔵はもはやタケシもイサオも見ようとはせず、袂(たもと)から数珠を取り出して経文を唱え始めた。その声は澄み渡り、歌でもうたうかのようだった。湖水が呼応するように波打ち、木々の葉も揺れている。小鳥や、虫たちでさえ、その響きに合せているかに見えた。タケシとイサオは、不慣れに合掌して聞き入っていた。長い時間が過ぎ、地蔵は、唱え終えると言った。「タケシもイサオも、まだ心に迷いがある、されど、この地蔵、菩薩の名においておまえ達を成仏させ、迷いの連鎖に終止符を打つ、おまえたちの心はリセットされ、あの世に送り届けられよう」
 地蔵が言い終えると、タケシもイサオも気が遠くなり、何事も思い浮かべることは出来なかった。地蔵が新たな経文を唱えている。それはよく聞こえていたが、次第に聞きづらくなってきた。何もかもが夢まぼろしのように思え、雲に乗っている気分だった。すべての記憶が失われ、その肉体は消滅し、魂だけが、紺碧に輝く天空に舞い上がっていった。


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