野良犬どもの六本木(まち) (小説

               (一)
 
 窓に網を貼った警察車両とパトカーが二台ずつ、六本木三丁目の吹き溜まりにゆっくりと進入してきた。サイレンは鳴らしていない。赤色灯が瞬いているだけだ。
 早朝だった。辺りには外国人向けのBARやクラブが多い。吹き溜まりのあちこちで帰りそびれた若い酔っ払いがたむろし、また採り過ぎたアルコールを吐き出していた。
 陽はまだ昇り切っていない。空気は青味がかっている。静かだった。警察車両のエンジン音だけが轟き、辺りに反響した。
「来たぞ。警察だ」
 段ボールハウスから這い出てきた長老がいった。この場所に初めて住み着いたホームレス。見たところ、歳は七十を過ぎている。本当の名は誰も知らない。ただ、最も歳を食っていることから、長老と呼ばれていた。
 この日、麻布署によって六本木三丁目のホームレス一掃作戦が行われることは、先に長老からいい渡されていた。どこからか情報を仕入れてきたのだ。私はそれを聞き、すでに身支度を整えていた。段ボールハウスを畳み、調理器具や身の回りの品々をまとめ、台車に乗せる。あとはこの場を去るだけだった。
 慣れている者は、なんの身支度もしていない。半年に一度の恒例行事だ。住処は潰され、撤去されるが、また段ボールとビニールシートを拾うか買うかし、ほとぼりが冷めた頃、また生活の場を再建する。
 警察車両から警官が二十人ほど吐き出された。皆、いつもとは違う制服を身に着けている。青を基調としたスラックスに革のブーツ。上半身は防刃ベストだ。中田の姿もあった。六本木交差点にある交番に詰めている万年巡査だ。その中田が拡声器を手に、声を張りあげた。
「これより、不法住居者の住居を撤去します。一時間以内に退去してください。繰り返します。一時間です」
 声変わりのしていない少年のような声が、拡声器のインピーダンスを超え、割れていた。その声を聞いたホームレスたちが次々と段ボールハウスから這い出てくる。皆寝起きだ。眼をこすり、渋々と身支度を始めた。
「災難だねえ、コック」
 近づいてきたドクがいう。近所の内科を営む三代目の老医師だ。
「まあ、ほとぼりが冷めたら戻ってくることだよ。あんたを必要としている人は大勢いるんだから」
 ドクはいい、白髪の頭をかいた。ふけがぼろぼろと落ちる。風呂嫌いで、週に一度しか入らないと聞いた。これではどちらがホームレスなのかわからない。皺の寄った白衣だけが、その身分の違いを示している。
 私は身の周りの品々を乗せた台車を押し、吹き溜まりの隅で拾ったシケモクに火をつけた。ホームレスたちが大儀そうな動きで身支度を進めている。そして、方々へと散っていった。大八車に段ボールを満載した長老がそれを曳き、近づいてきた。
「しばしのお別れだな、コック」
 ええ、と応え、私はシケモクを吸った。
「また家を作れるようになったら連絡するよ」
 喋ると、口の周囲を覆う白い髭がわさわさと動く。いい残した長老はどこかへ消えていった。陽が昇っていた。辺りはもう明るい。
 ホームレス一掃作戦が行われることは長老から予め聞いてはいたが、窓に網を貼った警察車両が現れたとき、私は数年前に起きたクラブでの撲殺事件を思い出していた。三丁目の交差点を挟んだ向かいのビルに入居しているクラブに眼出し帽を被った大勢の男たちが押し入り、金属バットや木刀で一人の男を滅多打ちにし、撲殺したのだ。あのときも、窓に網を貼った警察車両がこの辺りに集まっていた。当時『リナ』のコック長を務めていた私は騒ぎを聞き付け、傍観していたものだ。あとで聞いたが、押し入った男たちは西京連合のメンバーらしい。西京連合。麻布界隈を仕切る不良グループだ。主犯格の男のひとりは逮捕され、もうひとりは海外へ逃亡したと聞く。
 六本木のホームレス一掃作戦は半年に一度行われるが、浮浪者になって日の浅い私にとっては初めてだった。残された段ボールハウスを警官たちはどうするのか。ブルドーザーか何かでぶち壊してしまうのだろうかと私は考えていたが、見守っていると、警察車両から降り立った警官たちが手でひとつひとつ解体し、片付けていた。どこから調達してきたのか平ぼての2トン車の荷台へと段ボールやその他のゴミが積まれてゆく。やがて2トン車が去り、警察車両も去り、辺りは静寂に包まれた。段ボールハウスの集合体で築かれた浮浪者のコミュニティは跡形もない。まだアルコールの残っている若者が、やはり吹き溜まりの隅で嘔吐し続けていた。
 住処を追われた私は台車を押し、外苑東通りを歩いた。歩道のあちこちで酔っ払いがうずくまり、また嘔吐している。車道に車の姿は皆無だ。たまに空車の提灯を光らせたタクシーがのろのろと走る程度だった。
 六本木交差点を超え、乃木坂に至る。坂を下り、乃木坂トンネルに入ると、道の端に汚れた布団が敷いてあった。タイラントと呼ばれているホームレスの布団だ。雨風をしのげるこの場所で寝起きしているのだろう。本当の名は、やはり誰も知らない。無駄に上背があり、肩幅もある。少し頭が足りないのか、いつも何かうわごとを口にしながら六本木の街を歩いている。拾った瓶の底に残った酒を飲み、警官を怒鳴り付け、タクシーに蹴りを入れ、とやりたい放題だ。タイラントは六本木のホームレスコミュニティには属していない。いつも独りだ。
 トンネル内にスペースはあったが、仮の住まいを建てる気にはなれなかった。タイラントは縄張り意識が強いと聞いたことがある。無駄な揉めごとを起こしたくなかった。
 長い長い乃木坂トンネルと抜けると、青山墓地中央の交差点に至る。公衆トイレもあり、ここなら安心して眠れそうだ。台車を押して何キロ歩いたのだろう。まだ昼までには時間があるが、ずいぶん疲れていた。
 台車から荷物を下ろした。調理器具は当分必要ないだろう。建てた段ボールハウスの傍らにまとめて置いた。段ボールハウスの上にビニールシートをかぶせる。これで雨をしのぐのだ。ハウスの中に這い入り、横になる。車の往来が激しく、安眠とは程遠い。
 しばらく眠っていると、外で物音がした。段ボールハウスを這い出ると、誰がそう呼び始めたのか、タイラントが傍の公衆トイレで水浴びしていた。直訳すると、暴君だ。暴れん坊の浮浪者にはよく似合う通り名というところか。やはり何かぶつぶつと呟いている。意味はわからなかった。

今どきのホームレスは身ぎれいだ。剃る者は毎日髭を剃り、服を何着も持ち、洗濯し、週に一度は身体を洗う。私を含め、携帯電話を持っている者も少なくない。
 食器洗い洗剤と拾った剃刀を使い、青山墓地中央交差点の公衆トイレで髭を剃っていた。段ボールハウスに戻ると、携帯が鳴っている。六本木のホームレス一掃作戦から五日ほどが経っていた。そのあいだ、私はいつも食材を調達している赤坂界隈で飲食店から残り物をもらい、食いしのいでいた。「コックか」
 回線を繋ぎ、携帯を耳に当てると、長老の声が聞こえた。
「ええ、おれです」
 返事をすると、がははと長老が笑った。
「一掃作戦がひと段落したよ、コック。もう戻ってきても大丈夫だ」
「長老はもう六本木にいるんですか?」
 私は訊いた。
「ああ。もう戻っているよ。ハウスも建てた。他の仲間も少しずつ戻ってきてる。もう文句をいってくる警官もいないよ」
「そうですか」
 応えつつ、私は辺りを見回した。昼を過ぎていた。車の往来が激しい。青山通りへと至る一方通行路を、銀色のマセラティが駆け抜けていった。
「今日にでも戻ります。六本木へ。明日からでも料理を再開しますよ
「そうかい。そりゃ助かる。皆あんたを待ってるよ。あんたというより、あんたの料理を、だな」
 私は笑い、回線を切った。
 仮住まいである段ボールハウスを畳み、調理器具と一緒に台車へ乗せる。六本木へ戻る準備はこれだけだ。台車を押し、六本木へと向かう。
 乃木坂トンネルを抜ける直前、タイラントを見た。傍らを通り過ぎる車の音をものともせず、汚い布団でよく眠っている。かなり神経の太い男だ。乃木坂を登り、外苑東通りへと出た。排気ガスで空気は濁り、東京タワーは見えない。少し歩けば、そこはもう六本木だ。
 眠らない街と呼ばれる新宿と違い、六本木はよく眠る。百貨店があるわけでもなく、ただ酒を出す店が乱立しているだけだ。夜は活発に新陳代謝を繰り返し、昼間、六本木の街は眠るのだった。
 六本木交差点を過ぎ、三丁目の吹き溜まりへと至る。やはり、かなり私は疲れていた。台車に載っているのは調理器具と段ボール、そしてビニールシートくらいだが、これでもかなりの重量があり、また青山墓地からは距離があった。
「よお。コック。戻ってきたか」
 ヘルスと呼ばれるホームレスが私を出迎えた。日雇いの荷役仕事で金を貯め、一定額が貯まるとホテヘルを楽しむ風俗好きのホームレスだ。見たところ、歳は四十代のどこかだろう。汚れた髪には白いものが混ざり始めている。
 建てられたばかりの段ボールハウスから、長老が這い出てきた。それに続き、再び集まり始めた浮浪者たちが次々と段ボールハウスから這い出てくる。
「おい!コックが帰ってきたぞ」
 長老が声高に叫ぶ
「よかったよかった。これでまともな飯にありつけるぜ」
 皆、私を歓迎していた。
 私はこのホームレスコミュニティで毎日、食事を提供している。食事を与える相手は、その日働きに出た者だけ。空き缶集め、段ボール集め、ヘルスのように、日雇いの仕事に出ている者もいる。全部で九人ほどだ。
「明日の夜から料理を再開しますよ」
 私はいい、段ボールハウスの再建に取りかかった。
「いえ、大丈夫です。すぐ済みますから」
 手伝おうとしたヘルスに断り、私は段ボールで骨組みを構築し、その上にビニールシートを被せた。ハウスの再建はこれで終わりだ。続いて調理場の支度にかかる。拾ってきた板をアスファルトの上に敷き、その上にガスコンロをふたつ乗せる。このふた口のコンロだけで、私はいつも貰ってきた食材で料理を作るのだ。板の周囲に調理器具を並べる。米を炊く釜。中華鍋が二つ。おたまや返しの類をハウスの中にぶら下げ、それで終わりだ。包丁は一本しか持っていない。以前はセットで持っていたが、この生活に入る際に処分してしまった。残ったのはこの一本の文化包丁だ。質は良い。岐阜の山奥にある鍛冶屋が造った逸品だった。
 いつも、食材を調達するのは早朝と決まっている。昼を過ぎ、夕方に近かった。食材の調達に動くには遅すぎる。今日は働きに出ている者には食事を提供できない。動くのは明朝からだ。
 夜が過ぎ、私は段ボールハウスの中で眼を覚ました。外へと這い出る。辺りは静かだ。他の段ボールハウスにも動きはない。私は台車を押し、赤坂へと向かった。営業を終えた飲食店をまわり、余った食材を受け取るのだ。若い頃に勤めていた料理屋などは、食材の保存用にと氷までくれる。春だった。まだ氷は必要ないが、夏場となるとありがたい。
 六本木通りを溜池方面へと下り、溜池交差点の手前から赤坂の街へと入った。まだ陽は昇っていない。街灯と、営業を終えた店舗の明かりだけが、煉瓦敷きの地面を照らしていた。
 営業を終えた店舗の裏口をノックしてまわる。数件まわるだけで、かなりの食材と調味料が手に入る。
「精が出るねえ、今朝も」
 馴染みの寿司屋が残った日本酒をくれた。
「もう栓を開けちゃったけど、まだ飲めるよ」
「ありがとうございます。頂戴しますよ」
 食材や調味料、酒をもらい、丁寧に礼をいって去る。台車に載せ、私は再び六本木通りに出ると、六本木交差点へ向けて台車を押した。今日は豆腐と片栗粉、調味料も手に入った。麻婆豆腐にでもするか。
 仕事に出ている者は皆、腹を空かせてこの吹き溜まりへと帰ってくる。私は彼らから一律三百円を取り、食事を用意しているのだった。受け取った金は六本木五丁目にある銀行のATMで、あらかた口座へ入金してしまう。携帯電話の料金は、そこから引き落とされるというわけだ。

 中華鍋に油を塗り、刻んだ食材を放り込んでゆく。鶏肉、イカ、シイタケ、人参、ピーマン。米を炊く釜はすでに火にかけてあった。午後七時。働きに出ているホームレスたちが家路につく時間だ。
 米が焚けた。釜を火から下ろし、アスファルトの上に置く。代わりに新たな中華鍋をコンロに置き、温める。ほどなく湯気が上がってきた。塩、酒、醤油などをぶちこみ、最後に片栗粉でとろみをつける
「いい匂いがするなあ!
「ああ!腹が減ったよ!」
 ホームレスたちが仕事から帰ってきた。長老の姿もある。
「もう少しで完成ですよ」
 私は鍋に眼をやったままいい、炒めた食材にとろみのついたスープを注いだ。かき混ぜる。八宝菜ならぬ、五宝菜だ。
 仕事から帰ってきたホームレスたちが食器を手に手に短い行列を作った。茶碗にはメインディッシュと米を私がよそう。食い終わった食器は各自が洗うルールだ。ルールを定め、皆の食器洗いという私の仕事を減らしてくれたのは、やはり長老だった。ホームレスたちはそれに従い、行儀よく並び、各々の食器を洗う。
 皆が飯を頬張り、顔を綻ばせる。私も食事を手早く済ませ、調理器具を持つと、吹き溜まりの奥にある六本木三丁目児童遊園へと歩いた。私は食器からではなく、皆に取り分け終えた中華鍋や釜から直接食う。洗い物を減らすためだ。蛇口を捻り、食器洗い洗剤で中華鍋と釜を洗う。公園には私以外、誰もいなかった。
「コック!コック!?」
 段ボールハウスの集合体で構築されたホームレスコミュニティの辺りで、誰かが私を呼んでいた。ヘルスの声だ。返事をし、私は調理器具を手に吹き溜まりへと戻った。
 白いレクサスが一台、吹き溜まりのど真ん中に停まっていた。誰も乗っていない。エンジンはかけたままだ。低くアイドルしている。
「いたいた。コック。あんた本名は北乃っていったよな?」
 ヘルスが訊く。傍らに、見憶えのある男が立っていた。
「ええ」
 私が応えると、男がこちらへ一歩踏み出した。闇と虚ろな街灯の中、男の顔が浮かび上がり、輪郭が鮮明度を増した。
「北乃さん・・・」
 竹久慎一。連合時代の私の後輩だった。あの頃はいつもスウェット姿だったが、今はスーツを身に着けている。あの頃にはかけていなかった眼鏡をかけていた。連合のちんぴらだった雰囲気を、スーツと眼鏡で覆い隠しているように見えた
「竹久か」
 いいつつ、私は段ボールハウスの中へと這い入り、段ボールの壁に貼ったフックに中華鍋を吊った。ハウスから這い出ると、今度は調理場の片付けだ。コンロと板を撤去し、釜と共にハウスの脇に置く。竹久は、悲しげな眼で私を見ていた
「どうしてここがわかった?」
 間髪入れず、竹久がいった。
「話は車の中で。とにかく乗ってください」
 短く、切るような口調だった。
「こんな暮らしをしているようじゃダメだ!」
 竹久が私の服を摑み、強引に曳いてゆく。私は引きずられ、レクサスの助手席へと放り込まれた。竹久がボンネットの先をまわり、運転席へと乗り込む。ギアをリバースに入れ、バックで外苑東通りに乗り出した。
「久しいな、竹久」
 なんの話かわからないが、私はシートベルトを締めながらいった。竹久はギアをドライブに入れ、レクサスを前進させた。六本木交差点が遠く見える。
「どこで何をしているかと思えば、ホームレスの料理人ですか、北乃さん」
「ああ。存分に腕をふるっているよ」
 確か、歳は私の三つ下だった。三十五になっているはずだ。
「どうしてホームレスなんかに・・・。俺はどこか別の店で包丁をふるってると思ってたんですがね」
 六本木交差点が近づいてくる。レクサスは乃木坂方面へと向かっていた。「降りたのさ。人生を」
 私は自嘲気味に答えた。
「きっかけは、やはり娘さんですか」
 右にウィンカーが灯った。乃木坂を降りる。
「そんなところだ」
 坂を下ったところで、赤信号に止められた。すぐ左手が乃木坂トンネルだ。汚れた布団が、サイドガラスの向こうに見えた。タイラントの布団だ。畳まれている。どこかへ出かけているのだろう
「いい服を着てるな。羽振りがいいのか」
 私は訊いた。信号が青に変わる。竹久が再び右へウィンカーを出し、レクサスを右折させた。赤坂通りだ。
「西京連合のOBが出資して、今は六本木や西麻布で店舗を展開してます。俺が代表ですよ」
「へえ・・・」
 西京連合。懐かしい名だった。若い頃、私も六本木や西麻布で飲み歩き、揉め事を起こし、また巻き込まれ、暴れたものだ。やくざにスカウトされたこともある。あれは飯館組だった。当時すでに恋人との将来を考え始めていた私は断ったが、連合のOBには飯館組の上部組織である侠撰会にまで這いあがり、幹部になっている者もいると聞く
「北乃さん。元の暮らしに戻りませんか」
 レクサスは赤坂通りを直進し、山王下交差点に至った。首相官邸が近い。私は無言だった
「あんな暮らししてちゃダメです。俺が営ってる店が六本木にはあちこちにありますから、そこで料理人として復帰してください。これじゃ娘さんも浮かばれませんよ。前の奥さんだって・・・」
 竹久が右にウィンカーを出した。交差点を右折する。溜池方面へとノーズを向けた。
「竹久」
 私は口を開いた
「・・・なんですか」
「煙草あるか」
 竹久が前方を見やったまま、スーツのポケットを漁った。箱ごと私によこす。メビウスだった。私は一本をくわえ、残りの箱を服のポケットに収めた。シガーライターを押し込む。すぐに反応がきた。煙草に火をつける。長い煙草を吸うのは久しぶりだ。濃い煙が私の肺を満たし、鼻と口の両方から煙が出ていった。
「子供を失うってのはな、人ひとりが人生を降りるのに充分な理由なんだよ。おれはもう降りた。戻るつもりはない」
 溜池の交差点を右折した。六本木に向かっている。竹久が歯ぎしりした。かつての私からは想像もつかないこの姿に、歯噛みする思いなのだろう。
「北乃さん」
「なんだ?」
 六本木交差点へと至った。左折車線へと移る。空車のタクシーが列を成していた。
「諦めませんよ、俺は。北乃さんがあんな暮らしをしているのを見ていられない」
 レクサスが左折した。外苑東通りに乗る。吹き溜まりはすぐ先だ。照明を灯した東京タワーが遠くで発光しているのが見えた。


             (二)


 料理を待つホームレスたちの短い行列の中に、長老の姿がなかった。放っておいた。他のホームレスたちも気にかける様子はない。
 二日が経ち、三日が経った。やはり長老は姿を見せず、誰も気にしていない。彼らはいつものように茶碗をふたつ持ち、列に並んでいるだけだ。
 順番のまわってきたホームレスの茶碗に飯と料理をよそっていると、ヘルスの番がやってきた。
「長老の姿が見えませんね、ここ数日」
 私はヘルスの茶碗に飯を盛りながら訊いた。ヘルスが応える。
「たまにあるんだよ。心配することはない。いつだったか、逮捕されて留置場にぶちこまれてたこともある」
「逮捕ですって?」
 私は飯を盛る手を止め、ヘルスに振り返った。ヘルスが続ける。
「そう。風呂に入りたいがために万引きするんだ。それでわざと捕まる。留置場でなら週に二度湯船に浸かれるし、毎日飯も出る。あまり頻繁に繰り返すと起訴されちまうけどね」
 そうですか、と私は応え、ヘルスのもうひとつの茶碗に牛肉と野菜の炒めものをよそった。
「いつもありがとよ」
 ヘルスが礼をいい、コインを置いてゆく。陽は落ち、辺りはクラブのネオンだけに照らされていた。
 翌日、私が食材の調達を終え六本木の吹き溜まりに戻ると、気配を察したヘルスが段ボールハウスから這い出てきた。陽が昇りかけ、辺りの空気は青味がかっている。他のホームレスたちはまだ眠っているようだ。クラブのネオンはすでに消え、吹き溜まりの片隅で終電を逃した若者たちがたむろしていた。始発はすでに走っている。連中が帰る様子はない。まだ話し足りないようだ。
「コック、コック!」
 ヘルスが私を呼ぶ。
「どうしました?」
 私は台車を押し、ヘルスの段ボールハウスへと駆け寄った。
「長老がやらかした」
 舌打ちと共に、ヘルスが吐き出す。
「何をしたんです?捕まったんですか!?
「ああ」
 集めていたシケモクをくわえ、ヘルスが火をつける。
「万引きだよ、やっぱり。あっさり捕まって、麻布署に連行されたらしい」「現場はどこです?」
「交差点のコンビニだよ。まったくよくやるよ、風呂に入りたいがために」「身柄の引き受けが必要でしょう。おれがいってきますよ。いつも世話になってますから」
 私は台車から食材を下ろし、いった。
「悪いなあ、いつもは俺がいくんだけどよ」
 段ボールハウスの中に食材を収め、私は台車を畳んだ。
「それじゃあ」
 ヘルスに手を振り、私は歩き出した。外苑東通りを歩く。やはり歩道のあちこちで、帰りそびれた酔っ払いが嘔吐し、また酔い潰れ、うずくまっていた。
 六本木交差点を左折する。麻布署はすぐそこだ。若い頃、何度か連行されたことがあった。この街で飲み歩き、暴れていた頃だ。
 正面入り口の前に、警官がひとり立っていた。長い警棒を杖のように着き、辺りをきょろきょろと見回している。中田だった。今日はこちらに詰めているらしい。
「中田」
 声をかけた。
「北乃さん」
 中田が振り向き、私の名を呼んだ。私はそこで、ヘルスから長老の本名を訊くのを忘れていたことに気付いた。署内では通り名など通用しない。何と呼べば通じるだろうか。
「何日か前にそこのコンビニで万引きした浮浪者がいるだろう?」
 話を振ってみた。中田が宙に眼をやり、頷いた。思い当るものがあるらしい。
「山藤ですね。山藤幸男。北乃さんの所では長老とかって呼ばれてる」
「そう、その男だ。身柄の引き受けに来た」
「中へどうぞ。受付で」
 身を捩り、中田が促す。私はそれに従った。
「山藤というんだな?山藤幸男?」
 私は訊いた。
「確かそうだったと思いますよ。でもまあ、この辺りでは長老で通ってるようですけど」
 扉を押した。自動靴磨き機が一台置かれている。傍らに階段があった。二階へと至る階段だ。受付は二階らしい。留置場は確か地下にあった。私も何度かぶち込まれたことがある。
 二階へあがり、受付に歩み寄った。椅子に座っていた制服警官が腰を上げ、こちらに眼をやった。
「なにか御用ですか」
 丁寧な口調だった。
「山藤幸男の身柄を引き受けに来ました」
「そうですか。山藤幸男ですね?」
「ええ。万引きで捕まった・・・」
「わかりますよ。こちらへどうぞ」
 こちらの汚い身なりには一切言及しなかった。私のような人種は見慣れているのだろう。
 別室へ通された。紙とペンを渡され、必要事項を記入しろといわれた。紙にペンを走らせていると、さきほどとは別の警官に引き連れられた長老が姿を現した。口の周りを覆っていた白い髭はきれいに剃られ、肌の艶も増しているように見えた
「悪いな、コック」
 いえ、と応え、私は紙とペンを警官に渡した。警官が受け取り、何かいい淀んでいた
「どうしました?」
 私は訊いた。
「いえ、その、何か身分を証明できるものがあるかと思いまして・・・」
 私がこの山藤幸男と同じく浮浪者であることに気付いているのだ。浮浪者の多くは身分証など持っていない。私は汚れたジーンズのバックポケットから辛うじて維持している運転免許証を取り出し、警官に渡した。
「ど、どうも」
 警官が礼をいい、別の紙に何か免許証から書き写している。免許証が返された。
「一応申し上げておきますけど、次は留置だけでは済ませませんので」
「へいへい」
 長老が応えた
「いきましょう、長老
「そうだな」
 私は長老を連れ、麻布署を辞した。正面入り口では、やはり中田が突っ立っていた
 「ありがとな、コック」
 長老が礼をいう
「いえ、おれを迎えてくれたのは長老でしたから」
 長老の浮浪者としてのキャリアは長い。私が職を辞し、六本木三丁目の吹き溜まりへと歩み寄ったとき、他のホームレスたちは私を拒絶した。「若いんだからまだ働けるだろう」「五体満足なんだろう」そういい、私をコミュニティに入れようとはしなかった。そんな中、長老だけが私に味方した。日に一度食事を提供することを条件に、私をあのホームレスコミュニティに迎え入れたのだ
「おかげで留置場ライフを満喫できたよ、コック」
 長老は陽気にいった
「飯はまずかったけどな。やっぱりあんたの作る飯がいい」
 陽が完全に昇り切り、辺りには人気がなかった。六本木の街が、眠りに入ったのだった。


               (三)


 離婚届に署名捺印し、ふた言み言話すと、彼女は席を立った。もう四カ月も前だ。六本木交差点近くにある「シェモア」という喫茶店だった。
「本当にこれでいいのね?」
 彼女は念を押すようにいった。
「ああ」
 きっかけは、つまらん事故だった。四歳になる娘が自宅マンション近くの駐車場で、バックで進入してきた車に頭を轢かれたのだった。以来、二人のあいだには小さな溝ができ、溝は広がっていった。
 私が一方的に離婚を切り出し、一方的に話を進め、一方的にマンションを出てゆくことになった。娘の写真は今も、ほとんど中身の入っていない財布に挟んである。
「コック!」
 長老が私を呼んでいた。私は吹き溜まりの奥にある児童遊園の水飲み場で包丁を研いでいるところだった。
「コック!客だ!コック?」
 私を探していた長老が水飲み場へと辿り着いた。
「今いきますよ。どなたです?」
 私は訊いた。
「女だ。お前さんを探してるってよ」
 蛇口を捻り、水を止める。私は包丁と砥石を手に、吹き溜まりのホームレスコミュニティへと歩いた。昼を過ぎていた。街はまだ眠っている。段ボールハウスの集合体が見えてくる。近づくにつれ、彼女のシルエットが鮮明度を増した。間瀬愛里。私の元妻だった。間瀬というのは旧姓だ。
「あなた・・・」
 私の暮らしぶりに絶句しているのだろう、彼女はそれきりしばし言葉を失った。待っていると、ようやく彼女は再び口を開いた。
「・・・勝手に家を出ていったと思ったら、何て暮らしをしてるの」
 もう君には関係のないことだ、という言葉を飲み込み、私はいった。
「何か用か?」
 彼女は溜息をひとつ吐き出し、バッグから一枚の葉書を取り出して見せた。こちらへ手渡してくる。見ると、運転免許更新の案内葉書だった。
「うちに届いたのよ。それであなた、あたしはてっきりどこかのお店に勤めているかと思ったら・・・」
「訊いてまわったのか?おれの消息を」
 なぜか、彼女の眼に涙が溜まっていた。今にもこぼれ落ちそうだ。変わり果てた私の姿に、情けなさが込み上げてきたのか。
 竹久や他の連中とこの街で飲み、暴れていた頃、私は彼女と出逢った。彼女との出逢いが、私を改心させた。西京連合を抜け、やがて私たちは籍を入れた。連合を脱した私は六本木や赤坂のレストランを転々とし、料理人としての修行を積んだ。
「手越さんに訊いたのよ。この辺りで路上生活をしてるって。まさかとは思ったけど、本当だった」
 最後に私が勤めていた高級レストラン、『リナ』の支配人の名だった。この吹き溜まりと同じく六本木三丁目にある。眼と鼻の先だ。
「いらんよ。今の生活では車を運転することはない」
 私はいい、葉書を差し出した。
「とにかく更新の手続きだけして。お金は出すから」
 懇願するような口調で彼女はいい、バッグから財布を取り出した。葉書は私の手に握られたままだ。受け取る気はないらしい。財布から彼女は紙幣を一枚抜き、私の胸に突き付けた。
「いらんよ。何度もいわせないでくれ」
 私はいった。
「ダメよ。更新して」
「社会復帰する気がないんだ、おれは」
「お願いだから・・・」
 彼女の眼から、涙がこぼれだした。頬を伝い、顎の先からアスファルトへと落ちてゆく
「わかった。わかったよ・・・」
 泣かれてしまった。情けなかった。葉書をジーンズのポケットに収め、紙幣を突き返した。
「金はいい。蓄えがある」
 いうと、彼女は懐疑的な表情を見せた。
「本当?」
「ああ。ここの連中の飯を作って、それで日銭を得てる。ほとんど貯金にまわしてるよ」
「足りるの?」
「ああ」
 彼女が泣くのを見ていられなかった
「とにかく今日は帰ってくれ」
 請うように私はいった
「更新してくれるんだよね、免許」
「わかったよ。更新する。この葉書と金を持って鮫洲にでもいけばいいんだろう?」
「そうよ。できればもっとちゃんとした服を着て」
 彼女は執拗だった。運転免許を更新させ、私をどうにかして社会復帰させる気なのだろうか。
「約束してくれる?免許を更新するって」
「ああ。約束する。明日にでもいってくるよ。とにかく金はいい。困ってないんだ。こんな暮らしをしてると金がかからない」
 渋々といった様子で、彼女は紙幣を受け取った。

 通勤時間帯を避けたのは正解だった。電車の中は空いている。車両出口の近くで、スーツを着た四人組が談笑していた。
 運転免許の更新手続きは簡単なものだった。料理人としての生活が長く、車を運転する機会がなかったのだ。ここ数年の違反歴はなく、老眼が始まっているわけでもない。視力検査も一度でパスし、待ち時間の方が長かったくらいだ。帰りの電車を乗り継ぎ、大江戸線に乗った。電車に乗るのも久しぶりだ。
 四人組は青山一丁目で降りていった。そこにオフィスがあるのだろう。扉が閉まり、電車が動き出す。
 毎日が同じことの繰り返しだった。早朝に起床し、食材を仕入れ、夜になれば料理を作る。談笑する四人組は、私が路上生活に入ることで忘れていた時間の経過をというのを思い出させた。
 電車が六本木駅のホームへ滑り込んだ。アナウンスがあり、扉が開く。私は座席から腰を上げ、電車を降りた。地下鉄六本木駅のホームは地中深くにある。エスカレーターを登り、地上に出ると、すでに陽は空のど真ん中で煌々と光っていた。
 昼の六本木は静かだ。タクシーの列も見当たらない。人通りも極端に少なく、街全体が眠っているのだ。
 外苑東通りの歩道を東京タワーに向かって歩く。三丁目の吹き溜まりに近づくと、段ボールハウスの集合体が見えてくる。この時間帯、段ボールハウスはほとんどが無人だ。ほぼ皆が働きに出ている。
 陽に照らされたアスファルトの上で、人が二人立っていた。段ボールハウスの集合体の傍。誰かを待っているのか。二人ともスラックスにワイシャツを着ている。一人は細く、もう一人はベルトに贅肉が乗っていた。
「なにか」
 私は二人に近づき、声をかけた。二人が振り向く。
「北乃・・・」
 その名を口にしたのは、細い方だった。知った顔だ。手越達也。私が最後にコック長を務めていたレストラン『リナ』の支配人だった。もう一人の太い方も知った顔だ。変わり果てた私の姿に驚いたのか、言葉を失っている。飯塚正行。私が連合を抜け、最初に門を叩いた中華料理店『九喜』のコックだった。
「どうしたんです?二人とも」
「どうしたもこうしたも・・・」
 手越がいった。
「中華からフレンチまでなんでもござれのコック長がこのザマか」
 蔑むような、憐れむような。眼にはそんな色があった。飯塚がようやく口を開く。無理に笑顔を作っているのがわかった。
「ここいらに腕のいい料理人がいると聞いてね、北乃くん」
「二人はお知り合いだったんですか」
 私は訊いた。吹き溜まりに停まっていたおしぼり屋の二トン車がエンジンをかけ、身震いした。そのまま走り去る。二トン車は狭い裏路地へと消えていった。手越がいう。
「お前さんを探してたんだよ。急に『辞める』なんていい出して」
「一身上の都合ですよ」
 手越が両手をポケットに突っ込み、細い身を斜に構えた。
「娘さんのことは気の毒だった」
 愛里から聞いたのだ。彼女は私の行方をこの街のあちこちで訊いてまわったに違いない。
「愛里―おれの元のかみさんから聞いたんですね、手越さん」
「ああ。お前さんを探しまわってた
「それにしたって北乃くん」
 飯塚が口を挟む。
「ホームレスはないだろう」
「一応包丁は持ってますし、料理もしてますよ」
 私は呟くようにいった。
「ホームレスの料理人か」
 吐き出すようにいった手越が笑う
「戻らないか、北乃くん」
 飯塚が私を諭すような口調で話した。
「うちも『リナ』も、君ほどの腕の持ち主ならすぐにでも大歓迎だよ。手越さんも同意見だ。いつまでもこんな暮らしをしているわけにもいかないだろう?」
 飯塚は恩人だった。「くん」付けで呼びはするものの、連合崩れのちんぴらだった私を厨房で容赦なく怒鳴り付け、叱咤し、技術を叩き込んだ。それでいてギャンブル狂いでもある。大きな借金を抱えていた時期もあると聞いた。恩人の誘いを無下に断るわけにもいかない。
「なんとかいったらどうだ、北乃」
 閉口している私に手越がいう。口調は荒いが、これでも面倒見のいい男なのだ。
「すみません、飯塚さん、手越さん」
 私は詫びた。
「戻るつもりはありません。『九喜』にも『リナ』にも。元の暮らしにも」
「なぜだね?」
 飯塚が訊く。私は眼を伏せ、答えた。
「人生を降りたんです」
 私の言葉を聞いた手越が溜息を吐いた。
「人生を降りる理由としては充分でしたよ、娘のことは」
「私は独身だから、娘さんのことには大きなことはいえないがね、北乃くん。やり直せるよ」
 飯塚は優しい口調で食い下がった。
「こんな暮らしをしていたんじゃダメだ」
 私はもう一度いった。
「降りたんです。人生を」
 酒屋の、これまた二トン車が吹き溜まりに進入してきた。路肩に停め、エンジンが切られる。車体が身震いした。
「降りたんですよ、人生を。そして一度降りた人生には二度と乗り直せない。電車と一緒ですよ」
「次の電車がまた来る。違うかね、北乃くん?私は後継人探しをしているところでもあるし」
 なおも飯塚が食い下がる。
「すみません」
 私は二人に頭を下げ、丁重に詫びた。
「もう戻れないんです。それに・・・」
 段ボールハウスの集合体に視線を送り、私は続けた。
「毎晩、連中の飯を作っています。それでここの連中はおれを受け入れてくれたんです。もう放ってはおけない」
「金はあるのか、北乃?」
 踵を返しつつ、手越が訊く。もう私を元の生活に戻すことを諦めているのか。
「ええ。一食で三百円取ってますよ。こんな暮らしをしていると金がかかりませんしね」
 飯塚が哀しげな眼で私を見た。
「また来るよ、北乃くん」
 諦めないからね、といい残し、飯塚が踵を返した。手越がそれに続き、歩き出す。私は二人の背中を見送った。


               (三)


 赤坂のステーキハウスが、分厚い肉塊をくれた。熟成させすぎたのだそうだ。切れば十人前以上になる。礼をいい、私はその肉塊を台車に載せ、六本木へと戻った。
 その日の夕食は少し手間取った。皆には熱いうちに肉を食わせたい。切り分けた肉を一枚ずつ焼いてゆくのだ。「レアにしてくれ」などと食通ぶった者もいたが、余った品だ。念には念を入れて火を通す。焼けた肉を飯の上に乗せ、すりおろしたニンニクと醤油、マヨネーズを和えたソースをかければ、ステーキ丼のできあがりだ。
「今日はステーキ丼か!豪勢だな、コック!」
 上機嫌な長老がいう。列の最後尾だった。
「ええ。今朝ステーキ屋がくれたんです。熟成させすぎたとかで」
 六本木三丁目の吹き溜まりにその女が現れたのは、皆がステーキ丼を頬張っているときだった。
「おい、なんだありゃあ。ヨレヨレじゃねえか」
 飯の粒を飛ばしながらヘルスがいった。女はフラフラとこちらへ向かい、歩いてくる。足許には、幼女を連れていた。
「どうしたい、姉ちゃん」
 茶碗を片手に、立ちあがった長老が声をかけた。女は力尽きたのか、段ボールハウスの集合体の前まで来ると、膝を折り、その場で崩れ落ちてしまった。ホームレスたちがわらわらと集まってくる。私も茶碗を置き、立ちあがった。
「ママ!?ママ!」
 崩れ落ちた女に、幼女が呼びかけていた。母親らしい。女はまだ若かった。三十を過ぎたといったところか。化粧気のない顔。レディスジーンズとカットソーを身につけ、底のすり減ったスニーカーを履いている。
「大丈夫かよ、おい!?」
 長老が声をかけた。応答はない。私はいった。
「ドクに診せましょう。おれが運びます」
 私は女を抱えあげた。軽い。体重は四十キロを割るギリギリだ。手足は枝のように細かった。
「ママをどこに連れていくの?おじさん!」
 幼女が叫ぶ。
「病院だよ。すぐに済むから心配ない。長老、この子を頼みます」
「おうよ。お嬢ちゃん、こっちでステーキ丼を食べないか。腹減ってねえか?」
 初めは警戒していた様子だが、空腹なのだろう、幼女は長老の許へと歩み寄っていった。
 私は女を抱え、外苑東通りの歩道へと出た。街はもう眼覚めている。人通りをかきわけ、彼女を運んだ。
 すぐ近くに、南斗内科という小さな診療所がある。昼間はまっとうな診療をしているが、夜になれば不法滞在の外国人、やくざ、無保険の者と、患者を選ばない。かつて二代目が診療していた頃は銃創を治療することも少なくなかったという。二代目が引退し、大学病院に勤めていたドクが三代目を継ぎ、今に至るというわけだ。
 女を抱え、私はドン・キホーテの隣に建った細いビルの狭い階段を登った。仄明かりが見えてくる。ドクはまだいるようだ。
「ドク!?ドク!」
 私はドクを呼びつつ、南斗内科の扉を身体で押した。
「ドク?」
 待合所の奥から白髪の老医師が現れた。
「どうした、コック?珍しいな」
「とにかく診てくれ、ドク。いきなり現れて、いきなりひっくり返ったんだ」
「とにかくベッドに寝かせて、コック」
 ドクの指し示した診察ベッドに女を寝かせた。女はぴくりとも動かない。眼を閉じ、辛うじて呼吸だけはしているようだ。ドクが脈を取り、いった。
「男は診察室の外に出て」
 私は黙って待合所へと歩いた。上半身を脱がせ、聴診器を胸に当てるのだろう。
 あの軽さ、手足の細さ。ろくに食っていない。見当はついた。しゃぶ中だ。
 診察室のカーテンが開き、ドクが出てきた。溜息をつく。
「どうです、ドク?」
「脈にも呼吸にも異常はないよ。ただ・・・」
 ドクがいい淀んだ。
「大方の見当はついてます。覚醒剤でしょう?」
 溜息を吐き、ドクが答えた。
「ご名答だね。あれはしゃぶ中だ」
「一晩だけでも寝かせてやってくれませんか、ドク?」
「そりゃあ構わんが、寝ただけじゃ治りゃせんよ、あれは」
「あとはこっちでやりますから。子供を連れてるんです」
「子供?」
 ドクが眼を見開いた。
「五歳くらいの女の子です。きっと親子でしょう。今長老が飯を食わせてます」
「そうかい・・・」
 ドクが白髪の頭を掻く。ふけがぼろぼろと落ちた。ドクが続ける。
「その女の子も連れておいで。一緒に診察して、今夜はここで寝てもらおう。母親と一緒の方が本人も安心するだろう?」
「いいんですか?」
 ドクが笑顔を見せた。照明の下、銀歯が光る。
「たまに私も食わせてもらうよ。元『リナ』のコック長の味を堪能させてもらおう。それで診察代はチャラだ」
 私も笑い、いった
「早速連れてきますよ」
 扉を押し、階段を降りる。人ごみをかき分け、吹き溜まりへと至った。段ボールハウスの集合体へと走る。幼女は長老の隣に腰をおろし、ステーキ丼を平らげたところだった。やはり空腹だったのだ。
「名前は?」
 私は彼女の隣の腰をおろし、訊いた。
「青川早苗」
 口の端にソースをつけたまま、幼女は答えた
「歳はいくつだい?」
 長老が訊く。
「六歳」
 いいかい、と前置き、私はいった
「ママは大丈夫だ。心配ない。きみにも傍にいてもらう。すぐ近くに病院があるんだ。きみもそこで今夜は寝るといい。ベッドが用意してある
「ママは本当に大丈夫なの?」
 眼に懐疑的な色があった。しゃぶ中の女を「大丈夫」などといえるのだろうか。
「とりあえず今は眠ってる。きみもいってあげるんだ。さあ」
 促すと、彼女は立ち上がった。私も立ち上がり、踏み出した。彼女が手を繋いでくる。懐かしい感触だった。幼い子供の小さな手。
「歩いて五分くらいだ。そこにママはいる」
「うん」
 私は彼女の手を引き、南斗内科へと歩いた。

 
 食材の調達を終えると、早速飯の支度をした。皆が働きに出る頃だ。ホームレスたちが次々と段ボールハウスから這い出てくる。ステーキ肉がまだ少し残っていた。二枚に切り分け、火を通す。同時に飯を炊いた。たったの二人前だ。すぐに済む。
 飯が炊けると、私は南斗内科へと歩いた。道のそこらじゅうにゴミが散らかり、それを狙うカラスが上空を舞っていた。若い酔っ払いが、やはり道の端で嘔吐している。
 歩道を歩き、小さなビルに至った。狭い階段を昇る。扉が見えてきた。
 鍵はかかっていない。いつものことだ。押すと扉が開き、中の様子が窺えた。
「ドク?」
 呼ぶと、奥で物音がした。
「コックか。おはよう」
 ドクが現れた。白髪に寝癖がついている。ベッドかソファで眠っていたのだろう。
「こっちだ、コック」
 奥へと向かい、ドクが手招きする。私はその背を追った。ドクがカーテンを開く。ふたつのベッドにそれぞれ、早苗と女が寝ていた。
「母親の方には点滴を打っておいたよ。ろくに食べていないようだったから。ただ、腕には注射針の跡がね」
 窓から昇ったばかりの陽が差し込んでいる。まだ光は青味がかっていた。私は母親の方のベッドに寄り、起こしにかかった。
「おい」
「コック!」
 ドクが制する。それを無視し、私は声をかけた。
「起きるんだ。朝だぞ」
 女が呻き声を漏らし、眼を開いた。眼球をきょろきょろと回している。ここがどこなのかわからない様子だ
「昨夜、そこの吹き溜まりでひっくり返ったんだ。おれが運んだ。ここは病院だ」
 女が上半身を起こし、周囲を見回した。何かを探している。
「早苗は?娘は・・・」
 女が初めて口を開いた。
「隣のベッドだ。まだ眠っているよ」
 女の視線が横のベッドに注がれる。早苗の姿を認めると、女はひとつ息を吐いた。安堵の息だ。
「ママ?」
 もう眼覚めていたのか、早苗が眼を開き、母親を呼んだ。小さな身体がむっくりとベッドから起きあがる。
「ここだよ。ここにいるよ、早苗」
「ママ」
 早苗がベッドから降り、女の許へ寄り添った。早苗の視線が私に移る。
「おじさん、昨日のごはん、おいしかったよ」
 私は顔が綻ぶのを感じた。
「朝食の用意もできてる。まあ、昨日と同じメニューだがね。腹は減ってるか?」
「うん!」
 飛び跳ねながら、早苗は答えた。
 女がベッドから這い出る。靴を履き、私とドクに一礼した。
「どうもすみませんでした。迷惑をかけてしまって」
 何かをいい淀んでいる。私は訊いた。
「どうした?」
「その・・・」
「診療費かい?」
 ドクが訊く。
「ええ・・・。今ちょっと手持ちがなくて・・・」
「いいんだよ、そんなのは。ブドウ糖がひとパックだけだから」
 手を振り、ドクが笑う。
「それよりあんた。名前は?」
 私が訊くと、女は視線を早苗に移し、答えた。
「青川千穂です。この子は娘で、早苗といいます」
「しゃぶ中だな
「コック!子供の前だ」
 ドクが私の言葉を遮った。私は溜息を吐き、いった。
「とにかく飯だ。もう用意ができてる。ここを出よう」
 千穂が早苗の手を取り、ドクにいう。
「先生、お代は必ずお支払いしますから・・・」
「いいから、いいから。とにかくあんた、何か食いなよ」
「はい。ありがとうございます」
「いくぞ」
 私がいうと、二人はついてきた。階段を降り、外苑東通りの歩道へと出る。女は辛うじて歩いているようだったが、足取りは重そうだった。栄養失調を起こしているに違いない。
 ホームレスコミュニティに近づくと、長老が待っていた。私たち三人を見つつ、長老がいう。
「コック、まるで親子だな。オレがパリにいた頃は凱旋門の辺りにホームレスの親子がわんさかいたもんだ。親子で煙草をねだってくるもんだから箱ごとやったもんだよ」
 留置場で剃った白い髭が、すでに伸びている。喋るとその髭が上下に動いた。
「まあ座んなよ。話を聞こうじゃねえか」
 早苗の手を握った千穂が、長老に頭を下げる。
「長老はパリにいたんですか」
 私が訊くと、長老は口調を変えた。
「お前さんは飯の用意をしなよ。支度はできてるんだろう?」
「はいはい」
 私は返事をし、ふたつの茶碗に飯をよそい始めた。
 ステーキ丼をよそったふたつの茶碗を手に、三人の許へと歩く。
「いただきます」
 手渡すと、早苗は飯を頬張った。
「私は・・・」
 腹が減っていないのか、千穂は躊躇していた。しゃぶ中だ。胃も縮んでいるはずだった。
「いいから黙って食え」
 私がいうと、千穂は割り箸を取り、茶碗をつついた。しばらくすると、早苗が茶碗を置き、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。口許に飯の粒がついている。長老がいった
「お嬢ちゃん、そこの公園で遊んでおいで。トイレはあそこだ」
 吹き溜まりの隅にある公衆トイレを指し示す。
「うん!」
 私がいつも包丁を研いでいる公園だ。早苗は立ちあがり、そちらへ向けて駆けていった。
「さて」
 長老の口調が神妙になる。
「あんた、名前は?」
「青川千穂です。あの子は私の娘で、早苗といいます」
「箸が進んでねえぞ。ちいと行儀は悪いが、食いながら話してもらおう」
「はい」
「あんた、どこから来た?あの子の父親は?」
 飯をひと口含み、千穂が答える。
「あの子の父親は蒸発しました。私はずっと渋谷にいたんですけど・・・」
 私は横から口を挟んだ。
「早苗は公園だ。洗いざらい喋ってかまわない」
 千穂が頷く。
「箱ヘルで働いてたんです。あの子とは寮で暮らしていました。でも仕事にならなくなって・・・」
 箱ヘル。派遣型ではなく、店舗型の風俗店だ。
「仕事にならなくなった、ってのは?」
 私は口を開いた。
「あんた、しゃぶをやってるな」
 私の言葉に、千穂は眼を見開いた。そして、ゆっくりと頷く。
「定期的にエスを受け取って仕事をこなしてたんですけど、それじゃ全然足りなくて、仕事にならなくなって・・・」
 それで寮を追い出された、というわけか。
「あの子。早苗ちゃんといったか。いくつだい?」
 長老が訊く。私のそれとは違い、優しい口調だ
「六歳です。本当は小学校に入れなくちゃならないんですけど・・・」
「役所へいったらどうだ」
 私はいった。
「福祉課へいけば仕事も住処も斡旋してくれる。学校にだって通えるだろう?」
 千穂は首を横に振った。
「それも考えましたけど・・・。役所へいけば、あの子を取りあげられます。それは絶対イヤなんです。それに、私はエスをやめなくちゃならないし・・・。もしかしたら逮捕されるかも・・・。どちらにせよ、あの子は取りあげられるんです。それだけは絶対にイヤなんです」
 箸が止まっていた。食え。私は身振りでそう伝えた。千穂が箸を動かし始める。
「しばらく、ここへ置いては頂けませんか」
 遠慮がちに千穂が切り出した。
「仕方ねえな」
 いった長老が溜息を吐く。
「わかった。だが、一カ月だ。あんたたち二人のハウスを作る」
「本当ですか」
 千穂の顔が、ようやく綻んだ。
「なあに、材料は段ボールとビニールシートだけだ。そこいらに余ってる。その代わり、二、三日に一度はあの子を風呂に入れてやりな。広尾に銭湯がある。この道を真っ直ぐいって、麻布十番の向こうだ」
 吹き溜まりの先の十字路を指さし、長老が続けた。
「風呂代は皆でカンパする。その一カ月のあいだに、あんたは新しい仕事と住まいを見つけるんだ。それでいいな?」
「ありがとうございます」
 千穂が深く頭を下げた。
「飯の心配はしなくていい。名コックがいるからな。コック」
 長老が私を呼ぶ。
「一カ月だ。一カ月のあいだ、日に三食、この二人に食わせてやんな」
「わかりました」
 私が答えると、長老が立ちあがった。
「さて、オレは働きに出る。その前にあんたらのハウスをちゃちゃっと作っちまうか」
 私は段ボールの切れ端にペンで番号を書き記し、千穂に渡した。携帯の番号だ。
「何かあれば連絡するといい」
「ありがとうございます」
 千穂はそれを受け取り、また箸を動かし始めた。

 長老が二人のために作った段ボールハウスは、通常のそれよりもやや大きかった。二人分のスペースを、という配慮だろう。私は早朝、いつものように食材の調達を済ませると、すぐに二人のために朝食を作るようになった。朝日が昇る頃、二人は段ボールハウスから這い出てくる。浮浪児同然だというのに、早苗はいつも元気がよかった。
「おはよう、おじさん!」
「おはよう。もうすぐ飯ができるぞ」
 午前中、仕事を探しにでも出ているのか、千穂は飯を食うと早苗を置き、ホームレスコミュニティから姿を消した。陽が空の真ん中に近づくと、私は昼食の準備にとりかかる。早苗は好き嫌いがないのか、何でも平らげた。
 夕方になると、千穂が戻ってくる。早苗はそれまで公園で遊び、飽きるといつも私の傍にいた。
「わたしはね、おじさんが地獄に落ちちゃえばいいと思うんだ」
 その言葉に、昼食の準備をしていた私は菜箸を放り出しそうになってしまった。
「な、なんでおじさんが地獄に落ちなきゃならないんだ?」
 狼狽しつつ訊くと、彼女は答える。
「おじさんっていっても、おじさんじゃないよ」
 おじさんというのは、私のことではないらしい。
「おじさんはいつもご飯を作ってくれるいい人だもん。別のおじさんだよ。前にママと住んでたおじさん」
 訳を聞くと、千穂は以前、早苗をつれてどこかの男の許へ転がり込んでいたようだ。
「おじさんはママにお金を渡してくれたけど、ときどきママを殴るんだ。ママは謝ってた。必死に謝ってたけど、おじさんは機嫌が悪いと、ママが倒れて動かなくなるまで殴るんだよ」
「そいつは酷い男だな。ママは何をしたんだ?」
 私の傍らにしゃがんだまま、早苗は俯き、いう。
「ママは料理が下手で、味が酷いんだって。ご飯がおいしくないと、おじさんはママを殴るの」
 殴る理由は、料理の味などではないだろう。どうせろくな男ではなかったに違いない。千穂も千穂だ。与えられた金は皆、しゃぶに消えたのではないか
「それで出ていったのか。そのおじさんの家を」
「うん。ママがいってた。『地獄に落ちればいい』って」
 昼食ができあがった。簡単なメニューだ。寿司屋がくれたエビを天麩羅にし、茶碗に飯を盛る。それも早苗はきれいに平らげた。
 夕方になり、千穂が戻ってくると、早苗は飛び跳ねて出迎えた。
「おかえりママ!」
 二、三日に一度、二人は歩いてどこかへでかけてゆく。長老のいっていた広尾の銭湯だろうか。二時間もすると、二人はこの吹き溜まりに戻ってきた。二人が戻る頃になると、私の許には短い行列ができる。働きに出ていたホームレスたちが茶碗を手に手に、飯の順番を待つのだ。千穂と早苗も茶碗を持ち、その行列に加わった。
 夜の九時になると、辺りは酔っ払いで騒がしくなるが、二人は段ボールハウスへと帰っていった。千穂が早苗を寝かしつけているのだろう。
 その夜だった。どこからか男の喘ぎ声が聞こえる。私は段ボールハウスの中で眠っていた。 
 段ボールハウスから這い出し、私は辺りを見回した。吹き溜まりにチョッパーのバイクが大挙し、排気音を轟かせていたが、喘ぎ声は私たちの眠る段ボールハウスの集合体から聞こえていた。辺りでは、外国人向けのクラブから漏れ出たハウス系のリズムが漂っている。バイクの排気音とクラブのリズム。その中で微かに聞こえる男の喘ぎ声は、ある種異様だった。まるでAV男優の喘ぎ声だ。辺りを憚らず、誰かが喘いでいるのだ。
 長老は発電機を持っている。灯油で稼働する小型の発電機だ。初め私は、長老がそれでテレビでも見ているのかと考えた。だが、喘ぎ声は長老の段ボールハウスからではなく、別の段ボールハウスから聞こえていた。
 声の主を探し、段ボールハウスの集合体をぐるりと見てまわる。声が発せられているのは、ヘルスの段ボールハウスだった。段ボールの骨組みに被せられたビニールシートをそっと捲る。
 脚が見えた。四本の脚。絡まっている。粘膜と粘膜の擦れ合う粘着質な音が微かに聞こえた。察しはついた。
「馬鹿野郎!」
 私は激高し、ビニールシートを取り払った。ヘルスが驚いた表情で上半身を起こす。
「なんだよ!なにすんだよコック!」
 ヘルスの下半身には、千穂が顔をうずめていた。ヘルスの下半身は裸だった。千穂がヘルスの局部に口淫していたのだった。千穂も驚いた顔を見せ、眼を見開いていた。
 私はヘルスの段ボールハウスを蹴り飛ばした。段ボールがばらばらと崩れ、取り払ったビニールシートが風に煽られ、どこかへ転がっていった。
「このバイタが!」
 私が千穂を叱りつけると、ヘルスが弁解した。
「ちゃんと金は払ったよ、コック!」
「そういう問題じゃあない!」
 私はさらにヘルスの段ボールハウスを蹴った。続けざまに蹴り続け、ばらばらに解体してやった。
「ひゃあ!」
 ヘルスは激高する私を始めて見るはずだ。悲鳴をあげ、ズボンを履くと、どこかへ走って逃げていった。
「何してやがる!」
 私は千穂に怒鳴った。千穂は眼に涙を溜め、こぼすようにいった
「お金が必要なんです
「しゃぶを買う金か?」
 私は即座に訊いた。
 千穂は俯き、黙った。それきり千穂は言葉を継がず、小さく溜息をひとつ吐いた。


               (三)


 ポケットの中で携帯が鳴った。研いでいた包丁を鞘に納め、ポケットから携帯を取り出す。液晶には、ドクの文字が表示されていた。回線を繋ぎ、耳に当てる
「北乃です
「コックか?
「ええ。どうしました?」
 昼を過ぎていた。千穂は朝からどこかへ出かけ、早苗は私の作った昼飯を食い、こちらもどこかへ出かけている
「コック。いつかの女の子がいたろう?」
 早苗だろうか
「母親と一緒にうちで一晩泊まっていった母子だ。しゃぶ中の母親の娘だよ」
 やはり早苗だ。
「早苗がどうかしましたか」
「どうもこうもない。ドン・キホーテで万引きをやらかした」
「え?」
「私が偶然居合わせてね。今一緒に六本木交番に来てる。母親はいるか?」
 千穂はいない。どこへ出かけているのか。携帯は持っていないようだった。連絡の取りようがない
「母親はいません。どこかへ出かけています。おれがいきますよ、ドク」
「ああ。頼んだ。待っているよ」
 回線を切り、携帯をジーンズのバックポケットに収めた。水道のある児童遊園を離れ、段ボールハウスへと向かう。皆が働きに出ていた。私の使っている段ボールハウスの扉を開き、包丁を放った。こんなものを持っていては、職務質問をされたとき面倒だ。
 吹き溜まりから外苑東通りへと出た。歩道を駆ける。よく晴れていた。風が心地よい。
 六本木交差点に至る。信号に待たされた。私は焦れ、煙草が喫いたくなった。信号が青に変わる。辺りを走る車も、人の姿もまばらだ。三十メートルほど先に、六本木交番が見える。私は再び駆け出し、六本木交番へ飛び込んだ。
「コック!」
「おじさん!」
 四人の警官、そしてドクと早苗が私を迎えた。罪の意識がないのか、早苗は無邪気な笑顔を見せている。中田の姿もあった。今日はこちらへ詰めているらしい。ドン・キホーテの従業員か、黄色いユニフォームを身に着けた太い女の姿もある。眼が険を帯びていた。
「保護者の方ですか」
 中田とは別の警官が私に近づき、訊いた。
「ええ、まあ」
 中田は何もいわなかった。うっすらと事情を察しているのだろうか。
「どうしました。万引きと聞きましたが」
「そうなんだよ、コック」
 ドクがあとを継いだ。早苗がドン・キホーテで万引きを見咎められ、偶然居合わせたドクが、補導される早苗に付き添ってくれたようだ。黄色いユニフォームを着た太い女が私に近づき、いった。
「お父さんですか?」
「いや、まあ、ええ」
 いい淀んでいる私に太い女が畳みかけた。
「どういう教育をしてるんですか!いい迷惑ですよ、こっちは!」
 申し訳ありません、と私は頭を下げた。
「こちらの商品は買い取っていただきましたからね!」
 見ると、早苗の座っている椅子の前に机があり、その上にスマートフォンを模した玩具と小さなイルカのぬいぐるみが置かれていた。ドクが立て替えてくれたようだ。
「学校にも通達させていただきますんで。どこの小学校に通っているんですか?
「まあまあ」
 ドクが太い女をなだめる。だが、太い女の怒りは鎮まりそうになかった。
「いえ、その、それが」
「しらばっくれようとしたって無駄ですよ、お父さん。調べますからね
 警官たちは私たちふたりの問答にそっぽを向いている。中田もそうだ。当事者同士で解決しろ。背中にそうあった。
「学校に通っていないんです、彼女は。就学年齢ではあるんですが、事情がありまして」
 私はいった。事実だ。
「不登校児なんですか?」
「いえ、そういうわけではないんですが」
 どう説明したものか。私が悩んでいると、太い女が太い溜息を吐いた。
「とにかく、もうこの子は当店には出入り禁止ですからね。よくいい聞かせてください」
 それだけいい、太い女が踵を返した。交番を出てゆく。茶髪のポニーテールが太い身体と共に、ゆさゆさと揺れていた。
「どうもすみませんでした」
 私は警官たちとドクに詫びた。
「いえ、この歳頃の子供にはよくあることですから」
 警官のひとりがようやく口を開いた。中田が続く。
「指紋も取らせてもらいましたよ、北乃さん。まあ形式だけですけどね」
 形式だけということは、警察庁の指紋データベースには登録されない、という意味だろうか。早苗にことの重大さを教えるために指紋を取った、ということか。
「じゃ、私はヤボ用があるんで失礼するよ、コック」
 ドクがいい、席を立った。
「お疲れ様でした」
 警官が送り出す。
「ドク、ちょっと待って」
「ん?」
 ドクが足を止める。
「取っといてください」
 私は財布を取り出し、いった。
「立て替えてくれたんでしょう?」
 紙幣を二枚抜き取り、ドクへ渡した。
「ん。ああ。それじゃ遠慮なく頂いておくよ」
 ドクはいい残し、交番を出ていった。やはり白衣の背中がしわくちゃだった。
「それじゃ、私たちも失礼します」
 私はいい、早苗に手招きした。
「お巡りさんたちに謝るんだ。迷惑をかけたからな」
「ごめんなさい」
 早苗は眼を伏せ、小さな声で警官たちに詫びた。
「よくいい聞かせてくださいよ、お父さん。窃盗ですからね、これは
「わかりました。すみませんでした。それじゃあ」
 私はふたつの玩具を手にした早苗の片手を摑み、交番をあとにした。
 外苑東通りへと出る。また交差点で赤信号に止められた。
「ママはどこへいったんだ?」
 私は手を繋いでいる早苗に訊いた。
「お仕事。お仕事探すって」
 信号が青に変わる。私たちは吹き溜まりへ向け、歩き出した。横断歩道を渡り、六本木三丁目へ入る。歩道をゆく人の姿は、やはりまばらだ。
「盗みは罪だ」
 歩道を並んで歩きつつ、私はいった。
「つみ?」
 早苗が訊く。未就学児だ。意味がわからないらしい。
「してはいけないこと、って意味だ」
「でも」
「でも?」
 私は先を促した。
「ママがいってた。『欲しいものは自分で手に入れなさい』って」
 働いて手に入れた金でものを買え。千穂はそういいたかったのだろう。盗めという意味ではない。
「小遣いくらいならくれてやる。だからもう盗みはやめろ」
 私はいった。
「約束できるか、おじさんと?」
「うん!」
 早苗が元気を取り戻した。
 吹き溜まりへと帰ってきた。早苗は駈け出し、児童遊園で遊び始めた。私は拾ったシケモクに火をつけた。学校へ通わせてもらえない早苗には友達などいないのだろう。そこへ来てあのドン・キホーテだ。欲しいものが山のように並んでいたに違いない
「北乃」
 背後から声がした。振り向くと、手越が立っていた。今日はスラックス姿ではない。厨房服だ
「どうしたんです、手越さん。もう戻る気はないといったはずですよ」
「それとは別件だ」
「いいんですか、こんな時間に」
 私が訊くと、手越は口の端を綻ばせた
「昼休みに抜け出してきたんだ。飯塚さんの件で」
「飯塚さんがどうかしたんですか」
 私はシケモクを放り、靴で踏み躙った。
「消えた」
「消えた?」
「ああ」
 飯塚は『九喜』のコック長を長年勤めている男だ。突然姿を消したということか。
「店に出てきていないんですか?
「そうらしい。お前さんの耳にも入れておこうと思ってな
「家には?
「いないらしい。店が捜索願を出したがね。失踪なんてよくあることさ。本気で捜してくれやしない」
 手越が続ける。
「まあ、あのギャンブル狂いだからな。借金でもこさえたんじゃないか」
「誰も捜していないんですか」
「ああ。まあ店は困っているだろうが。お前さんの恩人だろう?一応伝えたからな。捜すなら勝手にしろ。用はそれだけだ」
 それだけいい残し、手越はこちらに背を向けた。吹き溜まりから消えてゆく。背中が少しずつ小さくなり、やがて見えなくなった。
 飯塚は私の恩人だ。飯塚のおかげで私は社会性を身に着けたといっていい。そうでなければ、私は西京連合のちんぴらのまま生きざるを得なかっただろう。愛里との先もなく、そして、娘を失うこともなかったに違いない。
 複雑な心境ではあったが、飯塚が私の恩人であることに変わりはなかった。放ってはおけない。


           (四)


 浮浪者となり、食材を求めて赤坂の街を徘徊するようになってからも、『九喜』へと寄るのは避けていた。無意識のうちに羞恥心が働いていたのかも知れない。堕ちるところまで堕ちたこんな姿を、飯塚やかつての仲間たちに見られたくない、と。
 西京連合を抜け、『九喜』の門を叩いた理由は、単に店がコックの見習いを募集していたからだ。求人誌を手にし、平身低頭、面接を受けた。幸い、料理の基本はできていた。家庭が崩壊し、子供の頃から飯は自分で作っていたのである。父は外に女を作って蒸発し、母は水商売で稼いだ金を家に入れるだけで、早朝から布団に入り、出勤する夕方まで眠っていた。
 面接を担当したのが飯塚だった。若かった私は連合にいたこと、やくざの使いっ走りなどをして食っていたことなどを全て洗いざらい話した。共に将来を考えられる仲の女ができ、連合を抜けたこと、心機一転、料理人としての人生を新たに始めたいと考えていること
 オーナーや他の従業員は難色を示したようだが、飯塚は私を迎え入れた。厨房服を私に与え、料理の基礎から技術を私に叩き込んだ。叩き込まれたのは料理の腕だけではない。ちんぴらではなく、まっとうな人間としての社会性もだ。
 ある日、飯塚は私を『九喜』から追い出した。北乃くん、中華だけで終わってはダメだ。トルコ料理、フレンチ。和食。この街にはありとあらゆる食を学べる店があり、それを求める客もいる。それから私はケバブ屋、料亭、フランス料理店、イタリア料理店と赤坂の食い物屋を渡り歩き、気が付くと六本木の高級レストラン『リナ』のコック長として迎えられていた。数えてみると、『九喜』には三年ほどいたことになる。
 店はみすじ通りにあった。場所は変わっていない。ランチタイムを過ぎ、店内は閑散としていた。
「いらっしゃいませ」
 迎えたエスコート係の女が眼を見開いた。
「北乃さん?」
 内装にも変化はなかった。赤を基調とした絨毯、白いテーブルと椅子。初めて飯塚のコース料理を口にした記憶が思い出された。安いコースだと品数は多いが、全部合わせても牛丼一杯分ほどの量しか出てこないのだった。
「北乃さんじゃないですか。どうしたんです?お久しぶりですね」
 長年勤めているエスコート係だ。確か、私より二日か三日ほど先に入った女だった。経過した年月の分、口許と眼元に皺が寄り、それを化粧で覆い隠している。
 私は愛想笑いを浮かべ、訊いた。
「オーナーはいるか」
 今はどうか知らないが、当時は店にほど近いマンションに住んでいたはずだ。
「ランチが終わったんで、一旦お家へ戻られましたよ」
 自然に脚が動き、厨房へと向かっていた。
「それより北乃さん。飯塚さんが。憶えてます?飯塚さん」
「ああ。その件で来た。厨房におれの知り合いはいるかな」
「芦川さんが今はコック長です。なんていうか、暫定的なあれですけど」
 フロアを抜け、細い通路の先に厨房がある。やはり何も変わってはいなかった。うしろにエスコート係の女がついて来ている。私はまだ名前を思い出せずにいた。
「芦川さん。北乃さんです。憶えてます?」
 背後から声がした。芦川は厨房の隅で椅子に座り、雑誌に眼を落としていた。女の声に、顔を上げる。反応は女と同じだった。眼を見開いている。
「北乃さん?」
 途端に、芦川が破顔した
「北乃さんじゃないですか」
 芦川は私の後輩だ。二年ほど遅れてこの店に入った。私と同じく飯塚に怒鳴られ、叱咤され、料理の基礎から憶えたクチだ。長髪だった頭は短く刈られ、若いが故に似合わなかった口髭も消えている。
「外してくれるか」
 私はエスコート係の女にいった。女が頷き、厨房を出てゆく。
「飯塚さんが消えたと聞いた」
「ええ。そうなんです。いきなり来なくなって」
 芦川が椅子から腰をあげ、厨房の中を歩き近づいてくる。あの頃まだ二十代の初めだった。もう三十を過ぎている。
「連絡も取れないのか」
「そうなんです。店としても警察に届けを出して、一緒にマンションまでいったんですけどね」
「どうだった?孤独死でもしてたか」
 私の冗談を芦川は無視し、続けた。
「管理人も同伴して部屋に入ったんですけど、もぬけの殻でした。携帯にも繋がらないし、八方塞がりですよ」
「番号を教えてくれ」
 私がいうと、芦川が十一桁の番号を諳んじた。繰り返し何度もかけたのだろう。ジーンズのバックポケットから携帯を取り出し、私は番号を入力した。発信のボタンを押し、耳に当てる。
「無駄ですよ、北乃さん。繋がりません」
 電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるか。ガイダンスがそう告げた。
「大きな声じゃいえませんけど、北乃さん。もしかすると借金かも知れません。あの人、賭けごと好きでしたから」
「取り立てでも来たのか?」
 私は訊いた
「一度来ましたよ。『ホープ』とかいったかな。闇金じゃないかと思うんですけど。六本木の金融屋ですよ。あの人、『記憶の遊び』とか何とかいって、麻雀から競輪まで何でも手を出してましたから」
 いいつつ、芦川は眼を伏せた。
「五十を過ぎて独身で、子供もいませんからね。ギャンブルに、その、心の拠り所っていうんですか?求めていたのかも。何かトラブルに巻き込まれてなきゃいいですけどね」
 芦川が顔をあげ、いった。
「それと北乃さん。飯塚さんから聞きました。その・・・」
「浮浪者に成り下がった、か?」
 私は自嘲気味にいった。
「ええ。どこかの店でまた新たにまともな生活を始められるようにする、って飯塚さんがいってました。どうしてホームレスなんかになっちまったんです?」
 娘や元妻のことは聞いていないらしい。
「その飯塚さんが消えちまったのではな。飯塚さんの借入先はその『ホープ』ってところだけか、芦川」
 芦川が眼を逸らし、視線を宙へ据えた。
「いえ、わかりません。ただ、この店に取り立てに来たのは、その『ホープ』ってところだけです」
 六本木の『ホープ』。希望という名の闇金業者か。
「ありがとう。邪魔したな」
 私は踵を返し、厨房をあとにした。背後から声がする。
「北乃さん」
 振り返り、私は厨房にいる芦川を見た。
「いつでも待ってますから。飯塚さんもいってましたよ。この店だって、北乃さんならいつでもウェルカムです」
「ありがとうよ」
 狭い通路を歩き、フロアに出た。傾きかけた陽が窓から差し込んでいる。キャッシャーの前を通り、ドアを開いた。
「北乃さん」
 エスコート係の女が私に声をかけた。まだ名前を思い出せない。
「飯塚さんが・・・」
「わかってるよ。おれが捜してみる」
 ドアを開き、店の外に出た。平日の昼間だ。人通りは少なかった。

 私の住処がある吹き溜まりにほど近い雑居ビルの地下に、その金融屋はあった。看板は出ていない。一階に小さなドレスショップがテナントして入り、その傍らで地下へと続く階段が洞穴のように口を開けていた。階段に踏み入ると、センサーが設置してあるのか、照明が灯った。狭い階段だ。階下を見据える。ドアがあった。階段を降り、近づく。『HOPE』と記されたプラスチックの板がドアに貼りついていた。ノックする。応答はなかった。キャバクラ嬢向けのドレスショップはすでに開店している。夕方に近かった。金融屋の営業時間というのは何時ごろなのだろうか。
 さらにノック。はい、と、今度は応答があった。
「開いてますよー」
 愛想のよさそうな男の声がドアにミュートされ、くぐもって聞こえた。ドアを押し開く。
「いらっしゃいませ、融資のご相談で?」
 チノパン姿の若い男が笑顔で出迎えた。
「いや、そうじゃない」
 私がいい淀んでいると、男は素早く動き、奥の応接セットへと私をいざなった。
「まあどうぞ、どうぞ。今お茶でも淹れますんで」
 いわれるがまま私は応接セットへと歩き、ソファに腰をうずめた。机がふたつ。そのうちひとつに髪を短く刈った眼付きの鋭い男が座り、こちらへ会釈をよこした。筋者ではないだろうが、堅気でもない。茶を運ぶこのチノパンの男とて同じだろう。
「お待たせしました」
 チノパンが急須と湯呑みを持ち、ソファにかけた。
「初めてですと、まず返済能力があるということを証明するために実績を作っていただく必要があるんですよ」
 一方的に喋りつつ、チノパンが急須から湯呑みに茶を注ぐ。熱い煎茶が私の前に置かれた。
「さっきもいったが、融資の相談じゃあないんだ」
 茶には手をつけず、私はいった。机に座った眼付きの鋭い男が聞き耳を立てている。視線は机の上の一点に据えられていた。
「といいますと?」
 眼をやや丸くし、チノパンが訊く。私は本題に入った。
「おれの知人が姿を消した。ここから融資を受けていた。飯塚正行という男だ」
 聞き耳を立てている男の頬に、緊張の色があった。思い当る節がある、ということだ。
「はあ」
 チノパンが間の抜けた声で応える。
「何かトラブルはなかったか?返済が滞ったとか、或いは、飛んだとか?」
 私は訊いた。チノパンではなく、机に座っている男に。
 チノパンが口を開く。
「お客さん、そういうのはうちじゃ取り扱ってないんですよ。まあお分かりだとは思いますけど」
 チノパンがポケットから煙草を取り出し、火をつけた。煙と共に言葉を吐き出す
「うちは金貸しですから。そういうのは警察にでもいった方がいいんじゃないですか?」
「何でもいいから手がかりが欲しい。教えてくれ。何かトラブルはなかったか?」
 机に座っていた眼付きの鋭い男が、不意に立ち上がった。机を離れ、こちらに近づいてくる
「お客さん。いや、お客じゃないか。何者だい?探偵?そうは見えないけど・・・」
 思いのほか高い声で、男は訊いた。
「いや、ただの浮浪者だよ。一応日銭は得てるがね」
「中原です」
 口調を改め、男が名乗った。そのままチノパンの隣に座る。頬には若干の緊張が残っていた。歳は私と同じくらいか
「お客様の個人情報ですからね。うちとしても慎重に扱っているんです」
 個人情報保護法を盾に、こちらにヒントを与えない気らしい。
「何も教えられることはありません。お引き取りを」
 中原の眼が、さらに鋭さを増した。有無をいわせない。そんな眼だった。私はソファから立ち上がった。
「邪魔をした」
 言葉だけの詫びをいい、ドアへと向かう。チノパンがあとを追う気配が、背後にあった。
 ドアを開き、私は最後に訊いた。振り向いた私に、チノパンは驚いたのか、また眼を丸くした。
「最後に教えてくれ」
「はい?」
「バックにはどこがついてる?おたくらのバックだ」
「え?ああ、飯館組と、その上の侠撰会です」
 あっさりとチノパンがいった。やはり闇金だ。バックにはやくざがついている。侠撰会。この麻布界隈を治める指定暴力団だ。飯館組はその二次団体。西の大手から数えると、三次団体ということになる。
「ありがとうよ」
 私は礼をいい、ドアを閉じた。


             (五)


 陽が暮れ、街が眼を覚ますと、私の段ボールハウスの前には行列ができる。皆が茶碗をふたつ持ち、飯とおかずを盛られるのを待つのだ。
 ヘルスの姿もあった。眼が合うと、ばつの悪そうな笑みを浮かべる。いつの間にか、このホームレスコミュニティに戻ってきていたらしい。
「こないだは悪かったなあ、コックよお」
 コインを受け取り、私はヘルスの茶碗に飯を盛った。
「いや・・・」
 今日のメインディッシュはエビチリだ。味付けは簡単だったが、一匹ずつ頭を取り殻を剥き、かなり手間がかかった。
「おいしくいただくぜ、コック」
 いったヘルスが両手に茶碗を持ち、その辺りに座り込んだ。飯を焦らされた犬のように飯をかき込んでいる。
 早苗の順番が回ってきた。千穂の姿はない。まだ帰ってきていないのか。昼にも、千穂は姿を現さなかった。早苗の茶碗にエビチリをよそいながら、話しかける。
「昼と同じメニューで悪いな。ママはまだ帰ってこないのか?」
 エビチリの茶碗を受け取り、早苗が答える。
「うん。まだ帰ってこない。それよりおじさん、お昼はどこいってたの?」
「ヤボ用でな。ちょっと外に出ていた」
 飯塚の行方を捜す手がかりは、『ホープ』でぷっつりと途絶えていた。他に当たる先はないものかと私は考えていた。
「ママの分は一応取っておく。飯はしっかり食わないとな」
 私はいい、飯をよそった茶碗を早苗に手渡した。
「うん!いただきます!」
 いつも早苗は無邪気だ。他の者もそうだが、私の作る食事に文句をいうこともない。いつも飯をきれいに平らげる。早苗は長老の隣に腰をおろし、箸を取った。
「お嬢ちゃん、ママはどうした?」
 長老が訊いている。
「まだ帰ってこないの」
「風呂には入れてもらってるか?」
「うん。昨日連れていってもらったよ」
「そうか。よかったな。風呂は気持ちいいもんな」
 私は自分の食う分の飯とエビチリを茶碗によそい、釜と鍋の蓋を閉じた。中にはまだ一人前、料理と飯が残っている。行列は消えていた。千穂を除く皆に飯がゆき届いたのだ。
 携帯が鳴ったのは、それぞれが飯を食い終え、茶碗を洗うために児童遊園や公衆トイレに皆が行列を作った頃だった。児童遊園にある蛇口の最後尾に並んでいた私は茶碗を地面に置き、ジーンズのバックポケットから携帯を取り出した。知らない番号だ。03から始まる十桁の番号が液晶に表示されている。
「はい」
 回線を繋ぐや否や、女の声がスピーカーから聞こえてきた。
「北乃さん!?」
 声に憶えがあった。千穂だ。かなり切迫している状況であるのが、口調からわかる。
「どうした?」
「北乃さんですか!?」
「ああ、おれだ。どうした?」
「助けてください!」
 訳がわからない。何があったというのだ。
「今どこにいるんだ?訳を話してくれ」
「お金を、お金を持ってきて下さい!飯館組の事務所です―」
 飯館組。この界隈を治める指定暴力団、侠撰会の二次団体だ。一方的に回線が切られた。ツーツーという電子音だけが回線を漂う。かけてきた番号を呼び出し、発信のボタンを押した。繋がらない。私は茶碗を置いたまま駈け出した。金がいる。
 外苑東通りを挟んだ六本木五丁目にATMがある。駆けこみ、ありったけの金をおろした。十万と少しだ。その金を持ち、私は再び駆け出した。飯館組の事務所なら知っている。かつてスカウトされたことがあるのだ。場所が変わっていなければいいが。
 外苑東通りを横断し、六本木三丁目へと戻る。吹き溜まりから声がした。
「コック、どうしたんだよ?」
 それを無視し、私は走った。六本木交差点を超え、交番の前を通り過ぎる。全身から汗が噴き出した。金券ショップ、ラーメン屋。後方へ遠ざかっていった。
 ミッドタウン前の交差点を渡り、六本木七丁目へと入る。とうに閉店している不動産屋のある路地へと駆けこみ、ひたすらに走った。路地から路地へと折れ、さらに走る。ここまで来ると、星条旗通りが近かった。
 飯館組の事務所は、星条旗通りから一本路地を折れたビルの一階に入っていた。場所は変わっていない。ノックもせずにドアを押し開く。千穂が、そこにいた。床に突っ伏している。傍らに男が三人。そのうちひとりに見憶えがあった。
「和田さん」
 私は思わず、その名を口にしていた。
「北乃さんか。懐かしいな」
 飯館組のやくざ、和田がいう。
「なんでこの女と北乃さんが繋がってるんだ?」
 もうひとりもやくざだろう。こちらを見据え、黙っている。坊主頭に藍色のスーツ。眼に筋者特有の鋭さがあった。残るひとりはジャージ姿だ。短い髪を茶色に染めている。
「話すと長いですよ。それより、何があったんです?」
 私はいった。千穂が顔をあげる。口許に出血があった。
「すみません!北乃さん!」
 千穂が眼を伏せ、詫びた。床に涙が落ちる。
「謝ったって取り返しがつかねえんだよ!」
 ジャージの茶髪が千穂を蹴りあげた。靴が千穂の腹に食い込み、口から涎が垂れる。
「こんなヨレヨレの服を着た奴を呼んだところで、どうしようもねえなあ、おい」
 ジャージがいいつつ近づいてくる。私が警戒し、半身に構えると、ジャージが笑みを浮かべ、ファイティングポーズを取った。ボクサー崩れのちんぴらか。
「やめとけ、羽賀」
 和田が命じた。このジャージは羽賀というらしい。坊主頭のやくざが初めて口を開いた。
「知り合いか?和田」
「ええ、まあ」
 もう十年近くも前、私を飯館組に勧誘したのが和田だ。私はまだこの辺りで飲み、暴れている西京連合のちんぴらだった。
「うちにスカウトしたことがあるんですよ、阿南さん」
 千穂が突っ伏したまま、泣き始めた。涙や涎、それに血が床へと垂れてゆく。
「あ、北乃さん、こちら阿南さん。侠撰会の」
 阿南が目礼する。私も会釈を返した。
「一回だけチャンスをやったんだ、北乃さん」
 和田が喋り始めた。
「そうしたら北乃さんに電話をかけたってわけ。どうする?北乃さん。この女、しゃぶの運び屋をやらせていたんだけどね、ピンハネしてたんだよ。先方からクレームが入ってね」
「オレだっていい迷惑ですよ!」
 羽賀が続く。よく見ると、その顔にも殴られたと思しき傷があった。
「この女と一緒に横浜まで運んでたら、オレがいないうちにコイツ自分でしゃぶ食っちまいやがって」
 和田がその言葉を遮った。
「そういうわけなんだよ、北乃さん。報酬として金としゃぶを少しずつ渡してたんだけどね、それじゃあもう足りないんだろうよ。アパートだって用意しようと思ってたのに・・・」
 阿南がしゃがみ込み、千穂に話しかけた。
「あんた、渋谷のヘルスで働いてたっていったな」
 かすかな呻き声のあと、千穂が頷く。
「もうあんたお終いだよ。堕ちるところまで堕ちた。金もないんだろう」
 静かな口調だった。それが逆に不気味な響きとなって聞こえる。和田が訊いた。
「どうします?阿南さん」
 阿南が立ちあがりつつ、いう。
「内臓でも売ってもらうしかないな。この女はもう使えない」
「ちょっと待ってください。阿南さんといいましたか」
 私は阿南に語りかけた。
「この女が食ったしゃぶはいくらくらいです、末端価格にして?」
「あんたが立て替えるってのか?」
 ジャージが口を挟む。和田と阿南は私に視線を移していた。
「十五万ほどですよ」
 和田がいった。私の手持ちでは足りない。千穂が嗚咽を漏らした。
「大丈夫、大丈夫。阿南さんは優しい人だから。痛くないようにしてくれるって。きっと」
 和田の言葉に、千穂は声をあげて泣き始めた。ジャージが吐き捨てる。
「殺したくなっちゃうでしょ?この女」
「待ってくれ。十五万ですね。なんとかします」
 見殺しにはできない。あと五万、なんとかして工面しなければ。
「北乃さんといったか」
 阿南がいった。
「あんたが立て替えるっていうなら、十万に負けてもいい」
 その言葉に、私はすぐジーンズから財布を取り出した。万札を十枚、数えつつ引っ張り出す。
「ただ、もう次はない」
 私は十枚の紙幣をジャージに押し付け、千穂の傍らにしゃがみ込んだ。
「ほら、もういくぞ」
 ひとつふたつと空咳をし、千穂がよろよろと立ちあがる。口からは、まだ涎と血が流れていた。
「それじゃあ」
 千穂の手を引き、事務所をあとにする。残された三人は、私たちふたりが事務所を出てゆくまで無言だった。
 食ったしゃぶが切れているのか、千穂はフラフラだった。私の足についてくるのがやっと、といった態だ。千鳥足ながらも、何もいわずについてくる。
 外苑東通りに出た辺りで、千穂の足が止まった。
「ほら、歩くんだ」
 私は千穂に肩を貸し、無理矢理に歩かせた。引き摺っている、といったほうがいい。千穂は泣いていた。嗚咽を漏らしている。
 六本木交番や麻布署から眼の届く道は避けた。女をひきずっていては何をいわれるかわからない。夜の路地を縫い、吹き溜まりへと辿り着く。
「ママ!」
 長老と路上に座っていた早苗が立ちあがり、駆けてきた。南斗内科はすぐそこだ。私は千穂を担ぎ上げ、早苗にいった。
「病院につれていく。そこで待っていろ」
「おじさん、ママは大丈夫なの?」
 意識を失いかけている。大丈夫だといっても早苗は信じないだろう。
「わからない。とにかく病院につれていく。いつか君もいったすぐそこの病院だ。心配するな」
 吹き溜まりから外苑東通りの歩道へと踏み出し、南斗内科の入った小さなビルの狭い階段を登る。千穂の身体は、やはり病的に軽かった。
「ドク?ドク!」
 踊り場に、診療所の明かりが漏れ出ていた。千穂の身体を担いだまま扉を押し開く。
「コックか。どうした?」
 待合所の奥からドクが顔を出す。髪に寝癖がついていた。私に担がれた千穂が眼に入ったのだろう、寝ぼけ眼が丸くなった。
「コック、とりあえずベッドに寝かせて」
 ドクに従い、近くのベッドに千穂を寝かせた。すでに寝息を立てている。口許に血の跡。頬には涙の痕が伝っていた。
「どうしたってんだ、コック?」
「またしゃぶを食ったんだ。飯館組で運び屋をやらされていたらしい。運んでいたしゃぶをくすねて自分で食っていたんだとさ」
「しゃぶが切れてまたひっくり返ったのか?」
「そんなところだ」
「お嬢ちゃんはどうした、コック?」
「長老と一緒に待ってる」
「そうか、どれ」
 ドクが脈を計る。異常はないようだ。
「飯は食っているか、コック?」
「用意はしてるがね。帰ってこない日も多々あった」
 溜息を吐き、ドクが椅子に座る。
「ダルクにでも入れるかね。あてならあるよ、コック」
「それは・・・」
 蚊の鳴くような声だった。千穂が眼を覚ました。
「・・・それは嫌です・・・」
「しかしねえ、あんた」
 まだ意識が混濁しているらしい千穂にドクが語りかける。
「もう末期的だよ、あんた。自分じゃやめられないだろう?」
 白髪の頭を掻き、ドクが続ける。ふけがぼろぼろと床に落ちた。
「施設へ入れば、それこそ強制的に断薬だ。何年かかるかわからんが、入っているあいだは確実にやめられる」
「・・・早苗は、娘はどうなるんですか?」
 千穂の問いに、私は答えた。
「保護施設に預けることになるだろうな」
 ドクが頷く。
「離れ離れに・・・」
「ああ。そうなる。あんたがしゃぶをやめられたら、また会えるさ」
 千穂が嗚咽を漏らし、また泣き始めた。嗚咽の間から、また蚊の鳴くような声でいう。
「・・・あの娘と離れるのだけは嫌なんです」
 私はドクと顔を見合わせた。ドクは困り果てたという顔をしている。
「じゃあどうする?」
 私は訊いた。
「自分でやめます。しゃぶを」
 ドクが椅子から立ち上がり、ベッドへと歩み寄った。
「本当にやめられるのかい?」
 ドクの問いに、千穂は眼を見開きながら答えた。
「やってみます。あの娘と離れ離れになるのなら、きっと」
 眼に強い光があった。決意の表れか。しかし、千穂はこれまで何度その決意を固めてきたのだろう。
 私はベッドに歩み寄り、告げた
「しゃぶの運び屋をやるのが悪いことだとは、おれは思わない。それはお前さんの勝手だ。和田さんは住処を用意してくれるつもりだったんだろう?
「・・・はい・・・
 千穂が頷き、眼を閉じる。瞼から、新たな涙が押し出された。
「ただ、しゃぶはもう食うな。それから、ひと段落ついたらまっとうな仕事を探すんだ。このまま運び屋をやってたんじゃ、捕まるのは時間の問題だぞ。それこそ早苗とは会えなくなる」
 千穂の瞼から、涙が溢れ出す。
「・・・わかりました。もうしゃぶはやめます・・・」
 ドクが口を開く。
「簡単じゃあないぞ。あんた、完全にしゃぶ中だ」
 千穂は涙を流しながら、意識を失いつつあった。

 ハマチが数尾と大根が手に入った。早朝、吹き溜まりのホームレスコミュニティに戻ると、ホームレスたちが次々と段ボールハウスから這い出てくる。連中が働きに出ると、吹き溜まりは静寂に包まれた。
 ハマチと大根を煮込んだブリ大根を早苗に食わせ、昼を迎えた。南斗内科で眼を覚ましたのだろう、ビルの影から千穂がフラフラと現れる。私は朝食と同じメニューの昼食を早苗に食わせているところだった
「ママ!」
 飯の盛られた茶碗を手にしたまま早苗が千穂に駆け寄る
「あんたも食え。ほら」
 私はブリ大根と飯を茶碗に盛り、千穂に差し出した。会釈し、千穂がそれを受け取る。
「いただきます」
 声を揃え、二人が箸を取る。
「おいしい」
 千穂の顔が綻んだ。
「あの・・・」
 表情が変わり、陰鬱な色を帯びる。箸が止まっていた。
「昨日立て替えていただいたお金は必ず返しますから」
「それより」
 私はいった。
「しゃぶは抜けたのか」
「はい。点滴も打ってもらいました」
「やめられそうか、しゃぶは」
「はい」
 千穂の表情が引き締まる。
「必ずやめます。もうやめましたから」
 飯を食い終えると、二人は児童遊園で遊び始めた。吹き溜まりの奥から早苗の嬌声が聞こえてくる。
 夕方に近かった。じきに働きに出ていたホームレスたちが帰ってくる。私は夕食の準備にとりかかった。
「北乃くん」
 背後から聞き憶えのある声がした。手を止め、振り向く。飯塚が立っていた。スラックスとワイシャツには皺が寄り、襟は立ち、靴は汚れている。飯塚は苦笑いを見せた。
「飯塚さん」
「中、いいかね、北乃くん」
 飯塚が私の段ボールハウスを指で示し、いう。
「あまり姿を晒したくないんだ」
「ええ。どうぞ」
 段ボールハウスの入り口を開き、飯塚を中に招き入れる。中に落ち着くと、飯塚は嘆息を漏らした
「どうしたんです、飯塚さん。捜したんですよ。『九喜』の連中だって心配してる」
 矢継ぎ早に繰り出す私の言葉を遮り、飯塚が口を開いた。
「話すと長い。簡単にいうと、ヘミングのクスリをくすねたんだ。借金があってね。まあ、それだけじゃあないが」
「ヘミング?
「マーゴ・ヘミングだよ。君には知らせていなかったがね、私は昔からヘミングのクスリの運び屋をやって小遣いを得ていたんだ。それこそ、きみが『九喜』で働き出すよりずっと昔からだ。小遣いというには大きすぎる額が手に入った」
 その名は聞いたことがあった。マーゴ・ヘミング。赤坂を根城にする麻薬の密売人だ。
「昔はよくヘミングが来日した外タレにクスリを斡旋してたもんだ。外国のロック歌手なんて、クスリがないとコンサートにならない、なんて奴もゴロゴロいたからね。昔、ポール・マッカートニーが大麻をこの国に持ち込もうとして空港で追い出されたろう?」
 そんな事件もあった気がする。ずいぶん昔の話だ。
「あんな連中を相手に、ヘミングは興行主と組んでクスリを与えていたんだよ。まあ、今ではそんな歌手も減ったがね」
 私は訊いた。
「そこでなんで飯塚さんが噛むんです?」
「いったろう。運び屋を長年やっていたんだ。麻布界隈に流通する麻薬は一度ヘミングの許へと集まる。そこから飯館組や密売人の手に分配されるんだよ。私は若い頃からその運び屋だった。だが・・・」
 言葉を切り、飯塚が溜息を吐いた。
「それも終わりにしたい。ヘミングにいったんだ。『辞める』とね。だがヘミングは首を縦に振らなかった。長年勤めたんだ。信用できる運び屋など他にいないんだろう。しかし、私はもう終わりにしたい。借金もあるし、何よりもう、まともな人生を歩みたいんだよ」
「くすねた、といいましたね?」
「ああ」
 飯塚が頷きつつ、煙草を取り出す。
「盗んだって意味ですか」
「そうだ。飯館組に渡るはずの覚醒剤を隠し持ってる。今ここにはないが」
 合点がいった。それであれほどギャンブルに金を注ぎ込めたのか。
「命を狙われますよ、飯塚さん。今からでも返したほうがいい」
「もう手遅れだよ。一大決心だったんだ。私はあの覚醒剤をどうにかして金に変える。それでこの街とはおさらばだ」
 飯塚が煙草に火をつける。煙が段ボールハウスの中に充満した。
「金に変えるって、どうやって?」
 煙を吐き、飯塚が答える。
「それはまだわからない。だが、必ずやるよ。もう足を洗うんだ」
 私はいった。あまりに無謀だからだ。
「今からでも遅くありません。その覚醒剤を返すべきです。あまりに危険だ。危険すぎる」
 飯塚の眼に不敵な色が浮かんだ。
「もう遅い。私はもうやってしまったんだ。今日はお別れをいいに来たんだよ、北乃くん。私はきっとこのまま街を去る」
 しばらく潜って動向を窺う気ではいるがね、といい残し、飯塚が段ボールハウスを出た。私もそれを追うように、段ボールハウスから這い出る。
「お別れだ。北乃くん」
 陽が暮れつつあった。街が眼を覚ます頃だ。辺りにはぽつりぽつりとネオンが灯っていた。
 手を振り、飯塚が背を向けた。
 飯塚は振り返ることなく、吹き溜まりから消えた。


             (六)


 携帯が鳴ったのは、飯塚が私の許を訪れ、消えてから四日が経った夜だった
「コック!コック!」
 皆が寝静まり、辺りにはクラブから漏れ出る重低音が漂っている。長老の声が聞こえた。私も段ボールハウスに入り、眠っていたところだった。入り口を内側から開き、私は訊いた。
「なんですか、長老」
「携帯が震えてるぞ。あんたのだ」
 私は段ボールハウスから這い出ると、長老の暮らす段ボールハウスへと歩いた。長老が発電機と繋がれた携帯を私に手渡す。液晶に眼をやった。バッテリーの充電は終わっている。番号だけが、液晶に表示されていた。
「さっきからコックのだけ鳴りっぱなしだ。眠れやしねえよ」
 長老が愚痴をこぼす。
「すみません」
 私はいい、発電機に接続されている充電ケーブルを携帯から抜いた。携帯はまだ震え続けている。
 不意に、携帯の震えが止まった。液晶の明かりが消える。私は着信履歴を呼び出した。同じ番号から十回以上かかってきている。
 また携帯が震え始めた。同じ番号だ。私は回線を繋ぎ、携帯を耳に当てた。
「はい」
「北乃さんかい」
 女の声だ。若くはない。酒か煙草で潰したような声だった。
「ええ。私です」
「今から赤坂のホテルモントレへおいでなさい。ご馳走するわ」
「すみません、どちらさまです」
 私は訊いた。
「ヘミング。マーゴ・ヘミングというわ。飯塚のことで話があるの」
 飯塚。もう捕まってしまったのだろうか。
「地下にBARがあるわ。そこで待ってる」
 潰れた声の裏に、恫喝の響きがあった。断るわけにはいかないだろう。
「少し時間をもらえませんか。歩きなもので」
「いいわ。それじゃあ一時間後に」
 ヘミングはそれだけいい、一方的に回線を切った。飯塚が捕まってしまったのなら、急がなければならない。私は携帯をジーンズのバックポケットに突っ込み、走り出した。
 外苑東通りから路地へと折れ、路地から路地を縫い、六本木通りへと出た。誰も歩いていない横断歩道を渡り、赤坂へ入る。運動不足がたたったのか、かなり息が切れていた。とうに全ての店が閉店したあとの料亭街を抜けると、ネオンが煌々と光る赤坂の街が私を迎えた。日付が変わっているが、まだ街は眠っていない。赤坂通りを通り越し、みすじ通りに入った。
 ホテルモントレはみずじ通り沿いにある高級ホテルだ。麻薬の売人と聞いた。リスクは高いが、かなり儲かる商売だ。ヘミングはそこでホテル住まいをしているのだろう。
 ビルの立ち並ぶみすじ通り。そこへひときわ高いビルが聳え立っていた。ホテルモントレだ。分厚い自動扉が開く。受付には誰もいなかった。チェックインはすでに終了している。地下への階段を探した。フロアの隅に、螺旋状に地下へと下りる階段があった。まだ一時間は経っていない。私は手すりを摑み、階段を駆け降りた
「お客様」
 磨りガラスの入り口が見えた。黒服が私に声をかける。
「なんだ」
「その・・・」
 黒服が私の身なりに眼をやり、何かいい淀んだ。あまりにラフな格好だと入店を断られる店なのだろう。
「待ち合わせだ。相手はマーゴ・ヘミングという」
 私がいうと、黒服は眼を見開き、道を開けた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 私は礼をいい、BARの中へと入った。
 薄暗い店内を見回す。カウンターに客はいなかった。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中から、バーテンダーがいう。バーテンダーはすぐに私から眼を離し、奥のボックス席に視線を送った。視線を追う。ボックス席にひとり、私ほどではないが、ラフな格好をした女が座っていた。一度私に視線を送り、テーブルを挟んだ席を眼で示す。ヘミングのいる席へ向かい、私は歩を進めた。
「よく来たわね。まあ座りなさい」
 柔和な笑みを浮かべ、ヘミングが席を勧める。私は示された席に座った。カウンターから出てきたバーテンダーが近寄ってくる。
「何をお飲みになるの?おごりよ、あたしの」
 咳のようだったが、言葉だ。何を飲むのか、ヘミングが訊いているのだ。
「水で結構です」
「あら、そう」
 ヘミングが煙草を取り出す。セーラムだった。デュポンで火をつける。皺の寄った口許から煙が吐き出された。歳は六十を下らないだろう。化粧はしているが、白髪は染めていなかった。ヘミングが口を開く。
「あたしで四代目なの」
 見たところ、日本人ではない。白人か、その血が混ざっている。だが、流暢な日本語だった。
「何がです?」
 バーテンダーが水を運んでくる。テーブルに置き、無言のまま去った。
「ヘミング。マーゴ・ヘミングよ。この名は変わらないけど、ヘミングは代々、来日して東京に来た著名な外国人にクスリを提供してきたの。それであたしが四代目ってわけ。あたしの代で、もう三十年近くになるわ」
 歳のわりに、よく喋る女だった。テーブルには、琥珀色のウィスキーが注がれたグラスと、バーボンのボトル、そして灰皿が置かれている。
「お飲みになる?」
 私の視線を追っていたヘミングがいう。
「スコッチもあるの。あたしのボトルよ」
「いえ、結構。それより」
「何?」
 剣呑な口調でヘミングが訊く。
「おれの番号をどこで?」
 私は訊いた。
 「飯館組よ。あたしがクスリを卸してる所のひとつ。もうクレームが来てるわ。『届かない』って」
 ヘミングが次の煙草に火をつけた。
「飯塚には長いあいだ、クスリを運ばせていたわ。それが突然、クスリと一緒に消えたの。もう一週間になるわ」
 水を一口含み、私はいった。美味い水だった。普段口にしている水道水とは大違いだ。
「それで、なぜおれに?」
 ヘミングがグラスのバーボンを含んだ。
「あなた、飯塚とは長いつきあいでしょう。何か知ってるのかと思って」
 飯塚はまだ捕まっていない。もしかすると、この女の指示によって捜査網が張り巡らされているのかも知れなかった。
「知りませんね。何も」
 私はいい、席を立った。
「飯塚さんとの付き合いが長いのは事実ですがね、おれがあの店を辞めてもう何年になるか」
 ヘミングの眼が険を帯び、懐疑的な色に染まった。只者ではない。眼が、それを物語っていた。
「それにね」
 ヘミングが一方的に続ける。
「今、あたしたちは覚醒剤の国産化を進めてるの」
「覚醒剤の国産化?」
「そう」
 テーブルの周囲を、ヘミングの吐き出す煙が漂う。
「今、国内で出回ってる覚醒剤のほとんどが北朝鮮産なの。あの国は各国に総スカンを食らってるでしょ?あの国にとっては重要な外貨獲得手段なのよ。中国経由でこの国に入ってくるわ。でも、売人の手から手へ渡る度に混ぜ物でかさ増しされて、日本に密輸入される頃にはすでに粗悪品なの。それで最近、あたしはそれを国内で生産させ始めたわ」
「それで?」
「飯塚が持って消えたのは、その第一号なの。末端価格にして、まだ見当もつかないわ。何せ純度が高いから」
「そうですか」
 私はいった。水を一口含む。覚醒剤の国産化。私には関係のない話だ。
「失礼します」
 席を立った私は、そのままBARの出入り口へと歩いていった。


             (七)


 早朝、食材の調達を終え、私は帰途についた。まだ夜は明けきっていない。空気が淀み、辺りの風景が青味がかっていた。食材の載った台車を押し、ドン・キホーテの裏手をまわる。その先が私たちの暮らす吹き溜まりだ。
 遠く、騒いでいるホームレスたちが見えた。ある段ボールハウスの周囲に輪を形成している。長老の声が聞こえた。
「お嬢ちゃん、見ちゃだめだ!」
「ママ!ママ!」
 何があったのか。私は台車を押す足を速めた。
 輪に混ざっていたヘルスがこちらを振り返る。金魚のように口をパクパクと開閉させていた。何かいいたいようだが、言葉で出てこないのか。
「コ、コック・・・」
 ようやくヘルスがそれだけいった。
「何があった?」
 私が訊くと、ヘルスは輪の中心へと視線を移した。台車を放り出し、形成された輪に割って入る。輪の中心にあるのは、千穂と早苗の段ボールハウスだった。
「ママ!ママ!」
 長老が早苗を抱え、段ボールハウスから引き離した
 段ボールハウスに眼をやる。
 一見しただけで、それが死体だとわかった。閉じられた両の瞼からは血が伝い、乳房と乳房の間から下腹部にかけ、荒い手つきで縫合された跡。着衣は身に着けていない。全裸だ。全身の肌は青く、体内に血液がほとんど残っていないことが見てとれる
 千穂の死体が、潰れた段ボールハウスの上に打ち捨てられていたのだった。
「コック・・・」
 早苗の眼を手で塞いだ長老が私を呼ぶ。
「何があったんです?」
「わからない」
 苦渋の表情を浮かべつつ、長老が答えた。
「く、車・・・」
 ヘルスがいった。
「車だよ、コック」
「車?」
 身体を震わせ、ヘルスが話した。
「ここに車がやってきて、この女を放っていった・・・」
 ヘルスの視線は、千穂の死体に注がれたままだ。他のホームレスたちは口を噤んでいる。惨状に、言葉を失っているのだ。
「車って、どんな」
「バンだよ、コック。ミニバンっていうのか?今流行ってる・・・」
 察しはついた。侠撰会、及び飯館組の仕業だ。
「ナンバーは」
 私はまだ震えているヘルスに訊いた。
「み、見てない。とにかくこの女を放って、すごい勢いで走っていった・・・」
「長老」
 呼ぶと、長老が眼だけで応えた。
「警察を」
「ああ。お前さんはどうするんだ、コック?」
「おれは用があります」
 私は自分の段ボールハウスに入り、鞘に収めた包丁を取った。ベルトに挟み込む。段ボールハウスから這い出し、私は先ほど通ってきた裏道へと駆けた。
 千穂が食ってしまったしゃぶの金は払ったはずだ。阿南は五万負けてくれたが、紙幣を十枚、耳を揃えて支払った。なぜ千穂が殺されなければならないのか。
 六本木通りに出る。通りのあちこちで、やはり若い酔っ払いが騒ぎ、嘔吐していた。六本木通りを横断し、外苑東通りへと出る。歩道をさらに駆けた。七丁目に入る。夜が明けつつあった。漆黒だった空が、青味を帯びてきていた。
 飯館組の事務所に着く頃、すでに夜は明けていた。街から街灯の明かりが消えてゆく。ノックもそこそこに、私は事務所へと踏み入った。
 島を造っている机のひとつに、和田が着いていた。和田が椅子から立ち上がり、軽く両手を広げて見せる。
「和田さん」
 私はいった。
「どうした、北乃さん?こんな朝早くに」
 とぼけるんじゃない。
「千穂が殺された。おたくの仕事だろう?」
「千穂?」
 和田が視線を宙に泳がせた。
「あの女か。うちのしゃぶを食った」
「そうだ。さっきおれが家へ戻ると、死体が転がってた。おれが暮らしてる吹き溜まり」
「仕方ないよ、北乃さん」
 こともなげに、和田はいった。
「あの女、またやりやがった」
「また?」
「そう。また。預けたしゃぶを、また食ってたんだ」
 事務所には、和田しかいなかった。照明も一部しか灯っていない。
「それで落とし前をつけさせたってわけ」
「それにしても・・・」
 なかなか言葉が出てこない。
「もう少し時間をやってもよかったんじゃないか。それに、やり方だって他にあったはずだ」
 無意識に、口調が早まる。
「もう次はない。阿南さんがそういっていただろう?北乃さん」
「それはそうだが・・・」
「それに、まだ足りない。これは見せしめでもある。娘がいたよね、あの女には」
「早苗」
「そう。もううちの若いのが向かってるよ」
「向かってる?」
「ああ」
 和田が眼だけで笑う。
「娘の方もいただく」
 早苗の身が危ない。和田は早苗の身をさらう気だ。
「北乃さん、あの女にしゃぶをやめさせようとしていたのか?」
 踵を返しかけた私に和田が訊いた。
「無駄だよ、北乃さん。そう簡単にやめられるわけがない
 私は事務所を飛び出した。
 来た道を戻る。やはり運動不足だ。息があがり、足が止まりそうになる。耐えた。ひたすらに脚を動かし続け、六本木の街を駆けた。
 ようやく吹き溜まりに辿り着く。黒いハイエースがアイドルしていた。
「おじさん!」
 早苗の声だ。悲鳴に近い。ハイエースからだった。スライドドアが閉まる。
「出せ!」
 車内から声がした。ハイエースがスキール音を立て、後輪から白煙をあげつつ急発進する。私は追った。リアガラス越しに、見憶えのあるジャージの男に髪を摑まれた早苗の姿が見えた。こちらへ向け、早苗が絶叫している。口の動きでそれがわかった。
 ハイエースが吹き溜まりを脱し、飯倉方面へとノーズを向けた。距離が離れてゆく。吹き溜まりの傍に、車が停まっていた。エンジンはかかったままだ。車の外で一組の男女が何かいい合っている。痴話喧嘩だ。
「車を借りるぞ」
 私はドアを開き、運転席へと乗り込んだ。黒いBMWのクーペだった。
「お、おい!」
 女といい合っていた男が振り返り、ドアに手をかけた。
「貸すわけねえだろ!何やってんだ!降りろ!」
「わかった。じゃあ売ってくれ」
 フロントガラス越しにハイエースのテールを眼で追いつつ、私は財布を取り出した。
「売るわけねえだろ!頭おかしいんじゃねえのか!?」
「ならこっちがいいか」
 私はベルトに挟み込んでいた包丁を鞘から抜いて見せた。昇ったばかりの陽光を受け、刃がぎらりと光る。
「わ、わかったよ・・・車を貸すよ!」
 ようやく男が折れた。ドアを閉じる。ステアリングを切り、アクセルを床まで踏み込んだ。ハイエースのテールは、まだ視界の中にある。それが点のように小さくなってゆく。
 外苑東通りをひた走った。ハイエースが飯倉の交差点を右折する。麻布十番方面だ。テールを追う。交差点に進入し、ステアリングを右一杯に切る。アンダーステアを抑え込みつつ再びアクセルを踏み込んだ所で、対向車が眼の前に迫ってきた。クラクションを鳴らされた。信号はこちらが赤だ。フロントガラスの先に、次々と対向車が押し寄せる。大半がタクシーだ。
 道を塞がれた。
 続けざまに鳴らされるクラクションの中、私は悪態をつき、ステアリングを殴りつけた。
 携帯が鳴った。ポケットの中だ。取り出し、液晶に眼をやる。知らない十一桁の番号が表示されていた。回線を繋ぎ、耳に当てる。和田か。それとも。
「はい北乃」
「北乃さんかい?」
 聞き覚えのある声だ。
「侠撰会の阿南という」
 千穂を迎えにいったとき、飯館組の事務所にいたあの丸刈りのやくざだ。
「あの娘はいただいた。もう知ってるかと思うが」
 立て続けにクラクションが響いた。私の乗ったBMWが、飯倉交差点の中心で他の車を妨害していた。
「どうするつもりだ!?早苗を?」
「働いてもらう。警察には何もいうな。いえばこの娘がどうなるかわからない」
「まだ働ける年齢じゃない。返してもらおう」
「だめだ。とにかく警察にはだんまりを決め込むんだ。あの女に関してもな。千穂といったか」
 タクシーの運転手が降りてきた。馬鹿野郎と怒鳴っている。
「臓器はまだ小さくて使えないが、角膜なら使える。そうしてほしくなければ、だんまりだ。わかったな」
 回線が切れた。周囲はタクシーだらけだ。
 私は携帯を助手席に放り出し、BMWのギアをリバースに入れた。


             (八)


 麻布署四階にある刑事課の取調室には、壁に「禁煙」と記された板が貼り付けてあった。入り口の外には若い刑事がこちらに背を向け、腕を後ろで組み、張っている。
 若い刑事が道を開けた。壮年の別の刑事が入ってくる。
「あちらさんと話がつきました。『反省しているなら』ということなんで・・・」
 幸い、BMWに損傷はなかった。ガソリンがわずかに減り、タイヤが少し擦り減った程度だ。私に車を奪われた男は、こちらを訴える気はないらしい。
「それじゃ」
 私は席を立とうとした。
「いや、ちょっと待ってください」
 壮年の刑事がいう。
「まだ何か?」
「ええ。別件で話を聞きたいという者がおりましてね」
 別件。千穂のことか。
「よろしいですか、北乃さん」
「ああ」
 私は応え、椅子に座り直した。
 壮年の刑事に促され、別の刑事が二人、取調室に入ってきた。ふたりとも眼が険しい。揃ってこちらに会釈をよこした。歳嵩の方が名乗る。
「大野です。こちらが宗形」
 紹介された若い刑事が改めて会釈をよこした。大野が私と差し向いに座る。宗形は立ったままだ。
「収容された遺体なんですがね」
 早速、大野が口を開く。
「身分証明書の類を持っていなかったんですよ、北乃さん。何者です?あの女性」
「知らんね。ただのホームレスさ」
 私はシラを切った。早苗の身を考えれば、何も話せない。阿南のいいつけだ。
「じゃあ質問を変えましょう。どこへいこうとしたんです?人から車を奪ってまで」
「忘れたよ」
 煙草が喫いたかった。この部屋は禁煙だ。第一、持っていない。シケモクは切らしていた。
「あの遺体、腹が切られていましたね、大きく。あれは内臓を抜かれた跡でしょう?」
「そのようだ」
「今ね、慶応病院の方で司法解剖されてます。もうじき終わるんじゃないかな」
 大野が独り言のようにいう。あれから、すでに三時間以上が経過していた。
「大野さん、ちょっと」
 取調室の外から声がかかった。先ほど、車を奪われた男と私をとりもった壮年の刑事だ。
「ちょっと失礼」
 大野が席を立つ。取調室の外へと出ていった。立っていた宗形が口を開く。
「北乃さんといいましたか」
「ああ」
 静かな、諭すような口調だった。まだ若い刑事だ。二十代だろう。
「知ってることを洗いざらい喋ったほうがいいですよ。警察の取り調べは過酷ですから」
 忠告したつもりらしい。
 取調室もきれいに、そして静かになったものだ。私が若く、街で暴れていた頃、警察署の取調室といえば照明は薄暗く、壁にはマジックミラーが埋め込まれ、刑事が怒鳴り、机を拳で叩けば灰皿が宙を舞った。
 大野が再び姿を現し、取調室へと入ってきた。溜息と共に椅子に座る。
「北乃さん、経過報告でした。慶応病院から」
 沈痛な面持ちで大野が続ける。
「両眼には眼球がありませんでした。内臓もきれいになくなってる。眼球の周囲には鬱血が見られたそうです。意味、わかりますか」
 私は首を傾げた。
「生きたまま眼を抉り出されたってことですよ。臓器を取り出した腹には、ご丁寧に綿まで入っていたそうです」
 眼を閉じた。惨い情景が浮かぶ。瞼を開き、私はいった。
「お話できることは何もありません、失礼しますよ」
 席を立つ。宗形が止めにかかった。
「北乃さん!」
「なんだ?」
「あんた、何か知ってるんでしょう!?」
「知らんね。失礼する。任意だろう?これは。おれがあの男から車を奪ったこととは別件のはずだ」
 私がいうと、二人は黙った。止めるのを諦めたようだ。
 取調室を出る。背を向け、立ち塞がっていた若い刑事が何かいいたげだったが、口を開くことはなかった。
 階段を降り、正面入り口へと出る。完全に夜が明けていた。街が眠りに入っている。朝の車が動き出していた。まばらだが、六本木通りを車がゆきかっている。
 入口の脇に、中田が立っていた。長い警棒を、やはり杖のように地面へとつけている。
「大変でしたね、北乃さん」
 中田がいう。
「全くだよ」
「北乃さん!」
 背後から声がした。正面入り口だ。
「お忘れ物ですよ」
 壮年の刑事が片手で鞘に収まった包丁を手渡してきた。飯倉の交差点で身柄を確保されたとき、警官に取り上げられてしまった包丁だ。
 礼をいい、受け取った。六本木交差点を渡り、三丁目に入る。吹き溜まりへと急いだ。
 壮年の刑事は麻布署の刑事だろうが、大野の宗形はおそらく警視庁捜査一課の刑事だ。千穂が殺されたことで、殺人事件として動き始めたのだろう。
 吹き溜まりへと辿り着くと、長老が駆けてきた。
「すまねえ、コック」
「怪我はなかったんですか、長老」
「オレは平気だ。だがお嬢ちゃんが・・・。すまねえ」
 長老が詫びた。
「仕方ありませんよ。相手が複数で、それもやくざとなれば」
 私は応え、鞘に収めた包丁をベルトに挟み込んだ。
 残っていたのは、長老ひとりだ。他のホームレスは皆、働きに出ているようだった。
 携帯をポケットから取り出した。着信履歴を呼び出す。阿南がかけてきた番号が表示される。折り返し、その番号へかけた。十一桁の番号だ。
 繋がらない。留守電にも切り替わらなかった。


              (八)


 事務所の前には、安物のスーツを身に着けた若いやくざがひとり立っていた。背広のあいだから、これまた安物らしい光沢のあるシャツを覗かせている。辺りを警戒している気配はない。立っているのは、門番のつもりだろうか。
「何か」
 私が飯館組事務所の前に立つと、若いやくざが訊いた。
「和田さんに用がある」
 私がいい、扉に手をかけると、若いやくざが私の服を摑んだ。
「アポは取ってあるんですか?」
 言葉使いは丁寧だが、口調は厳しかった。だが、筋者独特の迫力はない。時刻でも訊くような具合だ。
「いや、ない」
「それじゃ、中に入れることはできませんね」
 服を摑んだまま、若いやくざが続ける。
「それに今、不在ですよ」
 いった若いやくざの眼が、わずかに見開かれた。何かに気付いた様子だ。
「北乃さん?」
「ああ」
「憶えてます?千代延です」
 若いやくざが名乗る。記憶になかった。だが、相手は私を知っているのだ。西京連合上がりのやくざだろう。歳の頃は二十代の後半と見える。
「連合か?」
 私は訊いた
「ええ。北乃さんとも何度か同席したことがありますよ。六本木の飲み屋なんかで」
 口調が明るくなる。表情には笑みさえ浮かんでいた。
「とにかく中に入れろ」
「いや、それはちょっと」
 構わず、私は扉を開いた。ノックはしなかった。
 中にいたやくざたちが、一斉にこちらを向く。皆が席に着いていた。私の服は、千代延に摑まれたままだ。千代延を曳き、事務所の中へふたりでなだれ込む格好になった。
「なにやってんだ」
 最奥部の席に着いていた四十代と見えるやくざがいった。
「すみません、組長」
 詫びた千代延が、ようやく私の服を放した。中にいたやくざたちが皆立ち上がる。鋭い複数の視線が私に注がれた。
「あんたが組長か」
 私はいった。知らず知らずのうちに、口調に怒気が宿る。最奥部に着いていた禿げ頭の男が答えた。
「そうだが?」
 訊き返している。
「和田さんにどんな指示を与えたんだ?」
「何の話かわからんね、兄さん。大体、あんた誰だ?いきなり事務所にやってきて」
「何も聞いてないのか。和田さんから?」
 その質問に、組長は答えなかった。危うさを孕んだ笑みを浮かべ、首を傾げただけだ。もし本当に何も知らないのなら、一から順に説明しなければならない。
「和田さんはしゃぶ中の女を飼っていた。千穂という女だ。その千穂が今朝、死体で発見された。眼球と内臓を全部抜き取られて」
 禿げ頭の組長が私の話を遮った。
「兄さん、うちは薬物は取り扱ってない」
 私はいい返した。
「表向きは、だろう?」
 笑みは消えていない。今度は声に出し、組長は笑った。
「そういうことだ。今どき、薬物はどこの事務所でも法度だよ」
 薬物の取り扱いを、暗に認めている。
「ここだけの話、クスリの類はあのふたりに任せてるんだ、うちは」
 和田とジャージ。名は羽賀といったか。
「とにかくそういうわけだ。こちらでは関知しない。金を受け取るだけだよ」
 放り出せ、と組長が指示した。立ち上がった幾人かのやくざが私に迫る。
 身体を持ち上げられ、扉の外へと放り出された。私は腰をアスファルトでしたたかに打ち、痛みを堪え、眼を閉じた。瞼を開くと、やくざたちの背が見える。扉が閉じられ、千代延が憐れみを含んだ眼で私を見下ろしていた。
「だからいったでしょう。立てますか、北乃さん」
 千代延が私を助け起こそうとする。
「ああ。大丈夫だ。自分で立てる」
 私は立ち上がり、服の汚れを掃った。腰が痛い。しばらくは歩くのに難儀するだろう。
「邪魔したな」
 いい残し、私は路地を歩き出した。昼が近い。陽は空の中央近くまで昇っていた。
 携帯が鳴った。取り出し、液晶に眼をやる。見覚えのある十一桁の番号。阿南だ。回線を繋ぎ、耳に当てる。
「北乃さんかい」
「ああ。飯館組の事務所から放り出されて、途方に暮れていたところだよ」
 事実、そうだった。もう早苗を追う痕跡は、阿南しか残されていない。
「早苗は無事だろうな」
「ああ。少し怯えているがね。北乃さん」
 阿南が口調を改め、続ける。
「あんたにも働いてもらおう。娘は預かっている。イニシアチブをこちらが握っているのを忘れるな」
 ノーといわせない、という意味だろうか。
「今度の水曜日、赤坂のホテルモントレへいけ」
 ホテルモントレ。マーゴ・ヘミングの暮らすホテルだ。
「その地下にBARがある。あんたにはクスリを運んでもらおう。夜の二十六時だ。遅れるな。ヘミングという女があんたを待ってる。もうヘミングには話を通してあるから、あんたはそこへいけ」
「そこへいけば早苗を返してくれるのか、阿南さん?」
「それはあんたの働き次第だ。忘れるな。水曜日の夜二十六時、赤坂のホテルモントレだ」
 わかった、と私がいうと、回線は一方的に切られた。
 下手な真似はできない。早苗の身柄は阿南が押さえている。


私の姿を認めても、黒服は何もいわなかった。こちらに一瞥をくれ、私から眼を逸らした。構わず店内へと踏み入る。水曜日午後二十六時、ホテルモントレ。地下にあるBARの名は『OAK』といった。
 カウンターの内側にいたバーテンダーも、私を無視した。奥のボックス席にヘミングがいる。紫煙をくゆらせていた。他に客はいない。私は板張りの床を歩き、ヘミングへと近づいていった。
「来たわね」
 相変わらずしわがれた声でヘミングがいう。紺のパンツスーツ姿だった。
「阿南から話は聞いてる?侠撰会の」
 私は頷き、答えた。
「ええ。おれに運び屋をやれと」
 ヘミングがグラスを口に運ぶ。琥珀色の液体が入っていた。傍にはやはり、バーボンのボトルが立っている。私は訊いた。
「飯塚さんの代わりをやらせようっていうんですか」
 ウィスキーを飲み込んだヘミングが吐息をつき、答える。
「そういうことになるわ」
 ヘミングが立ちあがり、いった。
「いくわよ。運転手はあなた。わたしはもう飲んでいるからね」
「あなたも一緒に?」
「そうよ。今夜だけ。来週からはあなたひとりでやってもらうわ」
 運び屋の一連の仕事をレクチャーしようという気らしい。
 ヘミングが歩き出した。私も続く。
「ありがとうございました」
 バーテンダーが慇懃な口調でいい、私たちを送り出す。外側から店の扉が開かれた。先ほどの黒服だ。黙礼する黒服を無視し、ヘミングはエレベーターへと向かう。
 エレベーターの箱は地下へ降りてきたままだった。箱に並んで収まると、ヘミングが一階のボタンを押す。扉が閉まった。ヘミングからは、老人特有の臭気はなかった。香水と化粧品、それにウィスキーの混合された匂いがかすかに漂う。
「来週からは、あの店に車のキーと番号札を取りにいらっしゃい」
 無言で私が頷くと、一階へ到着したエレベーターの箱が口を開けた。並んで箱から出る。フロアを突っ切り、ホテルの外に出た。風邪が強い。生暖かい空気が、私たちの頬を撫でた。
 ホテルモントレの敷地内に、立体駐車場があった。係員が頭を下げる。ヘミングが何か係員に渡していた。番号札だ。車を収めたゴンドラが回り始める。レクサス、メルセデス、アウディ。それらが現れては消えてゆく。
 白いランドクルーザーが現れたところでゴンドラが止まった。
「今夜はこれで配達してもらうわ」
 いったヘミングが、キーを手渡してくる。グリップにトヨタのエンブレムが光っていた。
 ゴンドラの脇に配されたステップを踏み、ランドクルーザーに乗り込んだ。続いてヘミングが助手席に滑り込んでくる。挿入したキーを捻り、エンジンに火を入れた。ギアをリバースに入れ、バックで車を出した。
「オーライ、オーライ。はいストップお願いします」
 係員の誘導に従い、私はブレーキを踏んだ。ランドクルーザーを載せたターンテーブルが回り始める。景色が反転し、みすじ通りがフロントガラスの向こうに映し出された。ギアをドライブに入れ、車を出す。みすじ通りは一方通行だ。
「次の十字路で一ツ木通りへと入って。寄る場所があるの」
 私は頷き、ランドクルーザーを操った。
 みすじ通りも一ツ木通りも、路肩に乗用車が列を形成していた。この辺りには韓国クラブが多い。そこに勤める女たちを自宅まで送迎する車だ。運転手の多くは車の外に突っ立ち、店がはけるのを待っている。
「ここで停めて」
 不意にヘミングがいった。私はブレーキを踏み、空いている路肩へとランドクルーザーを寄せた。二度三度と切り返し、空いているスペースへ並行に車を収める。エンジンは切らなかった。ギアはパーキングレンジだ。
「ここで女の子を拾うの。そろそろ店が終わる時間だわ」
 ヘミングがいい、ポーチから携帯電話を取り出した。数秒のあと、ヘミングが喋り出した。日本語ではない。ハングルだ。
 しばらくすると、ランドクルーザーの後部座席がノックされた。着飾った若い女が三人、サイドウィンドウから車内を覗いている。
「ロックを解いてあげて」
 私はヘミングの指示に従い、後部座席のロックを解いた。若い女、韓国人だろう、三人が車内へと乗り込んでくる。サイドウィンドウから外を見上げると、そこは韓国クラブだけがテナントとして入居している雑居ビルだった。クスリはいつ、どのタイミングで受け取り、どこへ運ぶのか。前方に駐車していた車が、同じく若い女数人を乗せ、発進した。
「出して」
 ヘミングがいう。私はギアをドライブに入れ、ステアリングを切った。後部座席では、三人の韓国女が嬌声を挙げている。
「赤坂通りにぶつかったら、右へ折れて。六本木へ向かうの」
 ヘミングの指示通り、私は赤坂通りとの交差点を右折し、ノーズを六本木へ向けた。乃木坂を登り、外苑東通りへと乗る。
「ミッドタウンの先で右折。この辺りは七丁目ね」
 信号が青になるのを待ち、ステアリングを右へと切った。平日の深夜だ。酔客は少ない。キャッチたちが来るはずのない客を待ち、所在なさげに立っていた。
 狭い一方通行路を直進する。突き当りのT字路が見えてきた。
「そこのマンションの一階が駐車場になってるわ。そこへ入れて」
 指示に従い、ステアリングを切る。淡い照明に照らされたマンションの一階部分が駐車場になっていた。出入り口付近でブレーキを踏み、私は車を停めた。
「あの奥にキャンピングカーが見える?」
「ええ」
 駐車場の最奥部に、キャンピングカーの巨大な尻が見えた。
「助手席側のガラスをノックして。渡してくれるから」
 頷き、私はランドクルーザーから降りた。キャンピングカーへと歩み寄る。国産車ではないようだ。助手席は右側。
 サイドガラスには、スモークが貼られていた。素人仕事だろう、かなり荒っぽい貼り方だった。ノックする。サイドガラスが降り、白人が顔を出した。まだ若い。二十代だろう。思いのほか、白人は流暢な日本語で訊いた。
「新入りか?」
「ああ。ヘミングの指示で来た。車はあれだ」
 後方のランドクルーザーを指し示し、私はいった。
「気をつけろよ」
 白人がいい、茶色い紙袋をふたつ手渡してくる。ほどなく、サイドウィンドウが上昇した。これ以上言葉を交わすつもりがないようだ。
 私はふたつの紙袋を両手で摑み、ランドクルーザーへと戻った。運転席へ乗り込む。ドアを閉じると、ヘミングが微笑みかけてくる。
「上出来よ。今のところは」
「次はどこへ?」
 ヘミングの言葉を無視し、私は訊いた。
「後ろの女の子たちを送るわ。彼女たちを乗せるのはカムフラージュなの。送迎車だと思わせれば、警察もわざわざ車内まで捜索しないでしょ。職務質問を受けても安全ってわけ」
 その場でひとり、後部座席から女が降りた。この辺りに住んでいるらしい。残りはふたり。そしてクスリを運べば、今夜の仕事はおしまいだ。
「T字路を左へ折れれば六本木通りへ出るけど、そこを右折して」
 私はギアをリバースに入れ、車体を路地へと戻した。T字路を右折。左手に神社が見える。
「飯館組の事務所に向かうわ。ここまで来れば道はわかるでしょう」
 答えず、私はステアリングを切り、短い坂を降りた。後部座席では、やはりふたりの女たちが何か話をしている。
 星条旗通りから一本折れた路地へと入った。直進すると、飯館組の事務所だ。ブレーキから足を離し、徐行する。辺りに人気はなかった。
 光沢のあるジャージを着た男がひとり、道端に立っている。見憶えのある風体だ。羽賀だった。事務所までは、まだ五十メートルほど距離を残している。
「彼にひと袋渡してあげて」
 助手席のヘミングがいう。私はブレーキを踏み、車を停止させた。サイドウィンドウを下ろし、羽賀に袋をひとつ渡す。羽賀は気味の悪い笑みを浮かべ、それを受け取った。
 六本木通りへと戻り、麻布十番へとノーズを向けた。路地を縫うように走り、ピーコックの前でまたひとり女を降ろす。
「また六本木通りへ戻って。次は第三京浜に乗るわ」
 ピーコックの向かいにある薬局は、とうにシャッターを閉めている。付近の交差点でランドクルーザーを転回させ、さらに六本木通りへと出た。
 渋谷を過ぎ、この辺りから通りの名は玉川通りへと変わる。後部座席では、ひとり残された韓国女が携帯電話に眼を落としていた。
 環七を飛び越え、環八を左折。しばらく走ると、第三京浜下りの入り口が見えてくる
「次は保土ヶ谷サービスエリア。東亜協同組合の若い子に残りのクスリを渡すの」
 東亜協同組合。名は聞いたことがあった。横浜に拠点を置く朝鮮人系の暴力団だ。
 ランドクルーザーのノーズを入り口へと向け、左折する。第三京浜に乗った。サイドガラスの向こうを、工場群の明かりが後方へと飛んでゆく。快調に飛ばし、料金所へと辿り着いた。
「細かいの、ある?」
「ええ」
 私はポケットからコインを取り出し、通行料を支払った。そのまま車を直進させ、保土ヶ谷サービスエリアの敷地へと向かう。
 車もバイクも、少なかった。ヘミングが指示する。
「噴水の傍に白いバンが停まってるでしょ?」
 ランドクルーザーを徐行させつつ、私は眼をこらした。確かに、噴水広場へ至る歩道の傍に、白いエルグランドが停まっている。
「横付けして。それから、残りの袋をちょうだい」
 私はステアリングを切り、ランドクルーザーをエルグランドの横に着けた。ヘミングが紙袋を受け取り、サイドウィンドウを下ろした。エルグランドのサイドガラスが下りる。若い茶髪の男が運転席に座っていた。
 下りたサイドウィンドウ越しに、ヘミングが茶髪の若い男に紙袋を手渡した。東亜協同組合の下っ端らしき茶髪の若い男は袋の中身を検め、ヘミングに頷いて見せた。エルグランドのサイドウィンドウが上昇する。ヘミングが口を開いた。
「もう安心よ。あとはこの子を送っておしまい」
 エルグランドが走り去る。私はギアをドライブに入れた。
「この先でもう一度第三京浜に入り直して。京浜川崎の出口で彼女を降ろしたら、赤坂へ戻るの」
 保土ヶ谷サービスエリアを出た。数百メートル走り、第三京浜の上りへと入り直す。都築を過ぎ、京浜川崎出口が見えてきた。
 第三京浜を降り、高架下で韓国女は降りていった。玉川通りへと乗り、多摩川を渡る。環八、環七と通り越し、渋谷からは青山通りへと乗った。青山を超え、赤坂へと入り、みすじ通りを徐行し、ホテルモントレへと戻ってきた。
「オーライ、オーライ」
 係員がターンテーブルへと誘導する。
「これが一連の流れよ。来週からはあなたひとりでやってもらうわ」
 空のゴンドラが、前方でぽっかりと口を開けていた。ブレーキから足を離し、ランドクルーザーを収める。エンジンを切り、私は車を降りた。続いて車を降りたヘミングに、私は訊いた。
「侠撰会に身柄を押さえられている少女の話は聞いていますか」
 四方を鉄で囲まれたゴンドラの中、声が反響する。ヘミングは眼を見開き、首を傾げた。いつになれば、早苗は戻ってくるのか。
「何も聞いていないわ。阿南とあなたの問題でしょう」
「それはそうだが・・・」
 本当に何も知らないようだ。
「それについては当事者同士で話をつけて。それじゃ、また来週待ってるわ」
 カツカツとステップを踏む足音を残し、ヘミングが歩き去る。
 私は携帯電話を取り出し、阿南にかけた。やはり繋がらない。舌打ちし、私はみすじ通りへと歩み出た。深夜を過ぎ、早朝に近い。食材の調達にいかねばならなかった。

 
車内をシケモクの煙が満たしていた。まるで燻製でも作っているようだ。サイドウィンドウを下ろし、ビルに眼をやる。翌週の水曜日、二十六時。煙が流れ出ていった。テナントとして入居している店の名が、ビルの壁に貼り付き、中に照明が灯っている。その証明が、次々と消えた。店ははけたのだろう。じきに若い女たちが、先週と同じく車に乗り込んでくるはずだった。
 与えられた車はマークエックスだった。まだ新車の匂いがする、白いセダンだ。ホテルモントレのBARでヘミングからキーと番号札を受け取り、ここまで乗ってきていた。みすじ通りの路肩には、やはり飲み屋の女を送迎する車が列を成している。車の外に出て談笑しているドライバーの姿も散見された。
 ビルの奥から、ひとりの若い女が現れた。先週、川崎まで送っていった韓国女だ。周囲に眼をやることもなく、まっすぐこちらへと歩いてくる。私はドアのロックを解いた。女が無言でドアを開き、後部座席へと乗り込んできた。
「もう出していいよ」
 日本語だった。妙なアクセントもない。流暢な日本語だ。私は訊いた。
「もう二人いただろう?」
「今日はひとり。あとはお休みもらってるの」
 シケモクを灰皿に押し込んだ。ギアを入れ、ステアリングを切る。
「先に六本木へ寄る。それでいいか」
「うん。そのあとで送って」
 アクセルを踏み、十字路へと進む。一ツ木通りへと滑り込んだ
 赤坂通りで折れ、乃木坂を登る。先週と同じコースだ。外苑東通りへと乗り、直進する。ミッドタウンを超えると、信号は青だった。右折し、一方通行路へと進入する。しばらく直進し、T字路へと突き当たった。ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引く。
「待ってろ」
 私はいい、車を降りた。
 眼の前に駐車場がある。今夜もその奥で、キャンピングカーが尻を見せていた。
 助手席側のドアをノックする。サイドウィンドウが下りた。紙袋がふたつ、私に手渡された。手渡してきたのは、先週と同じく若い白人だ。無言のままサイドウィンドウが上昇した。私はその紙袋を手に、車へと戻った。
 車を発進させる。T字路を右折、飯館組の事務所へと向かう。短い坂を下りると、そこは事務所のある路地だ。
 その日もやはり、羽賀がジャージ姿で待っていた。事務所の五十メートルほど手前。顔にはなぜか、薄ら笑いを浮かべている。
 サイドウィンドウを下ろし、羽賀に紙袋のひとつを手渡す。羽賀が口を開いた。
「ご苦労さん。気をつけろよ、おっさん」
 私は応えず、サイドウィンドウを閉じた。ブレーキから足を離し、マークエックスを徐行させる。羽賀の言葉が、どこか気がかりだった。
 外苑東通りへと戻り、六本木交差点へとノーズを向けた。首都高渋谷線の高架の先で、遠く東京タワーが赤く発光している。
 突然、警笛が鳴った。バックミラーを見る。制服警官が駆けてきていた。何か違反でもしでかしてしまったか。車は六本木交番の先を右折し、麻布署の前を通り過ぎた所だった。反射的にブレーキを踏んでしまう。バックミラーの中で、複数の警官の姿が見えた。前方に焦点を合わせる。前からも、四、五人の警官が駆けてきていた。
 路肩に寄せ、ブレーキを踏む。ギアはドライブに入れたままだが、アクセルは踏めない。ボンネットの先を、前方から駆けてきた警官たちが固めていた。私は仕方なく、ギアをパーキングに入れた。
 後方から老いついてきた警官たちがサイドウィンドウをノックする。執拗だった。
「運転手さん?運転手さん!開けてください!」
 何事だろうか。道交法に接触した覚えはない。サイドウィンドウを下ろすと、警官の声が車内に飛び込んできた。バックミラー越しに後部座席を見る。韓国女は怯え、身を縮めていた。
「運転手さん、どちらへ?」
 警官が訊く。
「川崎だ。何事だよ、一体?」
 助手席には何かクスリの入った紙袋が無造作に置かれている。車内検分をされればアウトだ。私は平静を装い、訊いた。
「何かしたか?止められる覚えはないぞ
 警官が苦笑いしつつ、応える。
「いや、それがねえ、運転手さん。とりあえず降りてもらえます?」
 わけがわからなかった。なぜこんな所で警官に止められるのか。
 思い当る節はあった。まさか、阿南が密告したのか。
「飲み屋の女の子を送ってるところだ。降りられない」
 私はいい、警官を睨んだ。
「まあそういわずに、運転手さん。車の中を検めさせてもらいます」
「任意だろう?お断りだ」「そんなこといわないでくださいよ、運転手さん」
 断れそうにない。ボンネットの先に眼をやると、ふたりの警官が立ち塞がっていた。残りの警官は、私の座る運転席側のサイドウィンドウに寄り集まっている。歳嵩の警官がいった。
「何か変なものでも積んでんのか!」
 高圧的な口調だった。
「何もありませんよ」
 無意識のうちに、眼が助手席へと注がれる。これを見つけられれば終わりだ。覚醒剤かコカインか何か知らないが、法に触れる薬物に違いないのだから。私の背中を、後頭部から湧き出た汗が伝った。
「やましいことがないなら降りてもらう!」
 歳嵩の警官がいう。
「密告でもあったのか?
 私は訊いた。その質問に、警官たちは答えなかった
 仕方なく、私は車を降りた。
「トランクの中も見させてもらうよ」
 最初に声をかけてきた警官がいう。警官の数は前方に二人、運転席に上半身を突っ込んでいるのが一人、トランクにも一人。韓国女はすでに、後部座席から引きずり出されていた。
 全部で四人。連中の注意は全て車内に注がれている。今しかない。
 私は六本木交差点方面へと駆け出した。全速力だ。
「逃げた!」
 警官たちが口々に叫ぶ。
「追え!」
「待て!こら!」
 身体を傾斜させ、芋洗い坂を下る。振り返らなかった。そんな余裕はない。捕まれば、早苗を追うどころではなくなってしまう。
 芋洗い坂を下り切り、平凡ビル方面へと路地を駆けた。警官たちが何か口々に叫びつつ追ってきているようだったが、その声は遠ざかりつつあった。
 傍らをレクサスが抜けていった。運転席が開かれる。
「北乃さん!?」
 竹久だった
「乗せてくれ」
 息も絶え絶えに私はいい、助手席へと滑り込んだ。竹久が慌てた様子で運転席へと戻る。前方、フロントガラスの先に天下一品の看板が見えた。
「出してくれ!」
 そこで初めて、私は後方を振り返った。警官たちは芋洗い坂を下り切ったところだ。まだ距離がある。
 突然、ヘッドレストが私の後頭部を叩いた。竹久がアクセルを床あまで踏み込んだのだ。タイヤがスキール音を立て、レクサスが急発進する。再び後方を返り見た。警官たちの姿が遠ざかってゆく。
 一方通行路だ。天下一品の前を折れると、外苑東通りに出る。信号は赤だった。
「いってくれ」
 竹久が赤信号を無視し、クラクションを浴びつつレクサスを外苑東通りへと乗せる。
「どっちへ向かいます!?」
「飯倉方面へ」
 竹久がクラクションを鳴らしつつ、ステアリングを切った。後方。もう警官たちの姿は見えない。レクサスは飯倉の交差点を左折し、麻布通りに乗った。
「どうしたんです、北乃さん?」
 ようやく落ち着いた様子の竹久が訊く。
「嵌められた。話すと長いが」
「オレ、これから集金なんですよ」
「今日は諦めてくれ」
 レクサスが加速する。車内は静かだった。
「この車はナンバーを手配されるはずだ。今夜は諦めろ」
「仕方ありませんね」
 麻布通りが六本木通りと合流した。溜池山王が近い。
 あの警官たちの中に、顔見知りがいなかったのが幸いだった。中田でも混ざっていれば、私はもう六本木の街を歩けなくなる。
「そこで降ろしてくれ」
 森ビルの傍だった。竹久がレクサスを減速させ、路肩に寄せる。最も幸いしたのは、やはりあのタイミングで竹久が現れたことだろう。
「助かった」
「いえ。でも、いつかわけを聞かせてもらいますよ、北乃さん」
 私は微笑み、頷いた。
「悪かったな。仕事の邪魔をした」
「いいんですよ。北乃さんなら」
 助手席側のドアを閉じる。小さなクラクションを一度鳴らし、レクサスが銀座方面へと走り去った。私は携帯を取り出し、阿南の番号を呼び出した。発信し、耳に当てる。
「北乃さんか」
 回線が繋がった。悠長な調子で阿南がいう。
「捕まらなかったのか、北乃さん」
 やはり密告があったのだ。阿南の策略に間違いない。
「ふざけるな。おかげで危うく懲役を食らうところだった」
 阿南が笑う。
「よく逃げおおせたな、北乃さん。また電話する」
 またも回線は一方的に切られた。かけ直そうとも思ったが、繋がらないのはわかっていた。
 着信履歴を呼び出す。ヘミングの番号が残っているはずだ。眼を皿のようにして探し、かけ直す。
 繋がらなかった。
 赤坂に入る。駆けた。こうなれば。ホテルモントレへ乗り込むまでだった。何がどうなっているのか、わけを聞き出す必要がある。
 空が青味がかってきた。朝が近い。路地を縫い、赤坂の歓楽街へと至る。キャッチたちは姿を消し、店を開けているのはコンビニくらいなものだった。
 みすじ通りを駆け、ホテルモントレへ。
 正面入り口はドアが閉ざされていた。チェックアウトまで開かないようだ。
 私は六本木へとって返し、台車を転がした。三度赤坂へと戻る。街を回り、食材の調達を終え、六本木へと戻ってきた。そろそろホームレスたちが段ボールハウスから這い出てくる時間帯だった。夜は完全に明け切っている。
 午前十時、私は赤坂へと向かった。街は眠っている。ホテルモントレ。扉は施錠されていなかった。
「マーゴ・ヘミングさんですか?」
 受付の女が訊き返す。
「そうだ。このホテルで暮らしている」
 女は視線を私から逸らした。何か思い当る節があるようだ。
「あの方かな・・・」
「何だ?」
 私は訊いた。気が急いていた。
「いえ、個人情報なんであまり口にはできないんですけど・・・」
 女がいい淀む。フロアに人気はない。チェックアウトもあらかた済んでしまったのだろう。従業員の姿も、この女以外に見当たらなかった。門前に警備員が立っているだけだ。
「名義は違うんですけど、ここの七階に長期滞在していらしたお客様は・・・」
 ヘミングだ。本名ではない。別の名義で部屋を借りていたのだ。
「昨日夜遅くにチェックアウトなさっています」
 声を潜めるように、女が告げる。
 私は落胆を隠せなかった。両の肩から力が抜ける。昨夜、いや、今日未明に地下のBARで私にキーと番号札を渡したヘミングは、すでにチェックアウトを済ませ、部屋を引き払っていたのだった。
 早苗を追う手がかりは途絶えた。和田も羽賀も、私にコンタクトを取らないだろう。飯館組の事務所に乗り込んだところで無駄に違いない。また放り出されるだけだ。
 私は力なく礼をいい、ホテルモントレを辞した。


              (九)


 車道と歩道を隔てる段差に腰を降ろし、私は全てをドクに話した。早苗の身を案じれば、警察に相談するわけにもいかない。調達した食材はすでに、私の段ボールハウスへと放り込んであった。勤めの休みらしい長老も、私の話に聞き入っていた。眼の前で早苗をさらわれたことで、長老もいくらか責任を感じている様子だ。
「それは災難だったねえ」
 ドクが呟く。長老が続いた。
「お嬢ちゃんを連れ去った連中の車のナンバーは憶えているんだがね」
 私は首を横に振った。陸運局でナンバーを照会したところで意味はない。飯館組か侠撰会の車に決まっている。どのみち、手出しはできないのだった。
「待つしかないね、今は」
 立ち上がり、ドクが尻についた塵を掃いながらいう。
「そう簡単にあの子を始末したりはせんだろう。コックが捕まらなかったのは奴らにとって誤算だったにせよ、ね」
「電話は繋がらないのか」
 長老が訊く。
「ええ。繋がるのは、向こうからかかってきたときだけです。留守電にも切り替わらない」
 答え、溜息をつく。朝の吹き溜まり、六本木三丁目。街は眠りに入り、私たちの他に人の姿は皆無だった。
「とにかく、今は待つしかない。辛いだろうが」
 いい残し、ドクが診療所の方へと消えた。取り残された私と長老は、しばらくそのまま段差に座ったままでいた。
 一度は人生を捨てた。包丁を一本だけ残し、あとは捨ててしまった。毎日がおなじことの繰り返しだった。早朝に食材を集め、昼は段ボールハウスに引きこもり、夜になれば食事を作る。そうして、ただ歳を取り、死ぬのを待つ日々だった。
 そんな最中、千穂と早苗が現れた。
 早苗は愛おしかった。無邪気で可愛らしく、無垢だった。私は早苗の手を取りこの街を歩いたとき、ほんの一瞬、幸せだった頃を取り戻せたのだと思う。
 早苗を取り戻したい。この手で取り戻したい。私のようになってはだめだ。まだ学校にも通っていない。まっとうな人生を歩むのに必要な電車の切符を渡してやりたかった。
 座っている私と長老の前を、タイラントが通り過ぎていった。何かうわごとを口にしながら、集めた空き缶の塊と、どこで拾ったのかスーツケースを曳いていた。
 長老はどこかへ出かけていき、私は段ボールハウスへと戻った。何ができるのか、考えていた。答えは出ない。ただ待つことしかできないのだった。
「北乃さん?」
 不意に、段ボールハウスの外で声がした。聞き憶えのない声だ。
「北乃さん、いらっしゃいますか」
 段ボールハウスから這い出ると、チノパンとポロシャツを着た比較的若い男が段ボールハウスの集合体をノックしてまわっていた。誰も出てこない。皆、働きに出ているのだ。這い出てきたのは私だけだった。
「何か?」
 私が声をかけると、男は振り向いた。愛想笑いを浮かべている。
「北乃さんですか」
「ああ。そうだ」
 男が歩み寄ってくる。
「元西京連合の北乃さんですね?」
「そういう呼び方もあるか」
 男が袈裟がけにしていたショルダーバッグの中に手を突っ込んだ。中を漁っている。
「あれ?あ、あった」
 取り出されたのは、名刺入れだった。
「こういうものです」
 横田祐二。フリーライターという肩書がついている。歳の頃は二十代の後半か。
「まあ、座りませんか」
「ああ」
 暇だった。できることは何もない。私は横田を先ほどまで長老と座っていた段差までいざなった。
「北乃さんですよね?」
 確認するように、横田が改めて訊く。
「そういったはずだ。何の用だ」
 横田は再びショルダーバッグに手を突っ込んだ。今度はあっさりと手が出てくる。手には、数冊の雑誌が摑まれていた。
「ルポを書いているんですよ。西京連合の」
 雑誌の束を手渡してくる。雑誌にはそれぞれから附せんが飛び出していた。そのページに、横田の書いた文章が掲載されているのだろう。
「東京の西部に点在していた不良グループが結託する形で誕生した西京連合。これまで色々調べて、色んな事件を追ってルポを書いてきました。ちょっと前には、ほら、そこで・・・」
 横田が外苑東通りの先にあるクラブを指し示した。
「あのクラブで起きた撲殺事件についても書いたんですよ。他にも色々。連合絡みの事件はあとを絶ちませんからね」
「それで、おれに何の用だ?」
「お話、聞かせて頂けるんですか?」
 表情が、好奇の色に染まっていた。
 よくこれまで無事でいられたものだ。連合絡みの事件は多いが、首を突っ込めば必ず痛い思いをする。もしかするとこの横田、単なる好奇心の塊なのではなく、西京連合を追ううちに何度も死にかけ、それをかいくぐってきた肚の据わった男なのかも知れない。私は訊いた。
「おれのことはどこで聞いた?」
 横田が苦笑して見せた。
「苦労しましたよ。この件については連合のOBも誰も話を聞かせてくれなくて。あるOBの方から紹介してもらったんです。この辺りで世捨て人のような暮らしを送ってるOBがいる、って」
 誰なのか見当もつかなかった。私が家庭を捨て、人生を捨て、こんな暮らしをしているのはOBの中で周知の事実だろう。
「西京連合のOBはそれぞれ、手広く商売を営ってますよね。中にはやくざをバックにつけるケースもあって」
 一方的に喋り出す。よく喋る男だ。口にゴミでも押し込んでやりたかった。
「北乃さん、『ハニートラップ』って店、ご存じないですか」
「知らんね」
 事実だった。そんな名の店は聞いたことがない。六本木の店だろうか。そうであれば、名前くらいは私の耳にも入ってくるはずだ。記憶を探ったが、やはりそんな名の店は出てこない。
「西京連合OBの営っている店ですよ」
「いや、知らないな」
 聞いたことがない。第一、私が連合を脱したのは遠い昔の話だ。竹久の営っている店の名さえ、ひとつも知らないのだ。
 そこまで考え、この横田に私を紹介した連合OBの見当がついた。竹久だ。私が何も知らないのを承知の上で、私を紹介したのではないか。
「何もご存じないですか」
「ああ」
 横田が立ちあがり、いった。頬に落胆の色が滲んでいた。
「その『ハニートラップ』って店、無店舗型の児童買春クラブらしいんですよね、聞くところによると」
「知らんよ、何も。おれが連合を脱したのも、ひと昔近く前だ。十年ひと昔というからな」
「そうですか」
 尻をはたきつつ、横田が続ける。
「何かわかったら電話をくださいますか。名刺に番号と、仕事場の住所があります。仕事場といっても女のところですが」
「わかったよ」
「それじゃあ」
 横田が背を向け、歩き出す。私は座ったまま、その後ろ姿を見送った。

 警官に声をかけられたのは、食材を貰いに赤坂を徘徊していたときだった。私は真新しい段ボールを見つけた。梅雨が近い。私の段ボールハウスを構築する段ボールはぼろぼろだった。定期的に替える必要がある。梅雨ともなれば、段ボールは湿気を吸い、骨組みとしての役を果たさなくなるのだ。
「ちょっとちょっと」
 食材を乗せる台車に拾った段ボールを乗せたところで声をかけられた。みすじ通りだ。段ボールは歩道の隅に捨ててあった。
 声に振り返ると、制服警官が二人立っていた。一人の顔に見憶えがある。中田だった。背後にはパトカーが停まっている。
「中田か」
「北乃さん、占有離脱物横領罪ですよ」
 子供のような甲高い声で中田がいう。
「なんであんたがこんな所にいるんだ?」
 中田は麻布署の巡査だ。ここは赤坂。赤坂署の管轄であり、麻布署の警官がうろつくエリアではない。
「署まで同行願います」
 こちらの質問には答えず、中田がいった。言葉は穏やかだが、口調には有無をいわせない、といった意気があった。
 占有離脱物横領罪。要は、捨ててあるものを拾っただけだ。こんな微罪でホームレスを検挙するのか。パトカーの後部座席が開いた。もう一人の制服警官は、すでにこちらへ歩み寄り、私の服を摑んでいた。
「おい中田、これはどういうわけだ?段ボールを拾っただけだろう?」
 中田も、もう一人の警官も無言だった。わけのわからないまま後部座席に押し込まれる。先にもう一人の制服警官が乗り込み、続いて私、最後に中田。私の両脇を警官が固める形だった。ドアを閉じた中田がいう。
「出してください」
 運転席に座っていた警官がギアを入れた。
 サイレンは鳴らさなかった。パトカーはみすじ通りから狭い十字路を回り、一ツ木通りへと入り、一方通行路を直進した。やはり様子がおかしい。赤坂管内であれば、みすじ通りを直進するはずだ。直進した先には青山通りがあり、青山通り沿いに赤坂署はある。
「どこへ向かうんだ?中田」
 傍らの中田に訊いたが、中田は答えない。黙って前を見据えている。パトカーは赤坂通りを通り越し、氷川神社を越え、南部坂を降りた。この辺りはすでに赤坂ではない。電柱に、六本木六丁目の表記があった。裏道を真っ直ぐ走り、六本木通りへと出る。至った先は、やはり麻布署だった。パトカーが地下の駐車場へと滑り込む。連れていかれたのは、地域課ではなく、四階にある刑事課の取調室だった。
「ここでお待ちを」
 ようやく中田が口を開き、消えた。
 しばらくすると、スーツ姿の男が二人、入ってきた。大野と宗形だ。合点がいった。先日、私がクスリを運び、この先の路上で逃げおおせた件だ。任意では引っ張れないと考え、連中が別件で私を挙げたに違いない。
「ご無沙汰だね、北乃さん」
 大野が椅子に座り、いう。宗形は机の傍に立ったままだった。大野が続ける。敬語ではなかった。容疑者を自供へ追い込むための口調だ。
「あんた、昨日この警察署の先で逃げおおせたな」
「知らんね」
 私はシラを切った。
「よかったな。この街にはあちこちに街頭監視カメラが設置されているが、芋洗い坂には設置されていない。別のルートで逃げていれば、逃走するあんたの顔がカメラにばっちり映っていたはずなんだよ」
「知らんといってるだろう」
 幸いだった。あの夜、街頭監視カメラに逃走する私の姿は映っていなかったのだ。
「代わりに車が映ってたよ、北乃さん。別のカメラにね。レクサスだ。調べると、法人名義だった。当たったがね、『その日は誰が乗ってたかわからない』なんていわれて」
 竹久だ。上手くいい逃れたのだろう。
「あんたその車に乗って、六本木から逃げたな。車の姿は銀座でも確認されてる」
「知らん」
 大野が溜息をついた。傍らの宗形と何か眼で合図している。
「質問を変えようか、北乃さん」
「なんだ?」
「あんた一昨日、あるフリーのライターと接触しているな」
 横田祐二。私はその名をすぐに思い出せた。
「ああ。それがどうかしたのか」
「死んだよ」
「何?」
 死んだ?わけがわからなかった。
「今朝死体で見つかったよ。東京湾だ。検視の結果、腹に刃物で刺された跡があった。それが致命傷だとさ」
 私は絶句した。横田がなぜ?
「野郎、西京連合OBの経営するデートクラブを追っていたらしい。あんた、西京連合は知っているな?」
「ああ」
 私は応えた。
「あんたは連合のOBだろう、北乃さん?それで何か知ってるんじゃないかと思って、こうしてお越しいただいたわけだ」
 いい終え、大野がじっとこちらを凝視してくる。宗形も同様だった。
「何も知らんよ」
 事実だ。横田は話の後半、デートクラブの存在を仄めかせていたが、それ以上のことは何も聞いていない。
「これも任意だろう?帰らせてもらう。飯の材料を集めている途中なんだ」
 私は席を立ち、取調室を出た。
 大野も宗形も、私を止めなかった。
「何かあったら連絡を」
 大野が名刺を差し出す。私はそれを受け取った。

 吹き溜まりに白いレクサスが滑り込んできた。昼を過ぎている。レクサスは誰もいない路肩へ止まり、エンジンを切った。竹久だ。前はエンジンをアイドルさせたままだった。今日は腹を据えて話し込もうという気らしい。呼び寄せたのは、私だった。
 運転席のドアが開き、竹久が降りてくる。今日もスーツ姿だった。
「北乃さん」
 竹久が私の名を呼ぶ。私は包丁を研ぎ終え、児童遊園から段ボールハウスに戻ってきたところだった。
「竹久。仕事はいいのか」
「もう昼ですよ、北乃さん。昼飯をご馳走になろうと思いましてね」
 朝食と昼食を作る習慣は途絶えていた。千穂も早苗も、もうここにはいないのだ。私は鞘に収めた包丁を、段ボールハウスの中に放った。
「隣、いいですか」
 地べたに腰を降ろした私に竹久が訊く。ああ、と私が応えると、竹久もスーツのままアスファルトの上に尻を着けた。
「あれから大変でしたよ、北乃さん。会社に刑事が来て、色々訊いてきました。この車がカメラに映ってたとかで」
 苦笑しつつ、竹久がレクサスを手で示す。
「悪かった。だが助かったよ。あのときお前が通りがかってくれなかったら、おれは今ごろ起訴されて検察いきだ。ありがとうよ」
 竹久が苦笑する。上手くいい逃れてくれたのだ。
「大体の話は聞きました。北乃さんが乗っていた車から覚醒剤が押収されたそうですよ。北乃さん、運び屋をやらされていたんですね」
 今度は私が苦笑する番だった。
「うまい具合にやられたよ。侠撰会から密告があったんだ。阿南というやくざでね。自分でやらせておいて、自分でチクりやがった」
 やられましたね、と竹久がいい、くくくと笑った。そして表情を改める。
「北乃さん、保護してた女の子、侠撰会に連れ去られたんですってね。うちの会社にもそんな話が降りてきました」
 おしぼり屋のトラックが吹き溜まりに進入してくる。いつか見たトラックと同じ型だ。エンジンが切られる瞬間、車体が身震いした。
「ああ。母親は内臓を全部抜きとられて、そこに打ち捨てられてたよ。不憫なもんだ」
「こんな話を小耳に挟みました」
 前置きし、竹久が語る。
「うちのOBが密かに児童買春クラブを営ってるそうです。そのスタッフ、女の子ですね。渋谷の辺りでスカウトして、小遣い稼ぎとして子供たちを働かせているようですよ」
 横田も似たような話をしていた。
「横田に訊いたのか?」
「ええ」
 竹久が頷く。
「北乃さんを紹介したのは俺ですよ、実は」
「察しはついていたよ」
 配達を終えたのか、若い運転手がトラックに乗り込んだ。エンジンに火が入る。その瞬間、やはり車体が身震いした。
「その横田、殺されたってよ、竹久」
「警察から聞きました。刺殺体が東京湾に浮かんでたって。横田はその児童買春クラブを追っていたそうですね」
「そうらしい。下手につつけば藪蛇だ。追わない方がいい」
「北乃さんはどうするんです?」
 うっすらと、竹久の頬に笑みが浮かんでいた。こちらの動きを期待している顔だ。
「その買春クラブを営ってるってOB、何て名だ?」
 竹久は顔を曇らせた。
「そこまでは聞いてません。大っぴらに営れる商売じゃありませんからね。そのOBも神経を尖らせているんでしょう」
 竹久が腰をあげた。尻についた汚れを両手で払っている。
「追うんですか、北乃さん」
 私は答えた。
「ああ。早苗を取り戻さなきゃな」
「早苗っていうと、その女の子の名前ですか?」
「そうだ」
 飯館組の連中は私にコンタクトを取ろうとしない。阿南に電話をかけても無駄だ。ならば、残されている可能性を探るしかない
「北乃さん」
 背を向けながら、竹久がいう。
「社会復帰する気がもしあるんなら、空いてますよ、ポスト」
 私は苦笑し、首を横に振った。
「なら、力になれることがあったらいつでもいってください」
 竹久が歩き出す。レクサスに乗り込み、エンジンをかけた。クラクションをひとつ残し、ドン・キホーテ裏の路地へと走り去る。
 例の児童買春クラブを営っているOBの名を竹久が知っていたなら、直接そちらを当たればよかった。だが、そこまでの情報が降りてきていないのなら。
 私は先日渡された名刺を取り出した。横田の残したものだ。電話番号と、仕事場だという住所が記されている。


 横田祐二の名を出すと、マンションの管理人は首を傾げた。代々木にある四階建ての古ぼけたマンションだった。エレベーターは設置されていない。管理人は一度退職したと見える老人だった。
「名刺にこの住所があったんです。部屋の名義は他の人かも知れない」
 私はいった。
 管理人は顎で階段を示した。勝手にやれ、という意味か。終始無言だった。
 階段を登り、四階へと至る。名刺に記された部屋の番号は401。階段を登りきったすぐ傍に、その部屋のドアがあった。呼び鈴を押す。数秒待つと、インターフォンのスピーカーから女の声が聞こえた。
「はい」
 横田の女だろう。私は名乗り、要件を告げた。
「北乃といいます。横田さんの知人です。亡くなったと聞いて参りました」
「ちょっと待ってくださいね」
 女の声が途切れた。身支度でもしているのだろうか。
しばらく待つと、化粧気のない小柄な女が内側からドアを開いた。私の顔を見あげ、小さく会釈をよこす。
「北乃です」
 私は改めて名乗った。
「近藤美紀です」
 女が名乗る。きれいな顔立ちをした女だった。三十を過ぎた辺りか。寝ていたのだろう、眼が半開きだ。水商売と見える。
「あの、北乃さんといいましたっけ?」
「ええ」
「どういったお知り合いで・・・?」
「知人です。亡くなったと聞きましてね。警察はここには来ましたか?」
「はい」
 俯き、美紀が答える。
「来ました。大勢で。洗いざらい調べていって。パソコンも何もかもごっそり持っていきました」
「まだ返してもらってないんですか?」
「ええ」
 美紀が私の顔を見上げた。
「調べるのに日数がかかるかも知れないとかいって。でも・・・」
 私は美紀が次の言葉を発すのを待った。
「もう返してもらえない気がして。咄嗟にパソコンを一台隠したんです。彼が・・・祐二が使っていたパソコンの一台です。形見ってわけじゃないんですけど・・・」
 再び美紀が俯いた。
「犯人、捕まってないんですよね」
「ええ」
「捕まりますか、犯人」
 私は答えに窮した。横田は西京連合OBの営っているという児童買春クラブを追っていた。横田を殺したのは、おそらく西京連合か、あるいはバックについている暴力団だろう。
「そういえば祐二、いってたんです。命を狙われるかも知れない、って。少し冗談めかしてですけど。なんだか、今度は危ない取材になるかも知れない、って」
「そのパソコン、見せてもらえますか」
「ええ。中へどうぞ。散らかってますけど」
 苦笑しつつ、美紀が室内へといざなう。狭い三和土にはいくつもの靴が脱ぎ散らかしてあった。中には男ものもある。横田の靴か。
 美紀が背の低いテーブルの前に座った。
「これです」
 手招きしつつ、ノート型のパソコンを指し示す。私は美紀の隣に腰を降ろした。
「本当は祐二、こっちのパソコンをメインで使ってたんです」
 パソコンを起動させ、美紀が続ける。
「雑誌に載せる記事の下書きなんかも、こっちのパソコンで書いてて」
 パソコンが立ち上がった。美紀がパスワードを打ち込む。
「元はあたしのパソコンなんです、これ」
 画面が切り替わり、いくつものファイルがアイコンとして表示される。『六本木クラブ撲殺』『永福町集団リンチ』と、西京連合の起こした事件の名だろう、いくつものファイルが並んでいた。それぞれのファイルに、横田の書いた記事の下書きや資料が収まっているようだ。
 その中に、『赤坂』とだけ表記のあるファイルがあった。事件の名ではない。地名だけのファイルだ。カーソルを合わせ、クリックする。
「それから」
 美紀が立ちあがる。どこからか、二枚の名刺を取り出してきた。
「ここに来た刑事さん二人が残していったんです」
 差し出された名刺を受け取り、眼をやる。大野と宗形の名刺だった。
「お知り合いですか?」
 私の表情の変化を読み取ったらしい美紀が訊く。
「ええ。この二人から聞いたんです。横田さんが亡くなったことを」
「そうでしたか」
 画面には、『赤坂』と名付けられたファイルの中身が大映しになっていた。住所がある。港区赤坂・・・。そのあとに、「木津孝也のヤサ?女の子たちの待合所?」とある。
 私はその住所を脳裏に刻みつけた。部屋番号まで記されている。集合住宅のようだ。
「何か見つかりました?」
 美紀が訊く。私はパソコンをシャットダウンし、答えた。
「ええ。この住所を当たってみますよ。それから・・・」
 サイドテーブルにメモ帳とペンが転がっていた。携帯の番号を書き記す。
「何かあったら連絡を」


 そのマンションは、氷川神社にほど近い氷川坂沿いにあった。近藤美紀の暮らす代々木のマンションまで歩き、そこからこの赤坂まで私は歩いて戻ってきていた。午後四時を過ぎている。吹き溜まりで暮らすホームレスたちが仕事から帰ってくる時間帯だ。そろそろ炊き出しを始めなければならない時間だった。
 横田のパソコンに残されていた部屋番号は904。十階建ての大きなマンションだった。管理人も常駐している。簡単には入れそうになかった。
 二十分ほど張っていると、エントランスから若い女が出てきた。うしろを振り返ることなく氷川坂を下ってゆく。赤坂駅か、赤坂見附駅へと向かうのだろうか。ここからなら、溜池山王駅の方が近い。私は声をかけた。
「なあ、ちょっと」
 女が振り向く。若い。まだ十代だろう。化粧が顔の造形を大人びて見せているが、幼さまでは隠し切れていなかった。
「なに?おっさん」
 はすっぱな口調で女が訊き返す。歩みが止まっていた。
「このマンションに住んでいるのか?」
 私はマンションを手で示しながら訊いた。
「ううん。ここは待合所」
「待合所?」
 女のいう意味がわからない。私は思わず首を傾げた。
「904号室か?」
「うん。よく知ってるね、おっさん。詳しくは話せないけど」
 女が念を押すようにいう。私は質問を変えた。ポケットから名刺を取り出し、かざして見せる。
「横田祐二という男を知っているか」
「知ってる。会って話すとお小遣いくれるんだ。まあ話せる範囲でだけど」
 意味深な言葉だった。
「殺されたよ」
「え!?」
 口をぽっかりと開け、女が絶句した。
「ここには警察は来ていないのか?」
 返答までに、しばしの時間を要した。女がようやく言葉を発す。
「うん。あたしの知る限りでは来てない。横田さん、なんで殺されたの?」
「このマンションを追っていたようだ。ここで何が行われている?あんたは何者だ?」
「あたしは小川美月。アルバイトしてんの」
「いくつだ?」
「十八」
 まだ高校生だ。どうりで幼く見える。
「学校にはいってるのか?」
「ううん、進学しなかった。あたしみたいな女、何人かいるよ。高校もいかずにブラブラして、たまにこうしてアルバイトしてお小遣い稼ぐの」
「アルバイトの内容は何だ?」
「後輩の中学生とか、そのまた下の小学生とか紹介するの。それだけで一人あたり一万円もらえる」
 ねずみ講のようなシステムだろうか。しかし中学生や小学生といえば、まだ就業できる年齢ではない。そして、この美月という若い女、まだ何か隠している。まだ横田の耳にも入れていないのだろう。
「その子たち、何をやらされてるんだ?」
「知らない。掃除とかって聞いたけど」
「掃除?」
「そう。おじさんたちがお金払って、中学生や小学生の女の子に部屋の掃除とかさせるの。ここはそういうクラブの待合所みたいなもん」
「その中に早苗という女の子はいないか。まだ六歳かそこらだ」
 美月は視点を宙に据え、首を傾げた。口を開く。
「わかんない。入れ替わり立ち代わりだから、ここ。ねえ、ほんとに横田さん殺されたの?」
「そうだ。本当だ。おまえさんたち、相当ヤバいことに足突っ込んでるぞ。中に入れるか?」
「ダメ。木津さんに怒られるから。鍵かかってるよ。ここの九階」
「木津さん?」
 横田のパソコンにあった名だ。木津孝也。
「このクラブを経営してる人。っていうか、おじさん誰?探偵?」
「そんなところだ。その木津っていう男の電話番号はわかるか?」
「それもダメ。怒られる」
 私は落胆を隠し、また質問を変えた。
「横田には何を話した?」
 また視線を宙に据え、美月が回想する。
「お客さんの面子とか。ねえ、おっさん、お小遣いくれるの?」
 私を横田と同類の人種だと考えているようだ。私は財布の中身を思い返した。
「いくら欲しいんだ?」
 少しいい淀み、美月が答える。
「いまちょっと貯めてるから。五万」
 取材費としてはあまりに高い。そんな金はなかった。
「そんなにはやれん」
「それじゃ、この話はおしまい。じゃね」
「待て」
 私は美月を引き留めた。
「おれの番号を携帯に登録しておいてくれ。また話を聞くことがあるかも知れん」
 私は十一桁の番号を諳んじた。美月が携帯を取り出し、番号を登録する。すぐに着信があった。美月の番号だ。
「じゃね」
 美月は一方的に話を打ち切り、氷川坂を下っていった。私は溜息を吐き、その背中を見送った。
 背後から、不意にディーゼルエンジンの轟きが聞こえてきた。私は電柱の陰に身を隠し、道を開けた。狭い氷川坂だ。
 配送か何かのトラックかと思ったが、現れたのはキャンピングカーだった。私は眼を見開いた。ヘミングと共にクスリを運んだとき、クスリを受け取ったあのキャンピングカーだ。
 キャンピングカーはマンションのエントランスに横付けし、ギアを抜いたようだった。エンジンはアイドルしている。私は身を縮め、その様子を見ていた。
 エントランスから数人、女たちが出てくる。美月よりもさらに若い。女児といってもよかった。六人の女児がマンションからキャンピングカーへと乗り移る。美月のいっていた「掃除」にでも出かけるのだろうか。
 六人の女児を乗せたキャンピングカーが走り出す。私はナンバーを眼に焼き付けた。品川ナンバー。追おうかとも考えたが、こちらは徒歩だ。どこかでまかれるだろう。無駄に違いない。キャンピングカーはどこへ向かうのか。私はそのテールを見つめ、考えていた。
 午後五時を過ぎ、管理人室の窓口にカーテンがひかれた。エントランスに踏み入り、エレベーターで九階へ。904号室の呼び鈴を鳴らした。反応はない。ドアに耳を押し付ける。物音ひとつしなかった。誰かが潜んでいる気配もない。完全に無人のようだ。鍵はかかっていた。ドアはびくともしない。
 私は肩を落とし、一階へと降りた。早苗を取り戻すためにできることがなくなってしまったのだ。手がかりは、そこでぷっつりと途絶えていた。
 六本木へと戻るべく、氷川坂を登る。料亭の前を通り過ぎると南部坂へと至り、それを降りた。赤坂と六本木の境だ。
 背後から、不意にエンジン音が近づいてきた。歩いていた私の傍らでアイドルする。久國神社の辺りだった。見ると、銀色のメルセデスが止まっていた。内側からドアが開かれる。
「乗れば?」
 口許に微笑を浮かべ、女がいった。ヘミングだった。
「あなた六本木の、ほらあそこ、段ボールハウスがたくさんある所で寝泊まりしてるんでしょう」
 クラクションが後方から聞こえる。狭い一方通行路だ。追い越すスペースはない。後続車はクラクションを立て続けに三度、短く鳴らした。
「送るわよ。ほら、早く乗りなさい」
 私は何もいわず、助手席へと乗り込んだ。ドアを閉じると、左ハンドルのメルセデスをヘミングが発進させる。ハザードを一度焚き、そして消した。
「大変なメにあった」
 私はいった。
「麻布署の辺りだ。阿南が密告(ちく)ったらしい。危うく覚醒剤取締法違反か何かで留置所いきだった。咄嗟に逃げたがね」
「知ってるわ。阿南から聞いたの。上手く逃げたそうじゃない」
 ヘミングが前方を見据えたまま答える。
「あんたの差し金でもあるのか」
「ううん。あとで阿南から聞いたの。あなた、彼からすると邪魔なようね」
 ウィンカーを出し、ステアリングを左へ一杯に切りつつ、ヘミングがいう。ガソリンスタンドの脇にある狭い交差点に出た。六本木通りが眼の前に横切っている。赤信号に止められた。
「こっちもさんざんよ。あなたが逃げてから、また新たに運び役を斡旋されたけど、これがどうしようもないちんぴらでね、若い。ビクビクしてて、あっさり職務質問に引っかかって。捕まったのが昨日よ。侠撰会はさらに運び役を送るっていってきたけど、あたしもううんざりしてる。飯館組は侠撰会の傘下だからいいとしても、協和は別の取引先だから。またクレームだわ。『届かない』って」
 信号が青に変わった。ヘミングがメルセデスを出す。右にウィンカーを出し、ステアリングを切った。陽はまだ落ちていない。街全体が緋色に染まっていた。
「あなた、阿南に何をされたの?」
 メルセデスを六本木通りに乗せ、ヘミングが訊く。
「女の子をさらわれた。まだ六歳だ。あんた、西京連合って知ってるか」
「ええ」
 メルセデスが加速する。六本木交差点が遠く見えてきた。
「そのOBが営ってるらしい児童買春クラブで働かされてる可能性もある。おれはなんとしてもその子を取り戻したい」
「児童買春クラブ?」
 ヘミングが私を見た。眼が険しさを帯びている。
「ああ。その噂を聞いて、さっきその待合所らしい所へいってきたところだ。何も収穫はなかったが」
「ふうん」
 メルセデスが六本木交差点へ達した。左折レーンには、すでにタクシーの列が形成されている。赤信号。ヘミングは左にウィンカーを出し、深く息を吐いた。
「それは聞き捨てならないわね。児童買春なんて初耳だわ」
 なぜヘミングがこの話に食い付いてくるのか、私にはわからなかった。麻薬の売人であるヘミングにも、独自の倫理観があるのか。
「あたしも子供の頃には大人たちに上手く使われたわ。まだあたし、あの大人たちを許せてないもの」
「何があったんだ、当時?」
 私は訊いた。
「話すと長いわ。この国でのことではないし。連中はやくざじゃなくてギャングとかマフィアとか呼ばれてた。今じゃ、やくざも世界語になってるけど」
 信号が青に変わる。ヘミングがステアリングを切り、メルセデスが六本木交差点を左折した。外苑東通り。六本木三丁目だ。
「あたしも阿南には貸しが出来たわ。向こうは返すつもりなんてないようだけど。ただじゃ済まさない。あなた、あたしの番号は携帯に入っているわよね?」
「ああ」
 信号に止められることなくメルセデスは外苑東通りを直進し、吹き溜まりの手前で左折した。大柄な車体が吹き溜まりへと滑り込む。ヘミングがブレーキを踏み、メルセデスを路肩に寄せた。窓の外に、段ボールハウスの集合体が見える。辺りには、若者が集まりつつあった。
「何かヒントになるようなことがわかったら連絡を入れるわ」
 ドアを開き、吹き溜まりに降り立つ。ドアを閉じると、ヘミングが短いクラクションを一度鳴らし、メルセデスは去った。
 そろそろ飯の支度をする時間だ。私は段ボールハウスに入り、調理器具とその日の朝に調達した食材を引っ張り出した。
 その日、廃棄処分となるはずの冷凍餃子を大量に貰ってきていた。軽く十人前はある。中華鍋に油を敷き、一気に焼き上げ、釜で飯を炊いた。仕事から帰ってきたホームレスたちが行列を作る。順に飯を盛り、皿に餃子をごろごろと転がしてやった。
 夜、私を呼ぶ声がした。長老だ。
「おいコック、コック」
 私は段ボールハウスから這い出し、訊いた。
「どうしました?」
「こっちへ入れよ。ニュースをやってる」
 辺りにはクラブから漏れ出てくる重低音に混ざり、長老の持つ発電機の低い唸り声が聞こえていた。
 長老は携帯電話の他にも、ふた昔ほど前に流行ったポータブルテレビを持っている。長老の段ボールハウスに入り、小さな画面を覗き込んだ。
 昨夜未明、六本木五丁目で覚醒剤を所持していた男を逮捕。男は車に乗っており、警官の職務質問を受けたらしい。乗っていた車の中から覚醒剤が見つかり、現行犯逮捕。先ほどヘミングの口から零れた件だろう。
「次のニュースです」
 アナウンサーが告げた。
 今日午後、東京都江東区の東京湾で女児の遺体が浮いているとの通報を受け、水上署が遺体を収容した。警察では遺体を解剖へ回し、身元の特定を急いでいる。
 私は眼を見開いていた。女児の死体?身元不明?
 早苗ではないのか。その疑念が、私の胸の中に広がっていった。


                (十)


 大野の携帯に回線が繋がったのは、朝の八時を過ぎてからだった。いつか渡された名刺に番号が記されていたのだ。私はとうに食材の調達を終え、ホームレスたちは働きに出たあとだった。
「何度もかけたんだぞ、大野さん」
 開口一番、私はいった。語気が強くなる。
「仕事とプライベートは分ける主義でね。どうした北乃さん?例の件、やっと認める気になったのか?」
 クスリを運んでいたとき、麻布署の先で私が逃げた件だ。
「そうじゃない。ニュース見たか?」
 いや、と大野はいった。
「なら新聞を見ろ。きっと載ってるはずだ」
 回線越しに、立ち上がる気配がする。非番なのだろうか。ガサガサと紙を開く音が聞こえた。
「昨日の午後だ。東京湾に女の子の死体が浮かんでいるのが見つかった。詳しい情報が欲しい」
「ちょっと待て」
 紙を開く音が続く。それがやみ、沈黙が回線を満たした。不意に大野がいう。記事を読み終えたようだ。
「一時間でいく。麻布署だ。それでいいかね、北乃さん」
「ああ」
 私が応えると、回線は一方的に切れた。
 私の暮らす吹き溜まりから麻布署へは、徒歩で十分ほどだ。一時間という時間を持て余し、私は焦れた。耐え切れず、吹き溜まりをあとにする。外苑東通りの歩道を歩き、六本木交差点を左折。まだ店を開けていない書店の先が麻布署だった。中田の姿はない。非番か、それとも今日は交差点を挟んだ六本木交番に詰めているのか。
 一階から短い階段を登り、二階の受付へ。改装中なのか辺りは散らかっており、いくつかの事務机を強引に引き合わせた受付があった。この建物も古いはずだ。六本木四丁目辺りに建て替え候補地も決まっていると聞く。
「何か」
 私の姿を認めた警官が立ちあがった。胸に「警視庁」のロゴが小さく入った黒い薄手のジャケットを羽織っている。夜勤明けらしく、眼は眠そうだ。顔は油ぎっている。比較的まだ若い警官だった。
「大野さんと約束がある。警視庁の」
 ジャケットの警官が他の警官たちと顔を見合わせる。視線が飛び交っていたが、他の警官は誰も言葉を発しなかった。
「しばらく経てば着くはずだ。さっき電話で話した。一時間後にここで、と」
 靴音がした。そちらへと視線をやる。宗形が廊下を歩いてくるところだった。
「北乃さん」
 警官たちの視線も、現れた宗形へと注がれた。
「大野さんから聞いてますよ。まだ時間がありますから、コーヒーでも淹れますよ」
「ああ」
 宗形が警官たちにいう。
「刑事課の取調室を借ります。いいですね」
 異議を唱える警官はいなかった。
「さ、こちらへ」
 いった宗形が踵を返し、背を向け歩き出す。表情には嫌な笑みが垣間見えた。
 エレベーターで四階まで上がった。刑事課の部屋で島を形成する机についている刑事は数えるほどしかいなかった。宗形に続き私が部屋に入ると、皆が一瞥をくれ、また視線を手許に戻す。宗形に案内され、私は取調室のひとつに入った。
「ここでお待ちを。コーヒーを淹れてきます。大野もじきに着きますんで」
 いい残し、宗形が消える。私は椅子を引き、腰を降ろした。
 以前とは違い、少し広い取調室だった。部屋の隅には書記用だろうか、別の机がある。そこへ、若い刑事が入室してきた。一礼し、名乗る。一之瀬という刑事だった。調書でも取るつもりだろうか。紙の束とペンを手にしている。一之瀬は部屋に踏み入り、書記用の机についた。
 ほどなく。宗形が姿を現した。両手にカップを持っている。
「まあどうぞ」
 宗形がカップを机に置き、椅子に腰を降ろした。お前に用があるのではない。その言葉を飲み込み、私はコーヒーに口をつけた。
「ようやく認める気になったんですか、北乃さん」
 やはり先日、私が捕まり損ねた件だ。宗形が切り出し、一之瀬がペンを走らせる。
「あの書記係は所轄の刑事か?」
 訊くと、宗形が微笑む。
「ええ。通常、殺人とかの事件が起こると、本庁の刑事と所轄の刑事が組むんです。俺はいつも大野さんと組んでいるわけじゃない」
「いつも一緒にいるイメージがおれの中ではあるんだがね。トムとジェリーみたいに」
 私がいうと、宗形は苦笑した。
「横田が殺された件に関しては、大野さんと組んでます。ちょっとイレギュラーな組み方ですけど。俺はまだ本庁勤務になって日が浅いですから」
 取調室の外で、どたばたと音がした。誰かが駆け足で入ってきた様子だ。大野か。音に気付いたのか、宗形が立ちあがり、刑事部屋を振り向く。大野が新聞を手に、取調室へと踏み入ってきた。
「代われ、宗形」
 息も切れ切れに、大野がいう。宗形は黙ったまま席を立ち、取調室から出ていった。
「出ろ」
 椅子を引きつつ、大野が一之瀬に命じる。大野の剣幕に一之瀬が慌てた様子で取調室をあとにした。大野が椅子に腰を降ろし、息をつく。
「しゃぶの件についてはいい」
 大野がいった。
「今は横田の件について話したい。あんた、何か摑んだか」
「質問したいのはこっちだよ、大野さん」
 私は訊いた。
「新聞は読んだか?」
「ああ。タクシーの中でざっと読んだ。こっちへ来る前、本庁にも寄ったよ」
「身元は?」
 大野が答える。
「まだわからん。女児の捜索願いも出てない。ただ・・・」
 大野が語尾を濁す。
「ただ、なんだ?」
「お前さんこそ、横田に関して何か摑んだか?これは情報の交換だ。わかってるだろうな」
 私は答えた。
「横田が追っていたデートクラブの待合所らしき場所を押さえたよ。赤坂だった」
 私は住所を諳んじた。
「待て待て、もう一度」
 新聞紙をひっくり返し、大野がボールペンを立てる。私はそれを待ち、もう一度赤坂の住所を諳んじた。
「どうやってそこへ辿り着いたんだ、北乃さん」
 ペンを走らせ、大野が訊く。
「あんたらと一緒さ。奴の仕事場を当たった」
「それがどうして俺たちが赤坂へ辿り着けなくて、お前さんが辿りつけるんだ」
 語尾を切るように、大野が凄む。
「野良犬は嗅覚が効くんだよ」
 美紀のことは話さなかった。あのパソコンの存在を、美紀は警察に隠したのだ。明かせば、それなりの咎めを受けるだろう。
「それで、今度はこっちの番だ」
 私は身を乗り出した。
「女児の死体は解剖に回されたんだろう?」
「ああ・・・。水上署が回収して、もう解剖は終わってる」
 私は畳みかけるように訊いた。
「身元ははっきりしないんだな?」
「ああ。それとここだけの話、犯された跡があった」
 沈痛な面持ちで大野がいう。
「膣内に裂傷、および男性の性分泌液。肺に水は入ってなかった。水死じゃないということだ。それと、これは少々猟奇的だから報道されんだろうが、眼の玉がなかった。だがこれは致命傷じゃあない。死因はわからんらしい」
 私は椅子から立ちあがり、訊いた。
「あんたが持ってる情報はそれだけか」
「ああ」
 大野が応える。
「赤坂にはこちらで当たる。北乃さん、あんたはじっとしててくれ」
 返事はせず、私は席を立った。阿南の言葉が甦る。臓器はまだ小さくて使えないが、角膜なら使える。


            (十一)


 翌週、私はまた赤坂の街を車で徘徊していた。店のはけた女の子を乗せ、六本木七丁目にあるマンションの駐車場へノーズを向ける。クスリを受け取るためだ。
 ヘミングの要望だった。しばらくの間、運び屋に復帰してくれないか。私は承諾し、その夜車を受け取った。ゴンドラから出てきたのは、銀色のBMW。7シリーズだった。
 背を向けて鎮座するBMWを発進させる。
 飯館組の事務所には寄らず、一方通行路を六本木通りへと出ると、一路第三京浜を目指した。後部座席に乗せた女の子はふたり。そのうちひとりがシートの間から顔を出し、いう。もうひとりはその場で降りていった。
「なんかいつもと道、違うんじゃない?」
 私はそれを無視し、車を走らせた。黙っていろ。今日は動く日だ。
 保土ヶ谷サービスエリアで東亜協同組合のちんぴらに袋を渡し、京浜川崎で第三京浜を降りた。高架下で車を停めると、残った女の子が降り、私はひとりになった。環八へと向けてステアリングを切る。
 環七、明治通りを通り越し、六本木へと戻る。交通量は少なく、スムーズにことは運んだ。六本木交差点を左折。さらに路地へと折れ、飯館組の事務所がある狭い道へと進入する。クスリを運んできた私を待ち、イラついた様子の羽賀の姿が闇の中、浮かんできた。ブレーキを踏み、私は車速を落とした。BMWが羽賀の前で停止し、私はサイドウィンドウを下ろした。
「遅かったじゃねえかよ」
 羽賀が文句を垂れる。この夜も、やはりジャージ姿だった。私は無言で袋を差し出した。羽賀がじっと見据えてくる。眼は吊り上がっているが、筋者独特の険はない。やはりただのちんぴらだ。まだ準構成員でもない。せいぜいがただの使いっ走りだろう。
 無言の私に痺れを切らした羽賀が袋をひったくろうとする。私はその手が袋に届く寸前で手を引っ込め、袋を助手席へと放った。
「なんのつもりだよ、おっさん」
 口調は柔らかだったが、表情に焦りがあった。こちらが何を考えているのか探っている。羽賀の肩がゆらゆらと小刻みに、左右に揺れていた。癖なのか。
「阿南さんに会いたい」
 私はいった。羽賀の眼が見開かれる。一瞬の沈黙のあと、羽賀がいう。沈黙のあいだ、ない頭であれこれと思案したのかも知れなかった。
「無理だよ。あの人はどこにいるかわからない。うちの組員じゃないし」
「なら和田さんだ」
「無理だよ」
「『あの人はどこにいるのかわからない』っていったな?なら和田さんは別、ってことか」
 羽賀が歯ぎしりする。辺りは静かだ。BMWのアイドル音だけが聞こえていたが、羽賀の歯ぎしりがはっきりと聞こえた。
「揚げ足取ってんじゃねえよ、おっさん。早くそれを渡せよ」
 羽賀が顎をしゃくり、助手席の袋を示す。
「和田さん、どこにいるんだ?」
 私は訊いた。
「いえねえよ。あの人も忙しいんだよ」
 後半は、吐き捨てるような口調だった。私は少しサイドウィンドウを上げ、告げた。
「じゃあこのクスリは渡さない」
「ちょ、ちょっと待てよ」
 焦った羽賀が車に歩み寄る。
「困ってるんじゃないか?」
 私はいった。
「このところクスリがろくに届かなくて、需要を満たしていないんだろう?」
 薬物が届かず、それを捌けずにいたからとはいえ、組やその上部組織への上納金が減額されるとは思えない。羽賀も和田も焦っているはずだ。
「ティアラだよ。七丁目の」
 ようやく羽賀が吐いた。
「ここも七丁目だぞ。どこにある、その『ティアラ』って店は?」
「星条旗通り沿いだよ。美術館の手前。クラブだよ」
 私は微笑み、いった。
「いい気なもんだな。てめえもクスリのことで焦ってやがるのに、クラブで飲み歩きか」
 サイドウィンドウを下ろす。羽賀にクスリを放ってやった。
「ありがとうよ」
 私はブレーキから足を離した。ギアはドライブに入ったままだ。BMWがクリープ現象を起こし、走り出す。私はアクセルを踏み込み、車を加速させた。
 星条旗通りに出る。星条旗新聞社の敷地が見えた。アクセルを緩め、徐行した。敷地を囲う金網が後方へ飛び去ってゆく。登り坂にさしかかった。少し走れば国立美術館だ。坂を登り切ると、ビルの林立しているエリアに至る。手前のビルに、看板があった。内部に蛍光灯の仕込まれた看板に、『TIARA』の文字がある。私はBMWを路肩に寄せ、エンジンを切った。
 交通量は皆無だった。平日の深夜だ。『ティアラ』は地下にあるらしい。暗い階段から、重低音が響き渡っていた。
 地下へと降りる階段の手前にテーブルが置かれ、若い男がひとり立っていた。テーブルにはスタンプと小さな金庫が置かれている。
「ワンドリンク付きで二千五百円」
 妙なイントネーションだった。日本人ではない。私は財布を取り出し、金を払った。若い男が私の手を取る。手の甲にスタンプを押された。蛍光塗料だ。
「和田という男が来てないか」
 訊いたが、若い男は首を傾げるばかりだ。簡単な日本語しか理解できないのかも知れない。
 階段を降りた。厚い扉を開くと、歓声、嬌声、重低音、様々な音が混然一体となり私を包んだ。大勢の男女が踊り狂っている。フロアは広く、軽く百人や二百人は客がいるようだ。DJブースがフロアの中心にあり、そこだけが一段高くなっている。ボン・ジョビが大音量で流されていた。
 踊り狂う大勢の男女にゆく手を阻まれ、なかなか前へ進めない。フロアの最奥部がVIPルームのようだ。フロアと衝立で仕切られている。
 じりじりと前進しつつ、VIPルームを睨み続けた。視線の先で、男がふたり立ち上がる。阿南と和田だった。どこかへ移動する様子だった。
 耳元で声がした。振り向く。私の真横に、見憶えのあるジャージが立っていた。羽賀だ。音楽に合わせ、小刻みに身体を揺らしている。表情には汚い笑みがあった。羽賀が再び私に大声で耳打ちする。
「ついてこいよ」
 和田や阿南に引き合わせるつもりか。羽賀が人ごみを押し退け、踵を返す。私はその背を追った。
 羽賀がフロアの隅へと歩いてゆく。扉を開いた。トイレだ。女の喘ぎ声が聞こえる。個室のひとつが扉で閉ざされ、中で男女がことに及んでいるようだ。私がトイレ入口の扉を閉めると、ボン・ジョビが遠ざかった。
「通報しといたからな、おっさん。違法駐車があるって」
 羽賀が小便器に向かいつついう。女の喘ぎ声が続いていた。羽賀がこちらに背を向け、放尿する。私はいった。
「こんなところに連れ込んでどういうつもりだ」
 小便が陶器を打つ音が静かに鳴り、そしてやんだ。
「まあそう急くなって」
 羽賀がジッパーをあげ、こちらを向く。
「呼んでくれるのか、あの二人を。阿南というやくざと和田さん、フロアの奥にいただろう?」
 閉じた個室から、便器の揺れる音が激しく聞こえてきた。女の喘ぎ声も大きくなる。不意にその声や音が静かになった。終わったらしい。
「早苗をどうした、羽賀?お前さん、あの黒いハイエースに乗っていただろう」
 私の言葉を無視し、羽賀が間を詰めてきた。一瞬だ。
 ワンツー。拳が飛んでくる。辛うじてかわした。
「答えろ!」
 さらに拳。続けざまに羽賀が繰り出す。ボクサー崩れか。
「オレにも面子ってもんがあるんだよ、おっさん」
 個室の扉が開かれた。股間に手をやった若者が出てくる。
「失せろ!」
 羽賀が命じた。
「は、はい!」
 若者が半裸の女を連れ、トイレを出てゆく。私と羽賀のふたりだけになった。
 ジャブ。かわした。さらにジャブ。かわしたが、続けて右のストレート。左眉の辺りに痺れたような痛みが広がる。私は顔をしかめ、痛みに耐えた。見ると、羽賀の表情が緩んでいる。醜い笑みを浮かべていた。
 ボディー。横殴りのそれだった。まともに食らい、私は片膝をついた。肝臓の辺りに鈍い痛み。全身に広がってゆく。痛みを無視し、私は立ちあがった。
「新聞、読んでるか」
 訊いた。息があがり、言葉が途切れる。
「読んでねえよ、んなもん」
 さらに拳が飛んでくる。もう身体がいうことを聞かず、かわし切れない。数発を顔面に食らった。視界が何かに阻まれる。手で左眉をこすると、血の帯が腕についた。切れている。
「ニュース。見ないのか」
 返事はない。代わりに拳。執拗に顔面と腹を狙ってくる。包丁でもあれば牽制になるのだが、あいにく持っていない。
「十年早えよ、おっさん」
 拳がやんだ。羽賀の息も切れている。ボクサー崩れだが、この男は持久力が足りないようだ。やくざの使い走りとなり、ぐうたらな暮らしをしているに違いない。
 私は立ち上がり、羽賀に突進した。腰を摑み、壁へと叩きつける。
「てめえ!」
 羽賀は一瞬息を詰まらせたようだが、私の背に無数の拳を叩き込んだ。肝臓の鈍痛がぶり返す。私はその場に崩れ落ちた。もう動けない。それなりに喧嘩慣れはしているつもりだったが、やはり格闘技経験者には敵わないのか。
「あんたに会う気はねえよ、阿南さんも和田さんも」
 羽賀が吐き捨てる。私は仰向けに転がり、懸命に息を吸った。肝臓の痛みは増すばかりだ。
「女児の死体が見つかった。東京湾だ。眼がなかった。早苗じゃないのか、羽賀」
 言葉が切れ切れになる。羽賀は踵を返していた。
「知らねえよ。そんなのよ」
 羽賀がトイレを出てゆく。扉が開き、閉じられるまでの一瞬、デフ・レパードが大音量でトイレに流れ込んできた。
 しばらく私はそのままでいた。全身の痛みが少しずつ退いてゆく。
 肝臓の痛みはまだ残っていたが、私は喘ぎつつ立ち上がった。トイレを出る。耳をつんざくエレキのサウンドがフロアを満たしていた。
 首を伸ばし、ⅤⅠPルームに視線をやる。誰の姿もなかった。阿南も和田も消えている。
 腰を庇いつつフロアを出た。先ほどの格闘で手の甲に押されたスタンプが消えかかっていた。残った塗料がブラックライトの光を浴び、妖しく光っていた。
 階段を登る。受付の男が怪訝な眼で私を見たが、何もいわなかった。
 BMWに歩み寄る。辺りを見回したが、羽賀の姿どころか、人っ子ひとりいなかった。フロントガラスに駐車禁止の紙が貼られていた。それを剥ぎ取り、運転席に収まった。息をつき、エンジンをかける。
 その場でターンし、青山墓地へとノーズを向けた。坂を登り、青山墓地中央交差点へと至る。右折すると、ほどなく乃木坂トンネルだ。トンネルを抜けると、そこは赤坂の街だ。交番のある交差点を左折。青山通り方面へとノーズを向ける。

 ヘミングが新たに借りたホテルは、そこにあった。ホテル・ザ・ビー。立体駐車場のターンテーブルにBMWを乗せ、私は足をひきずるようにして車を降りた。全身の痛みがぶり返しつつある。
 地下にはやはりBARがあり、ヘミングはカウンターでバーボンを飲んでいた。
「まあ・・・」
 血だらけの私の顔を見たヘミングが声を漏らす。
「手酷くやられたわね」
 私はBMWのキーをヘミングに渡し、店を出た。


             (十二)


 ごくろうさん。まだガーゼの貼り付いている私の顔を見た羽賀は、そういって袋を受け取った。頬に下品な笑みがあった。いけ、と羽賀が顎で示す。私は無言のままサイドウィンドウをあげ、車を出した。後部座席にはまだ若い女がひとり乗っている。その夜に与えられた車は、いつかのランドクルーザーだった。
 配達を終え、京浜川崎で女を降ろし、警察の職務質問や検問に引っかかることもなく赤坂へと帰り着いた。ターンテーブルにランドクルーザーを乗せる。ゴンドラの中へと車を押し込み、地下のBARへと向かった。
「終わりましたよ」
 カウンターでバーボンを飲っていたヘミングにキーを渡す。
「ご苦労さま」
 キーを受け取り、ヘミングが私の顔を見た。
「傷、まだ治らないの?」
 質問を無視し、私は訊いた。
「いつまでこんなのが続くんです?」
 カウンターの中では、かなり歳のいったバーテンダーがグラスを磨いていた。すでに火は消えていたが、セーラムの香りが漂っている。
「座りなさい。話をする気があるなら」
 いいつつ、ヘミングがスツールを勧める。私は腰を降ろし、身体を捻った。上半身をヘミングへと向ける格好だ。身体を捻ると、まだ全身が痛む。羽賀の拳は、私の身体の奥深くまでダメージを負わせているようだ。
「阿南からは何ていわれてるんです?」
 痛みを堪え、私は訊いた。バーテンダーが動く。磨いていたグラスに瓶から水を注ぎ、こちらへと歩み寄ってくる。
「元々、飯塚を私に紹介したのは侠撰会だったわ。ずいぶん昔の話だけれど。その飯塚が消えて、阿南に連絡したの。そして新たに紹介されたのがあなただった」
 水の入ったグラスが私の前に置かれる。酒を飲ませる気はないらしい。
「阿南に人質を取られてるんです」
「人質?」
 バーボンをひと口含んだヘミングが訊き返す
「ええ」
 私は語った。ある日私の暮らすホームレスコミュニティに母子が現れたこと。母親がしゃぶ中だったこと。その母親が運ぶはずのしゃぶに手をつけ、殺されたこと。そして、早苗がさらわれたこと。
「阿南に、要するに侠撰会および飯館組に人質を取られてる。おれが黙ってこうしてあなたの許で運び屋をやってるのはそういうわけなんです」
「その女の人なら、何度か会ったことがあるわ」
 ヘミングがいう。千穂のことだ。
「処理は阿南に任せたの。まさか内臓をくり抜かれるとは思っていなかったけどね」
 私は息を吐き、続けた。
「何日か前、東京湾に女児の死体が浮かんでるのが発見されたそうです。眼がなかったそうです。早苗かも知れない」
「殺された、ってこと?眼をくり抜かれて?」
 再びヘミングが私の顔に視線を向け、訊く。
「かも知れない、って話です。あなたの指示ではないんですか」
「知らないわ。きっと阿南が独断でやってる」
 グラスを摑み、口に運んだ。口の中が渇いていた。
「あのキャンピングカーは何なんです?」
 グラスを置き、訊いた。ヘミングが顔を逸らす。視線は宙を漂っていた。シラを切る気か。
「あなたが知る必要はないわ。少なくとも今は」
 カウンターに置かれたセーラムにヘミングが手を伸ばす。
「私も実は、引退を考えているのよ」
 セーラムを一本抜き出し、ヘミングが咥えた。デュポンで火を着ける。静かな店内に、ライターの蓋が開く金属的な音が鳴った。
「昔はね、来日した外国人のミュージシャンなんかにヘロインや覚醒剤を提供していたけど、クスリがなきゃ話にならない連中なんて今はいないし。私でもうヘミングは四代目だし」
 煙と共に、ヘミングの口から言葉が吐き出される。
「私も歳だし、ずいぶん稼いだしね。そろそろ隠居かなって。考え始めてるのよ」
 ヘミングが私へ顔を向け、自嘲するように微笑んで見せた。
「煙草もやめようと思ってるの」
 ヘミングの皺の寄った手がカウンターに伸びる。その手が、セーラムの箱とデュポンをカウンターの上でこちらに滑らせた。
「あげるわ。あなたに。私はもう喫わないから」
 最後のひと口でグラスを空け、ヘミングが席を立った。


             (十三)


 六本木七丁目のT字路に車を隠し、その中で私はマンションの駐車場に収まったキャンピングカーを張っていた。何が起こるかわからない。潰してしまってもいい車を。私はそう竹久にオーダーした。竹久が用意したのは、型遅れのローレルだった。午後六時を過ぎている。右のサイドミラーに、出雲大社の分祀が遠く映っていた。
 女児たちの姿が見えた。やはり六人いる。早苗の姿はない。女児たちは薄暗くなった路地を真っ直ぐに歩き、キャンピングカーの収まるマンションの駐車場へと消えていった。あの赤坂のマンションから歩いてきたのだろうか。辺りに人通りはない。陽が暮れかけていた。
 マンションの駐車場から、ディーゼルのエンジン音が聞こえてきた。動くようだ。キャンピングカーのテールが路地に現れる。私はキーを捻り、ローレルのエンジンに火を入れた。ベルトには鞘に収まった文化包丁が挟んである。それが下腹部の邪魔をし、ペダルが踏みにくい。ベルトから抜き、助手席へと放り出した。
 キャンピングカーが路地を抜け、六本木通りへと出る。その姿が消えたところで、私はローレルを発進させた。
 六本木通りに出る。キャンピングカーは大柄だ。あいだに何台か車を挟んでも、見失うことはない。六本木交差点を直進。溜池方面へと向かっている。
 信号に止められつつも、キャンピングカーを追った。溜池交差点を右折。キャンピングカーは銀座方面へとノーズを向ける。桜田門を通り過ぎ、皇居を左手にひたすら直進した。日比谷を過ぎ、銀座へ至る。キャンピングカーに曲がる気配はない。銀座、東銀座の街を直進する。完全に陽が落ちた。車道のあちこちで、空車のタクシーが列を成しつつある。
 築地本願寺を過ぎると、勝鬨橋が見えてくる。直進。隅田川を渡った。
 月島へと入る。この辺りまでくると埋立地だ。運河を渡り、晴海へと至った。交通量が極端に減る。荷を積んだトラックがたまに走っている程度だった。車間距離を置き、私はさらにキャンピングカーを追った。
 倉庫街が見えてくる。他に車の姿はない。限界だった。これ以上車で追えば、尾行に気付かれる。私は助手席の包丁をベルトに挟み、車を降りた。キャンピングカーが倉庫の陰へと消えてゆく。私は駆け、追った。
 遠くから、倉庫の巨大な扉の開くガラガラという音が聞こえてきた。眼を凝らす。ある倉庫の扉が開き、傍らでジャージの男がキャンピングカーを誘導している。オーライ、オーライという声。羽賀だ。
 キャンピングカーが倉庫の中に収まると、扉がゆっくりと閉じた。私はひっそりと倉庫に近づき、動向を窺った。中で何が行われているのか。
 不意に、倉庫の壁面に設置されたいくつもの排気ファンが回転を始めた。轟音と突風が私を襲う。何を始めるつもりだ。正面扉へと戻り、私は鞘から包丁を抜いた。
 扉に鍵はかかっていなかった。本来なら電動で開閉するのだろう、人ひとり入れる分のスペースを開けるのに、かなりの力を要した。
 倉庫の中には、異臭が立ち込めていた。プラスチックを燃やしたような不快な臭い。私は思わず上着の袖で鼻と口を覆った。大きく息を吸いさえしなければ呼吸には障らないことに気付き、口と鼻から袖を離す。私は足音を忍ばせつつ倉庫内を歩き、キャンピングカーへと近寄っていった。
 キャンピングカーのテールに貼り付く。内部からは物音が断続的に続いていたが、何が行われているのか見当もつかない。私は意を決し、キャンピングカーの後部扉を一気に開いた。
 女児たちがいた。皆ガスマスクを着用している。刺激臭が鼻を衝いた。羽賀が椅子に座り、両足を机の上へと放り出し、携帯電話に眼を落としている。ゲームでもしていたようだ。
 突如現れた私に気付いた羽賀がガスマスクを剥ぎ取る。傍らには白衣を着た長身の男がいた。女児たちは私に一瞥をくれ、その視線が一斉に羽賀へと向けられる。
「お、お前、何しに・・・」
「ここで作ってたのか、クスリを」
 私はいった。ヘミングの言葉が甦る。覚醒剤の国産化。私は女児たちを見回し、いった。
「君たちは出ろ。早く」
「なに勝手に指図してんだよ!」
 羽賀が吠えたが、女児たちは黙ってキャンピングカーから降りていった。机の上には、シャーレ、スポイト、メスシリンダー、アルコールランプなどが並べられている。ここで流れ作業のようにクスリを精製していたのだ。
「てめえ、まだ懲りねえのか!」
 携帯を放り出し、羽賀が迫る。私は包丁を抜き、組み付いてきた羽賀の肩にそれを力づくで刺してやった。
「あああああ!」
 羽賀の身体から力が抜け、片膝を着いた。眼を見開き、私を見ている。傍らにいた白衣の男はすでにキャンピングカーを降りていた。中にいるのは羽賀と私の二人だけだ。
「何故・・・」
 私は包丁に込めた力を緩めず訊いた。羽賀の肩から血が溢れ出す。
「なにがだよ!?」
 かすれた声で羽賀が訊き返す。
「何故だ」
 包丁に、さらに力を込める。刃はさらに深く、羽賀の傷口に入り込んでいった。悲鳴まじりに羽賀が答える。
「しゃぶだよ、しゃぶ・・・覚醒剤だ。国産の・・・。精製すると変な臭いが出て足がつくだろ?だからこの倉庫の中で作ってんだ。この車はラボってわけ・・・」
「あの子供たちは何だ」
「へへへ・・・」
 食いしばった歯の隙間から、羽賀が笑いを漏らした。
「アルバイトだよ。貧乏な家でろくに小遣いももらえない子供を集めて、ああやって使ってんだ。子供なら捕まっても罪は軽く済むからな。良心的だろ?へへへ・・・」
「早苗をどうした?お前がさらった女の子だ」
「知らねえよ」
 羽賀が吐き捨てる。床に血だまりが形成されていた。
 刺した包丁に、別方向の力を加える。羽賀が叫んだ。
「あああああ!うううう・・・」
「早苗だ」
「知らねえ、本当だ。うちは侠撰会とは違う。ただの底辺やくざだよ。人身売買も臓器売買もやってねえ」
 さらに別方向の力。羽賀が呻く。
「考えてもみろよ、おれみたいなのが属してるんだぜ?そんな商売相手いやしねえよ。侠撰会だ。やってるとしたら侠撰会だよ」
 本当だ、信じてくれよ。羽賀が懇願した。
 私は羽賀の肩から包丁を抜いてやった
「あああああ!」 
 血が噴き出す。肩を押さえた羽賀が床に転がった。憎悪に濁った眼で私を睨み、立ち上がる。さらに向かってくるかと思い、私は包丁を逆手に持ち替え身構えたが、羽賀はそのまま床を駆け、キャンピングカーの外に出ると逃げていった。床の血だまりからキャンピングカーの外まで、点々と血の跡が残されていた。
 無人のキャンピングカーの中を見回した。工業用アルコールと記された瓶がいくつもあった。
 全ての蓋を開き、車内全体に工業用アルコールをまんべんなくぶちまけた。デュポンで火を着ける。火は瞬く間に広がり、炎がキャンピングカーを包んだ。
 私は炎に包まれるキャンピングカーから離れ、その様を傍観している女児たちの許へ歩み寄った
「帰るんだ。こんなことで小遣い稼ぎなんてしてちゃいけない」
 ひとり、またひとりと、女児たちが倉庫の外へと出ていった。私は燃え盛るキャンピングカーを見ていた。エンジンがディーゼルなら、燃料は軽油だ。燃え移り、爆発する心配はない。
 倉庫を出た。女児たちの姿はなかった。
 羽賀が勝鬨橋の方へ片手を振っていた。手には携帯が握られている。もう片方の手は、私の刺した肩を押さえ付けている。手が血で真っ赤になっていた。傍らにはガスマスクを手にした長身の白衣。
「誰か来るのか」
 私は羽賀に声をかけた。二人がこちらを振り返る。白衣の男は顔の彫りが深かった。混血か。羽賀はまた醜い笑みを浮かべている。肩を手で圧迫し、止血に努めている羽賀がいう。
「阿南さんを呼んだんだ」
 出血が酷いのか、立ちくらみがしたようだ。羽賀が片足をアスファルトの地面に着いた。混血もつられて屈み、羽賀の傷口に手をやる。
「すぐに着く。落とし前をつけてもらうぜ、おっさん」
 羽賀が息も切れ切れにいった。
 私は包丁を鞘に収め、二人が手を振っていた方角へ眼をやった。闇の中を車が一台、近づいてくる。
「やっちまったな、おっさん。あんた、うちや侠撰会のクスリ工場を潰したんだ」
 深手を負い、立っていられない割りには口の減らない男だった。白衣の混血も、憎しみの色に染まった眼で私を見ている。
「そいつは何だ?」
 私は訊いた。羽賀が答える。
「薬学部崩れさ。うちにクスリの製造を指導してたんだ。もうそれもパーだけどな、あんたのおかげで」
 車が全貌を現した。黄色いサバ―バンだ。倉庫の敷地に入ると、バンは停止し、しばらくアイドルしていた。すぐに人が降りてくる気配はない。中には阿南がいるのか。羽賀が声を張りあげる。
「阿南さん!こいつです!まだいます!早く!」
 羽賀の訴えに応えるように、バンのスライドドアが開いた。坊主頭のスーツが降りてくる。阿南だ。続いて見たことのない男。こちらも坊主頭ではないが、髪を短く刈りこんでいる。白衣と同じく、顔の彫りが深かった。口を真一文字に結び、仏頂面でバンを降りてくる。羽賀が歓喜の声をあげた。
「ああ!カンさんも来てたんすか!あいつです!もうやっちゃってください!」
 阿南が手で羽賀を制した。そして三歩ほど前進し、倉庫の中へ視線を向ける。燃え盛るキャンピングカーに、阿南が少しだけ眼を見開いた。カンと呼ばれた彫りの深い男は、バンの傍に立ったままだ。
 阿南が口を開く。視線は倉庫の中に据えられていた。
「やってくれたな、北乃さん」
 静かな口調だった。怒りは感じられない。ただ淡々と感想を漏らす、といった調子だった。
「早苗はどうした」
 私は訊いた。
「女の子が六人いたが、皆帰ったようだ。だが早苗の姿はなかった」
「どうしたと思う?」
 阿南がいい、初めて私を見た。
「それを訊いているんだよ」
 かすかに微笑み、阿南が片手を振る。カンがこちらへ歩み寄ってきた。
「そいつは何だい?阿南さん」
 カンの表情に変化はない。無言で距離を詰めてくる。日本語が通じないのか。
「ベトナム人だ」
 阿南が答える。
「兵役があるからな。職にあぶれているところをうちで雇った。荒事専門だがね」
 カンが背に手をまわす。もう一度その手が現れた。小型の斧が握られている。近代的なデザインだった。グリップがゴムか何かの樹脂で作られている。薪を割るためのデザインではない。武器だ。私は身構え、再び鞘から包丁を抜いた。左手で逆手に持ち、半身に構える。カンが歩みを止めた。斧を握り、あちらも半身に構えた。
「こいつは手強いぞ、北乃さん」
 カンが斧を振りかざす。横にステップし、咄嗟に避けた。刃が空気を切る音がする。私は踏み込み、包丁を横に薙いだ。カンがバックステップでそれをかわす。
 攻防が続いた。誰も言葉を発しない。カンの斧と私の包丁がぶつかる。耳障りで金属質な音が鳴った。そのままカンが押してくる。靴が後方へと滑った。相手はコンバットブーツだが、こちらは拾ったキャンパス靴だ。じりじりと押される。刃をかわし、私は右のフックをカンの脇腹に叩き込んだ。カンが身を退く。互いに汗をかいていた。息も切れている。不意に、左の脇腹に冷気を感じた。リーチはある。カンは苦笑いを浮かべていた。一瞬、私は左の脇腹へと眼をやった。服に血が滲んでいた。血の染みがみるみる広まり、血がぼたぼたと落ちてきた。冷気が退き、続いて熱気を感じた。斧の刃が私の脇腹を抉っていたのだった。
 カンを睨んだ。カンはカンで脇腹を押さえている。手応えはあった。肋骨が折れる感触が、私の右の拳に余韻を残している。身体から力が抜けていった。カンにも戦意はもうないようだ。じりじりとカンが後退する。互いの額から、汗が滴り落ちていた。
「健闘したな、北乃さん」
 言葉を発せなかった。口を開けば、さらに脇腹から血が出てきそうだ。私は脇腹を押さえ、足を引きずるようにして歩いた。ローレルまで、あと数十メートル。連中に背を向けるのは恐ろしかった。格闘するよりも、背を向ける方が恐ろしい。
「痛かったかい?痛かったかい?」
 羽賀の茶かす声が聞こえた。それを無視し、必死で足を動かした。
「感謝してるよ、北乃さん」
 一度足を止め、阿南を振り向いた。阿南はその場に立ち、冷めた眼で私を見ていた。
「羽賀の傷は大したことないようだ。だがあんたはどうかな。内臓に達していれば命に関わる」
 何かいってやりたかったが、口を開けない。
 ようやく車へと辿り着いた。ポケットからキーを取り出し、イグニッションに挿す。捻ると、エンジンに火が入った。
 身体を捻り、ギアをドライブに入れた。右手は傷口を押さえたままだ。オートマチックなのが幸いした。左手を放せば、たちまち血が溢れ出てくるだろう。
 アクセルを踏み込み、勝鬨橋へとステアリングを切った。腰から太腿の辺りが熱い。見ると、その辺りからシートへと、大量の血が伝っていた。

 

             (十四)

 

 風邪なら食って寝ていれば治る。怪我も同様だ。よほど酷い怪我でもない限り、ホームレスたちは食って寝て治す。ただ、虫歯だけは違った。放っておいても治らないのだ。そんなとき、彼らは南斗内科へと駆けこむ。保険証を持っていないホームレスでも、ドクは格安の料金で治療してくれた。専門は内科だが、ドクはどんな怪我や病でも診る。それが刀傷でも、銃創でも。
 気が付くと、私は南斗内科のベッドに寝かされていた。どのくらいの時間が経ったのか見当もつかない。カーテン越しに、陽光が窓から差し込んでいた。
 ローレルを吹き溜まりに滑り込ませ、スーツケースを曳いたタイラントをクラクションで追い払ったところまでは記憶がある。そこで意識を失ったようだ。
「コック?」
 ヘルスが私の顔を覗き込み、呼んだ。視界からヘルスが消える。どこかへ駆けていった。
「ドク?ドク!コックが!」
 ヘルスがドクを呼んでいる。傷を庇うように、私は首だけを起こした。ヘルスに連れられたドクがこちらへ歩み寄ってくる。
「眼が覚めたかね」
 ドクが訊いた。
「ええ」
 まだ意識が朦朧としていた。どれくらい眠っていたのだろうか。
「オレ、長老に話してきます!」
 ヘルスが扉を押し、南斗内科を出てゆく。階段を駆け降りる足音があとに続いた。
「気分はどうです?」
 聞き覚えのある声だった。視線を移すと、そこに竹久がいた。
「竹久・・・」
 どうしてここにいるのか。私の問いを待たず、竹久が告げた。
「車が停まっているのを見て、駆けこんできたんですよ。ここに闇医者がいることはホームレスたちから聞きました」
 ドクが咳払いをする。
「長老やヘルスがあんたをここへ運んだんだ」
 ドクが説明した。
「運転席で気を失ってたそうだ。私も驚いたよ。酷い出血だったからね」
「あれから何時間経ちましたか」
 私はドクに訊いた。
「さて、何時間かな。もう昼だ。半日は経ってる」
 階段を登る足音が、また聞こえてきた。ドアが開かれ、長老とヘルスが姿を現した。竹久とドクを押し退け、こちらへ向かってくる。
「大丈夫かよ、コック?」
 長老が眼を丸くしながら訊いた。
「ええ。なんとか。ただ・・・」
「ただ、何だ?」
 飯を作るのに難儀するだろう。食材を集めに歩き回る体力も残っているとは思えなかった。
「飯はしばらく待ってください。この身体じゃあちょっと、ね」
 上半身を起こそうとすると、脇腹に激痛が走った。思わず私は呻き、また身体を横たえた。
「無理すんなよ、コック」
 ヘルスがいう。
「飯なんていいんだよ、コック。それより傷を治しな」
 長老のありがたいお言葉。
「ご苦労さんだった。さあさあ、ここを出て。コックは深手を負ってる。不潔な連中はお断りだよ」
 ドクがふたりを追い出しにかかった
「待ってるぜ、コック」
「お大事にな。ゆっくり治すんだ」
 ふたりがそれぞれにいい、南斗内科を出ていった。
「さて・・・」
 呟きながら、ドクが白髪の頭を掻いた。ふけがばらばらと落ちる。風呂嫌いなこの医者も、ホームレスたちに負けず劣らず不潔に違いない。
「よく眠っていたよ。鎮痛剤が効いたんだろう」
 いいながら、ドクがベッドの傍らにある椅子に腰かけた。
「傷は縫った。その傷じゃ、縫わなきゃ治らんからね。塞がったら抜糸に来るように。近頃は肉に同化する糸も使われているみたいだけど、うちにそんなものはないからね」
「すみません」
 私は身体を動かさず、詫びた。
「しばらくは入院してもらうよ。じっとしていれば治るが、下手に動けば傷が開く。さっきも痛みを伴ったろう?」
「ええ」
「熱が四十度近くあった。傷も深い。縫うのに苦労したよ。あれは何の傷だ?」
「斧です。小型の」
「斧?」
「ええ」
 私は応えた。
「どうりで切り口が鈍いはずだ。肉を抉られていたよ。もう何センチか深ければ命はなかったかも知れないよ」
 壁に背をつけて立っていた竹久が口を開く。
「少なくとも、熱が退くまで動くのは許しませんからね、北乃さん」
 厳しい口調だった。
「わかったよ」
 私は首を起こし、竹久に詫びた。
「車を汚しちまった。悪かったよ、竹久」
「いいんですよ、あんなの。それより北乃さん、例の女の子のことで動いてるんですか。その傷だってそうでしょう。何があったんです?」
 ドクが口を挟んだ。
「相手はやくざかい?西京連合かい?どちらにせよ、危ない連中だろう?傷を見ればわかるよ。西京連合ってことはないか・・・あんたはOBだものな・・・」
 竹久が腕を組み、いった。
「なんなら連合を動かしますよ、北乃さん。北乃さんが困ってるって話せば、今でも動く連中は多い」
 私は溜息を吐いた。呼吸するだけで、脇腹の傷が痛む。昔、喧嘩で肋骨を痛めた時期を思い出した。まだ連合にいた頃だ。病院に駆け込むのが恥ずかしく、半年以上も浅い呼吸で過ごした。常に酸欠気味で頭がぼやけていたものだ。
「これはおれの問題だからな・・・」
 私は呟いた。
 竹久の溜息が聞こえた。見ると、苦笑いを浮かべている。
「つまんない男になっちまいましたね、北乃さん」
 私も苦笑した。
「昔は連合の後輩を率いて暴れてたのに」
 また来ますよ、といい残し、竹久が南斗内科を出ていった。

 
 南斗内科のベッドで横になる私の耳に、階段を登る硬質な足音が聞こえてきた。一歩一歩、探るような足音だ。
 ドクはどこかへ消えていた。風呂にでも入りに、一度自宅へ戻ったのだろう。
 扉の向こうで足音が途絶える。扉が開かれた。私は脇腹の痛みを堪えつつ上半身を起こし、そちらへ視線を向けた。
 開いた扉から、ヘミングが姿を現した。BARにいるときとは違い、ラフな格好ではない。ダークグレーのパンツスーツ姿だった。自分で運転してきたのか、ヒールの低いパンプスを履いている。片手に、何か包みをぶら下げていた。
「どう?具合は」
 訊きつつ、ヘミングが近づいてくる。
「見ての通りですよ。ろくに動けやしない」
 私は溜息混じりに答えた。
「これ」
 ヘミングがベッドの傍らにある椅子に腰を降ろし、包みを私の膝に置いた。まだ温かい。
「これは?」
「食べて」
 包みを解いた。叙々苑の焼肉弁当だった。游玄亭とある。叙々苑の展開する高級志向の店舗だ。
「西麻布で買ってきたの。怪我にはタンパク質よ。お肉とか卵とか」
「わざわざどうも」
 私は弁当をサイドテーブルへと置いた。
「阿南から聞いたわ。ベトナムの用心棒と善戦したんだってね」
 語るヘミングの頬に、微かな笑みがある。
「おかげでこのザマです。まあ、相手も無傷ではなかったでしょうがね」
 右の拳には、まだあのベトナム野郎の肋骨を折った感触が残っていた。
「麻薬工場を燃やしちゃったんだって?」
「あんたはいってた。もう引退を考えてるって」
 あれから二日が経っている。窓から車のクラクションが聞こえてきた。眼をやると、カーテンが風に揺れていた。窓は開かれている。
「やってくれたわね」
 言葉とは裏腹に、表情にはやはり笑みがあった。
「引退を仄めかせていたあんたの言葉が頭にあった。もういいんじゃないかと思って。クスリを欲する外タレはいないし、あんたもずいぶん稼いだ。それに、これはお言葉だが、あんたももういい歳でしょう?」
 私の言葉に、ヘミングが苦笑して見せる。
「覚醒剤をあのキャンピングカーの中で作る前は、どこから調達していたんです?」
「海外から入ってくるのに依存していたわ。純度があまりに低くて、国産化に踏み切ったところでこれよ。あの車、侠撰会と飯館組はかなり苦労して作ったみたい。覚醒剤を精製する過程できつい異臭が発生するから。異臭を嗅いだ付近住民が通報して覚醒剤工場が摘発された例もあるわ。点々と場所を変えて作っていたところよ。そのひとつがあの倉庫。廃倉庫だったのを飯館組が借りてたの」
 ヘミングが煙草を取り出したが、ここが病院であることを思い出したのか、火を着けずに箱を収めた。煙草をやめられないようだ。
「女児たちがこき使われてた」
 私はいった。
「おれはこれからその連中を追うつもりです」
 あの夜、私の問いに、阿南は答えた。どうしたと思う?含みを持たせる答えだった。早苗はまだ生きている。
「邪魔はしないで欲しい。あんたにとっても他人事じゃないはずです」
「そうね・・・」
 微笑みを残したまま、ヘミングが俯く。
「いってたでしょう?かつて自分も大人たちに上手く使われたって。まだその大人たちを許せていないとも」
 俯いたヘミングの眼に、微かな光が宿っていた。
「子供たちを使っていたなんて、それも初耳だわ」
 私はいった。
「とにかく、あの精製工場はもう使えない。横浜の東亜に供給するクスリは別のルートで何とかするしかない。おれは動きます。さっきもいったが、邪魔はしないで欲しい」
 この女のことだ。クスリを入手するルートなど、いくらでも持っているに違いない。
 溜息をひとつ吐き、ヘミングが答える。
「わかったわ」
 私は思わず、安堵の息をついた。
「あの車を燃やしたのは不問に付すわ。そのかわり、上手くやるのよ。犯罪に子供たちを巻き込むなんて、あたしも許せないから」
 椅子から立ち上がり、ヘミングが背を向けた。
「いつかあなたはやるだろうって思ってた。このあいだ飲んだときにね。あ、あなたは水しか飲まなかったわね」
 扉へ向け歩きつつ、ヘミングがいう。
「まさかこんなに早いとは思わなかったけど」
 一度、ヘミングが顔をこちらへ向けた。苦笑している。
「あたしも引退ね。隠居の準備を進めるわ」
 それじゃ、といい、ヘミングが扉を開いた。
 階段を降りる足音が続き、それが消えた。


            (十五)


 食い物には困らなかった。私が怪我で入院していることをどこで聞きつけたのか、昼と夜、手越が余り物を持ってくるのだ。食え、食って治せ。手越はそんなことをいい、料理の乗った皿を置いてゆく。
 入浴はドクに禁じられていた。まだ傷が塞がらない。体臭が気になり、濡らしたタオルで身体を拭いた。
「コック!コック!」
 身体を拭いていると、ベッドのある部屋にいたドクが私を呼んだ。
「携帯が鳴ってるよ、コック」
 着替えを済ませ、ベッドへと戻った。サイドテーブルに放り出した携帯が鳴っていた。液晶に眼をやる。知らない番号だ。十一桁。携帯からかけてきている。回線を繋ぎ、耳に当てた。
「はい」
「あの・・・」
 女の声だった。聞き覚えがある。
「何か?北乃です」
「ああ・・・」
 私はあの日、近藤美紀の部屋に携帯の番号を残してきたことを思い出した。声の主は彼女だ。
「よかった。北乃さんですね?」
「ええ」
 安堵の溜息が、回線越しに聞こえる。
「あの・・・今お時間、大丈夫ですか」
「ええ」
 すう、と息を呑む音がした。何かを切り出そうとしている。
「実は昨日、うちに来たんです」
 口にしにくい何かを含んだいい方だった。私は訊いた。
「誰がです?」
「その・・・やくざ屋さんっていうんですか。怖い人たちです」
「やくざが来た、って、何をしに来たんです?」
「いきなり押しかけてきて、北乃さんに見せたあのパソコンを持っていきました。もう部屋じゅう荒らしまわって、血眼になって探してて・・・」
 声が微かに震えていた。よほど恐ろしかったのだろう。
「ひとりで来たんですか?」
「いえ、ふたり組でした。スーツの人とジャージの人・・・」
 ジャージは羽賀か。もうひとりは。
「スーツの方は坊主頭ではなかったですか」
「いえ、坊主ではなかったような・・・わたし動転しちゃって・・・」
 坊主ではないということは、おそらく和田だろう。飯館組のあのふたり組が美紀の自宅に押し入り、横田のパソコンを奪っていったのだ。
「他には何もされませんでしたか。その・・・」
 強姦という意味の言葉を私は飲み込んだ。美紀の顔立ち。連中ならやりかねない。
「そういうのはなかったです。ただ部屋を荒らされて、祐二のパソコンを持って帰っちゃったんです」
 人的被害はなかった。私は安堵し、息を吐いた。
「警察には?」
「まだ話してません、その・・・」
 美紀がいい淀んだ。
「前に一度、警察の方が来たってお話、しましたよね」
「ええ」
「咄嗟に祐二のパソコンを隠したというのもお話しましたよね」
「ええ。聞いてます」
「なんだかそれを叱られちゃいそうで怖くて・・・」
「大丈夫ですよ」
 私はいい、提案した。
「一緒にいきましょうか。刑事には知り合いがいますよ。ちゃんと話せばわかってくれます」
「ご一緒してくださるんですか」
「ええ。それじゃあ時間は・・・今日は大丈夫ですか」
「大丈夫です」
 美紀が即答した。普段なら眠っている時間だろう。
「青山ブックセンター、わかりますか」
「はい。わかります」
 麻布署の並びにある書店だ。もう店は開いている。
「そこの前で待ち合わせましょう。いいですか」
「はい。タクシーでいきます。三十分くらいかな・・・」
「待ってますよ。それじゃあ三十分後に」
「はい」
 回線を切り、電話帳を呼び出した。大野にかける。コール三つで繋がった。
「はい大野」
「北乃だ」
 バックでがやがやと雑多な音が聞こえる。本庁にいるのか。
「あんた先日、近藤美紀の部屋にガサをかけたな」
「ああ。よく知ってるな。どこで聞いた?」
「おれも訪ねたんだ。彼女の自宅を」
「それで?要件は何だ?」
「話がある。おれじゃなくて、彼女が、だ」
 話?と大野が訊き返す。
「三十分後に麻布署だ。待ち合わせてる。来れるか」
 私が訊くと、やや間があった。時計でも見ているのか。
「なんとか間に合う。三十分後だな?」
「ああ」
「部屋を用意しておく」
 また取調室だろうか。美紀にはその免疫がないはずだ。
「取調室は勘弁してくれ。やくざや警察に慣れていない女なんだ」
 私はいった。大野が微かに笑う。
「わかったよ。別の部屋を確保しておく」
「ありがとうよ」
 礼をいうと、大野が回線を切った。早々に麻布署へ向かうのだろう。
「コック」
 ドクが私を呼んだ。
「無理は禁物だよ。まだ抜糸も済んでいない。下手に動くと傷口が開くよ」
 私は脇腹に手を当て、答えた。
「平気ですよ。ちょっと警察署にいくだけです」
 扉を押し、南斗内科を出た。階段を降り、外苑東通りの歩道を歩く。街は静かだった。時折、営業車が行き来するだけだ。人通りも少ない。
 横断歩道を渡り、六本木五丁目へ。六本木交差点へ向け、さらに歩道を歩いた。六本木交差点を左折。すぐに青山ブックセンターが見えてくる。ちらほらと、客が出入りしているのが見えた。
 店の前で十分ほど待った。対向車線に一台のタクシーが停まる。女が降りてきた。美紀だ。少し歩き、六本木交差点の信号が青に変わるのを待っている。私は手を振って見せた。私の姿を認めた美紀がこちらに会釈を寄越す。歩行者用の信号が青に変わり、美紀が駆けてきた。濃いグレーのスカートスーツ姿だった。
「北乃さん」
 美紀の頬に緊張があった。これから警察署へ赴くのだ。無理もなかった。
「大丈夫ですよ。怒鳴られたりなんかはしない」
 私は先導し、歩道を歩き始めた。青山ブックセンターの並びに麻布署はある。
 署の前では、中田が長い警棒を杖のようにして立っていた。
「今日は女連れですか、北乃さん」
 車線の向こうに視線を投げたまま中田がいう。私はその言葉を無視し、麻布署の正面入り口へと入った。
 二階への階段を登る。美紀の履くパンプスの足音が響いた。
 事務机を強引に繋ぎ合わせた受付の隅で、大野は宗形と共に待っていた。私と美紀の姿を認め、事務用の椅子から二人が立ち上がる。
「来たか、北乃さん」
 大野が口を開いた。傍らの宗形は無言で微笑んでいる。美紀の緊張を和らげようという笑みだった。
 美紀が頭を下げた。
「さあ、こちらへ。お部屋を用意してあります」
 宗形がいう。優しい口調だ。大野と宗形にいざなわれ、私と美紀は廊下を歩いた。
 通されたのは、相談室とプレートのかかった刑事課の狭い部屋だった。机がひとつ。パイプ椅子が四つ用意されていた。取調室とは違い、書記用の机はない。私は十代の頃を思い出した。高校の頃、狼藉を働けば少年課の取調室にぶち込まれたが、中学までは相談室だった。愛想を尽かしたのか、母親が身柄の引き受けを拒み、祖母が迎えに来たこともある。
「まあどうぞ、おかけになって。コーヒーでも淹れてきます」
 宗形がいい、消えた。私と美紀、そして大野が席につく。
「さっそく本題に入りますが、何があったんです?」
 大野が美紀に訊いた。
「あの・・・実は・・・」
 美紀はどこから話せばよいのかわからないようだった。
「あんたら、彼女の部屋にガサを入れたな」
 私が口を挟むと、大野が渋い表情を見せた。
「ああ。色々と借りていった」
「もう返したのか?」
「まだだ。専門の班が解析してる」
 美紀が口を開いた。
「そのとき、実は咄嗟にあるパソコンを隠したんです。持っていかれるのが嫌で・・・祐二の形見ですから・・・」
 いい淀みながらも、美紀が続けた。
「昨日、やくざ屋さんがやってきたんです」
 私はいった。
「飯館組だ。和田と羽賀というやくざだよ」
「そうなんです。いきなり押し入ってきて。そのパソコンを持っていっちゃったんです」
 ふう、と大野が息を吐いた。そして腕を組む。
「私たちがお邪魔したとき、そのパソコンを隠したのはマズかったね」
「まあ、その辺りは突っ込まないでやってくれよ、大野さん」
「それを怒られるのが怖くて、こうして北乃さんと一緒に来てもらったんです」
 宗形が盆にカップを四つ乗せ、部屋に入ってきた。カップをひとつずつ机に置いてゆく。
「そのパソコン、中には何が?」
 大野が訊いた。
「やくざが奪っていったからには、中に何か重要な情報が入ってるんでしょう?」
 大野は美紀に訊いていたが、私が答えた。
「赤坂の住所が入ってたよ」
「赤坂?」
「あんたら、横田祐二が殺された件で動いてるんだろう?」
 私は横田のパソコンに残されていた赤坂の住所を改めて諳んじて見せた。
「横田はある児童買春クラブを追って殺された。赤坂の住所は、それと関連があるんだろう」
 私はいうと、コーヒーに口をつけた。そして続ける。言葉を選び、慎重に私は切り出した。
「あんたら、先日この警察署の先でクスリの運び屋を逃したな」
「認めるのか、例の件。あのときは上手く逃げおおせたようだが」
 大野の眼が細くなり、口許に笑みが浮かんだ。
「そうじゃない。だが、運び屋をやらせていたのは侠撰会及び飯館組だ。実質、和田と羽賀の指示でクスリを運んでたんじゃないか?飯館組は侠撰会の下部組織だからな」
 組んでいた腕をほどき、大野がいう。
「上手いいい方をするな、北乃さん」
 そうだ、と大野が何かを思い出したようにいった。
「例の東京湾に浮かんでいた女児の死体。身元が割れたぞ」
 私は眼を見開いた。早苗か。まさか。阿南はあの夜、私の問いに含みを持たせていた。
「ネグレクトを受けていた女児だった。ろくに飯も食わせてもらえないで、どこかで食い扶持を稼いでいたらしい。とんでもない親でね。捜索願いを出すのも怠ってた」
「眼がなかったというのは・・・?」
 私は恐る恐る訊いた。
「北乃さん、あんたガンジス河を知ってるか」
「ああ」
 確か、インドを流れる大河だった。それがどうしたというのだ。
「あの河には日に何体も死体が流れてくる。それをカラスや野鳥の類が食うんだそうだ。それも柔らかい部分、眼球からな」
 大野が息を吐く。
「カラスにでも食われたんだろう、眼は」
「しかし大野さん、膣に裂傷といっていただろう?あれは何だ?」
「それに関してはノーコメントだ。こちらでも調べている途中でね」
 私は溜息を吐いた。こちらに情報を寄越さないつもりか。
「いこう。話は終わりだ」
 美紀を立たせた。
「すみません、色々・・・」
 美紀を先に部屋から出す。コーヒーは手つかずのままだ。
 階段を降り、正面入り口から麻布署を出た。
 突然、美紀が頭を下げてきた。
「北乃さん、ありがとうございました。私どうしていいかわからなくて・・・」
「いいんですよ」
「お礼をいうことしかできなくて、すみません」
「さあ、今夜もお仕事でしょう。早く休んだ方がいい」
「はい。それじゃあ」
 美紀がさらに頭を下げ、六本木交差点の横断歩道を渡ってゆく。その後ろ姿を、私は見送った。


              (十六)


 日に一度、ドクが脇腹の包帯を取り換えてくれる。怪我を負った当初、患部に当てたガーゼにはおびただしい血がこびりついていたが、血の染みは日に日に小さくなり、今では薄く赤い色がついているだけだ。
「抜糸も遠くないが、あまり無理はしないように」
 ドクがいいつつ、新たなガーゼを患部に当て、包帯を巻く。傷は痛むが、鎮痛剤も、もう飲んではいなかった。それほどまでに完治へ近づいた、ということだ。
 階段を登る足音が聞こえてきた。ひとりではない。複数人の足音だ。足音は、この二階にある南斗内科の前で止まった。磨りガラス製の扉の向こうに、人影がある。ノック。ドクが応えた。
「はいよ」
「失礼します」
 男がふたり入ってきた。大野と宗形だ。ふたりとも、やはりスーツ姿だった。ふたりが待合所に踏み入ってくる。
「探したよ、北乃さん」
 大野がいう。表情に笑みはない。宗形も同様だった。何かを告げに来たのか。
「診察中だ。手短に頼むよ」
 ドクがいい、奥へと消える。私が座っているベッドへと、ふたりが歩み寄ってきた。大野が口を開く。
「北乃さん。実は先日、飯館組の和田と羽賀を引っ張ったんだ」
 なぜか、ふたりは沈痛な面持ちだった。
「何の容疑で?」
 私は訊いた。
「横田祐二殺害に二人が関与していると我々は考えた。奴らが近藤美紀の家に押しかけた件もあってな」
「何か喋ったかい?和田と羽賀は?」
「それがな・・・」
 一度言葉を切り、大野が続ける。
「今朝死体で見つかった」
 何?と私は思わず口にしていた。殺されたのだろうか。
「見つかったのはどっちだ?和田か、羽賀か」
「ふたりともだ。眼も内臓もくり抜かれてた。晴海ふ頭の倉庫番をしている男から通報があった。また猟奇的なもんで、マスコミには漏らしてないが」
 私は息を吐いた。
「任意でだが、連日に渡って取り調べていたんだがね。ある日を境に来なくなったんだ。我々も血眼になって捜したんだがね」
 宗形があとを継いだ。
「我々はふたりが横田祐二殺害の鍵を握っていると睨んで、自供に追い込もうとしてたんです。それがこんなことになって」
 私はいった。
「口封じじゃないのか、侠撰会の。ふたりがなにかうたえば捜査は侠撰会にまで及ぶ」
「その線も視野に入れてるところです」
 大野が口を挟む。
「死因はふたりとも失血性ショック死、及び失血死だった。頸部を鈍い刃物で抉り切られてた。辺りは血の海だった」
 私の脳裏に斧が浮かんだ。あのカンとかいうベトナム野郎に違いない。やはり口封じだ。
「あんたの耳にも入れておこうと思ってね」
 大野がいい、踵を返す。そこで、奥からドクが現れた。
「さあ、帰った帰った。怪我人だ。あまり長話はよくない。主治医としてはこういわざるをえないよ」
 宗形が詫びる。
「どうも邪魔をしました。すみません」
「それから・・・」
 背を向けたまま、大野が切り出した。
「なんだ?」
「例の東京湾に浮いていた女児の死体だが」
 私は唾を飲み、大野の次の言葉を待った。
「レイプされていた。膣内に裂傷といったな。死因はそれによるショック死らしい」
 先日、大野は女児の身元が割れたといった。早苗ではない。やはり早苗は生きているのだ。
「それじゃあ、北乃さん」
 手を振り、大野が南斗内科を出てゆく。宗形もそれに倣い、出ていった。階段を降りる足音が聞こえ、やがて消えた。


 携帯が鳴った。液晶に眼をやる。美月だった。回線を繋ぐ。
「おっさん!助けて!」
 開口一番、美月はいった。悲鳴に近かった。
「どうしたんだ?」
「話はあと!とにかく来て!久國神社に隠れてるから!」
「110番したらどうだ?」
 逡巡する気配があった。そして美月がいう。
「できない。警察になんて相談できないよ、こんなバイトしてたら」
 助けて。美月が懇願した。
「わかった。久國神社だな?」
「うん。女の子をひとり連れてるの」
「訳はあとで聞く。そこでじっとしてるんだ」
「わかった。待ってるから」
 回線が切れた。携帯をポケットに収める。傍らで会話の一部始終を聞いていたドクがいった。
「まだ傷が完全には塞がってない、コック。無理は禁物だよ」
 私は応えた。
「大丈夫ですよ。少し様子を見てくるだけです」
 再び携帯を取り出し、竹久の短縮を押した。耳に当てつつ、南斗内科を出た。車を借りる必要があった。


 竹久はローレルに乗って吹き溜まりに現れた。
「どうしたんです?急に」
 助手席に乗り換えながら竹久が訊く。
「話はあとだ」
 運転席のシートには、まだ私の乾いた血がこびり付いていた。
 ギアを入れ、走り出す。三丁目の路地を抜け、六本木通りに出た。小さな交差点だ。交差点の向かいにあるガソリンスタンドのスタッフが敷地にロープを張り、閉店の準備をしていた。信号が青に変わる。私はアクセルを踏み込み、六本木六丁目の路地へとローレルを滑り込ませた。
 久國神社は六本木通りから一本路地へと折れた先にある。いつかヘミングが私を拾った路地だ。一方通行路を逆走し、神社へと向かう。対向車は来なかった。
 境内の手前にある敷地にローレルを停め、エンジンを切った。私に続き、竹久が助手席から降りる。階段を登ると、そこは児童公園を兼ねた境内だ。美月と少女はすぐに見つかった。社の陰にふたりは座り、じっと私を待っていたようだ。美月が私の姿を認め、駆けてくる。
「おっさん!」
「どうしたんだ?
 私は訊いた。美月のあとに、少女が続く。
「この子から連絡があったの。『逃げてきた』って」
 話が見えなかった。訳がわからない。私は腰を屈め、少女と視線を合わせた。
「どうしたっていうんだ?」
 少女が語り出す。見たところ、まだ小学生だ。中学生にはなっていない。
「あたしの友達が先生のところにまだいるの」
 かなり慌てた様子だった。要領を得ない。
「最初から話してみろ」
 私は促した。焦るのは禁物だろう。
「木津さんにいわれて、友達と先生のところにいったの。掃除をするために」
「へえ。その先生ってのは何者だ?」
「うちの常連さん。週に一回くらいあたしたちを呼んで部屋の掃除させるの」
「それで?」
「友達とふたりで先生のところにいって部屋の掃除してたら、急に怖い人になって・・・」
「とにかく・・・」
 美月が口を挟む。
「この子は逃げ出してきて、その友達はまだ囚われたままなの」
「その『先生』って奴のところにか」
「そうよ。医者なの。変態の。あたしも前は定期的にいってた。掃除しに。『セーラー服を着てきてくれ』とかリクエストがあったりして」
「場所はどこだ?」
「この通りの先の朝日マンション。206号室。この子、そこから逃げ出してきたの。ねえおっさん、助け出してきてよ」
「わかった。しばらくここで待ってろ」
 いい残し、私は竹久を連れ踵を返した。境内を歩き、階段を降り、ローレルに戻る。車に乗る必要はなかった。路地の先に、「定礎」という文字と「朝日マンション」という文字が見える。徒歩で一分もかからないだろう。
 エントランスに入る。管理人室はあったが、無人のようだ。窓口にカーテンが引かれている。隅に部屋番号を押し、住人を呼び出すテンキーが設置されていた。206を押し、相手が出るのを待った。プツリと回線の繋がる音が鳴り、スピーカーから男の声が聞こえ始めた。
「木津さん?」
「いや、違う。女の子を返してもらいにきた」
 私がいうと、回線は一方的に切られた。エントランスからマンション内部に繋がる銀色の扉がある。押したが、施錠されていた。住人がスイッチか何かを押さない限り、開かない仕組みなのだろう。扉を引いてみたが、やはり開かない。さほど堅牢な造りではないが、破壊するわけにもいかなかった。
 小型犬を連れた老婆がエントランスへと入ってきた。テンキーで部屋番号を押している。扉の施錠が開く音がした。老婆が扉を押す。開いた。私は老婆に続き、竹久と共にマンション内部へと入った。老婆がエレベーターの扉を開き、乗り込む。私と竹久もそれに続いた。老婆は四階を、私は二階のボタンを押した。扉が閉まる。箱が上昇を始めた。
 二階に着いた箱が扉を開く。私と竹久は箱を降り、206号室を探した。通路を右だ。ドアの前に立ち、呼び鈴を押す。反応がない。立て続けに十回ほど押した。インターフォンから先ほどの男の声が聞こえた。
「なんですか、あなた?」
「さっきもいったろう。女の子を返してもらいにきたんだ。ここを開けろ」
 またも回線が一方的に切られる。私はさらに呼び鈴を鳴らした。
 ようやくドアの施錠が解かれ、男が顔を出した。ドアにチェーンを張っている。
「なんですか、警察呼びますよ」
 髪の薄い細面の男だった。この男が先生と呼ばれる顧客か。
「警察を呼ばれるとマズいんじゃないか、先生。女の子を監禁してるだろう?」
 男の顔に狼狽の色が浮かんだ。
 そこへ突然、私の視界に何か金属の端が飛び込んできた。ガシャリという音が鳴り、チェーンが切断された。
 車に積んでいたのか、竹久がワイヤーカッターでドアチェーンを切ったのだった。
「ちょっとあんた!待ってくれ!」
 叫びにも似た男の声が廊下に響く。構わず、私と竹久は部屋に踏み入った。狭い廊下を歩くと、そこはリビングだ。その部屋の隅、ソファの傍らに、女児が腐ったジャガイモのように転がっていた。着衣に乱れはない。ただ、両手を腰の後ろで結ばれていた。
「おい、起きろ」
 私の声に、女児は薄く眼を開いた。涙が床に伝っていた。
「おじさん、誰?」
「誰でもいい。助けに来た」
 両手を縛り上げている梱包用の紐を解いてやる。かなりきつく結ばれ、両の手首には痣ができていた。
「さあ、帰るぞ」
 女児を促し、立ち上がらせる。先生と呼ばれている男は部屋の隅で、こちらの動きを傍観していた。
「それじゃあな、先生」
 女児を先に歩かせ、三和土で靴を履かせる。竹久が先導し、部屋を出た。
「コンチクショウ!」
 先生が悪態を吐き、扉を内側から閉めた。

 

 社の許で待つ美月と少女を認めると、女児はふたりへと駆けていった。美月と少女もこちらへと駆けてくる。ブランコやシーソーのある境内で三人は抱き合い、私と竹久が保護した女児は泣いていた。
「大丈夫、あきちゃん?」
 美月が訊く。女児の名はあきというようだ。
「こわかった、こわかったよ美月さん!」
 あきが泣きじゃくる。無理もない。拘束されていたのだ。
「ごめんね、あきちゃん。変なことに巻き込んじゃって・・・」
 美月の保護した少女があきに詫びた。あきは泣きながらかぶりを振っていた。
 あきが泣きやむと、私は切り出した。
「詳しい話を聞こうか」
 彼女はまだしゃくりあげていたが、少しずつ話し始めた。
「待合所から先生のところにいって掃除してたら、急に先生が怖い人になって・・・」
 あとを美月の保護した少女が引き取る。
「そう。急に豹変して、あたしは逃げ切れたけど、あきちゃんは先生に腕を摑まれて・・・」
 竹久が訊く。
「あの先生とかいうハゲ、何者なんだ?」
「いったでしょ。医者よ」
 美月が答えた。
「お前たち、普段はあの氷川神社の近くのマンションで何してる?」
 私は女児に訊いた。美月が答える。
「あそこは待合所。あたしたち、あそこから派遣されるの。お客さんのところに」
 それはもういつか聞いている。
「いったい何なんだ、お前たち?」
 美月が一瞬俯き、そして答える。
「女の子を顧客に派遣するサービスのスタッフみたいなもん。『ハニートラップ』っていうのがお店の名前。無店舗だけど。あの待合所になってるマンションの部屋は木津さんが借りてるの」
「その木津ってのは誰だ?」
 竹久が訊いた。
「お店の経営者。あたしたちを派遣したり、この子たちみたいにもっと歳下の女の子たちをスカウトさせたり。結構危ないんだ。あたしも一度レイプされそうになったし」
 美月が苦笑し、続けた。
「いつかおっさんがいってた通りだったよ。あたしたち、かなりヤバいことに足突っ込んでる」
 私はいった。
「待合所になってるあの部屋には入れなかった。いつかいってみたがね」
 すると、あきがポケットから銀色に光る何かを取り出して見せた。キーだ。続いて美月の保護した少女もキーを取り出す。そして美月も。
「これ、待合所の鍵」
 美月がいった。
「乗り込みますか、北乃さん?」
 竹久が訊く。
 少し迷ったが、私は答えた。
「ああ」
 階段を下り、ローレルの後部座席に美月と二人の少女を乗せた。助手席に竹久、運転は私だ。
 赤坂の路地を縫い、氷川神社の前を通り過ぎる。待合所になっているマンションはすぐそこだ。路肩にローレルを停め、私は車を降りた。
「美月、一緒に来てくれ」
 私の請いに、美月がキーを手に答える。
「うん」
「お前たちはここで待っていろ。すぐ戻るから」
 私はそう、ふたりの少女にいい聞かせた。ふたりが揃って頷く。
 竹久と美月を連れ、マンションへと歩いた。エントランスへと入る。管理人は私たちを一瞥し、視線をどこかへ移した。エレベーターに乗り、九階へと向かう。箱が上昇し、私たちを運んだ。
 上昇をやめた箱が扉を開き、私たちは九階のフロアへと降りた。美月が先導する。904号室。手にしていたキーで美月が施錠を解いた。ドアを開く。
「誰かいる?」
 訊きつつ、美月が土間にあがり、私と竹久もそれに続いた。返事はない。三和土には、靴がひとつあった。ナイキのメンズスニーカーだった。
「誰もいないの?」
 美月が靴を脱ぎ、廊下を歩き出す。左右にいつくかの扉があり、最奥部にも扉があった。そこが待合所になっているのか。私と竹久も靴を脱ぎ、美月に続いた。
「木津さん?いないの?」
 廊下を歩き、最奥部の扉を美月が開いた。美月が息を呑むのがわかった。
「どうした、美月?」
 背に声をかける。美月は何も答えず、ただそこに突っ立っていた。
 部屋は暗い。闇の中で、男がひとり、首を吊っていた。その様が、美月の頭越しに見えた。
 美月を追い越し、部屋へと踏み入る。壁に手を這わせ、照明のスイッチを探した。それらしきものに手が触れ、指先に力を込める。部屋に照明が灯った。
 二十代だろう、若い男が、やはり首を吊って死んでいた。
「美月、あまり見るんじゃない」
 私はいい、死体に近づいた。完全にこと切れている。傍らには、何か書類らしき紙が一枚、落ちていた。
 竹久が死体に近づき、人相を確認しつついう。
「こいつですよ、北乃さん。木津です。連合のOB」
 そうか、と応え、私は床に落ちている紙を拾った。『ハニートラップ』の顧客リストだった。「会員」とあり、その下に顧客名が羅列されている。会員制だったらしい。その羅列された名簿を前に、私は思わず眼を剥いた。
 五十音順に羅列された名を、私はほとんど知っていた。長老の持っているテレビで何度も見たことのある名ばかりだ。医師、弁護士、政治家の名もある。これらが皆、会員だったのか。名士ばかりの名が記されている。
 横田が追っていたのは、これだったのだろうか。
「竹久。下手に色々とさわるなよ。指紋が残る」
 顧客リストを手に、私は竹久にいった。
「何にも触れちゃいませんよ、まだ」
 死体を見つつ、竹久が応える。
「美月」
 廊下に突っ立っている美月に声をかけた。
 美月はただ、木津の死体に視線を奪われているようだった。

 

              (十七)

 

 段ボールハウスの中で携帯を取り出し、顧客リストに記載されている名を片っ端から検索していった。ブラウザを呼び出し、氏名を入力する。やはり名士ばかりだ。ふたつばかり知らない名があったが、ほとんどが知っている名だった。開業医、弁護士、政治家。
 黒沢富夫という名が名簿にある。検索した。
 開業医だった。トップページの中に写真があり、液晶の中で微笑んでいる。精神科、内科。病院は赤坂にあるようだ。
 もうひとつの知らない名を検索する。梅岡高志。これも聞いたことがなかった。医院や事務所のホームページは検索結果に現れなかったが、代わりに警察庁のページがヒットした。警察庁?
 ホームページを開き、順にリンクを辿る。私は息を呑んだ。梅岡高志。警視総監。警察庁のトップだ。この男も『ハニートラップ』の会員だったのか。公になれば、とんでもないスキャンダルになる。
 突然、液晶の画面が切り替わった。着信だ。大野の名が表示されている。回線を繋ぎ、携帯を耳に当てた。
「赤坂の事件は知ってるか、北乃さん?」
 開口一番、大野は訊いた。
「赤坂の事件?」
「そうだ。ほんの何時間か前、赤坂のマンションで男の自殺体が見つかった。匿名の通報があってな。赤坂署の警官が飛んでいったんだ」
「へえ・・・」
 あのあと、私は美月と別れ、ふたりの女の子を家に帰し、竹久とも別れていた。夜の十一時を過ぎている。辺りにはクラブから漏れ出て来る重低音が漂っていた。
 通報したのは美月だろうか。
「死亡していたのは木津孝也、三十三歳。どうもあのマンションで児童買春クラブを経営していたらしい」
「おれに何の用なんだ、大野さん?」
 私は訊いた。
「特命が下ったんだ。ここだけの話だが」
 声をひそめるように大野がいう。
「現場からあるものが消えていた。あるはずのものが」
「何だい、それは?」
「顧客リストだよ、北乃さん」
 片手に持ったその紙切れに眼をやる。警視総監、梅岡高志。
「あんたが持っているんじゃないか?北乃さん。赤坂のコンビニにある監視カメラにあんたの姿が映ってた。例のマンションの近くだ」
「知らんね」
 シラを切った。
「特命とは、その顧客リストを回収することだ。かなりヤバい情報が載っている」
「そうかい」
「持ってるなら、早くこちらに渡せ、北乃さん」
 言葉の裏に、恫喝のニュアンスがあった。
「知らんといったろう。切るぜ」
 回線を切った。携帯をポケットに収め、段ボールハウスから這い出る。夜の闇を、数々のネオンが照らしていた。
 顧客リストを手に、外苑東通りを歩いた。ここに置いておくのは危険だ。梅岡という警察のお偉いさんは総力を挙げてでも、この紙切れを奪いにくるだろう。この紙切れは爆弾なのだ。
 外国人の客引きが、次々と私に声をかけてくる。全て無視し、歩を進めた。六本木交差点を渡る。六本木交番を横切った。
「あれ、北乃さん」
 中田が声をかけてくる。今夜はこちらに詰めているようだ。応えず、さらに歩いた。
「お急ぎですか、北乃さん」
 ワンブロックほど中田は尾いてきたが、それ以上は追ってこなかった。顧客リストの件は、まだ末端の警官には知らされていないのだろう。
 ミッドタウンが見えてくる。絨毯屋の角で歩道を右に折れ、日比谷線の六本木駅へと至った。駅への出入り口、シャッターはまだ降りていない。エスカレーターもまだ動いている。下りのエスカレーターに乗り、構内を歩いた。コインロッカーが見えてくる。ものを隠すには、コインロッカーが一番だ。
 コインを入れ、扉を開く。Bの二番。天面に近い箱を選んだ。顧客リストを放り込み、扉を閉じる。鍵穴が壊れかけているのか、キーを抜くのに少し難儀したが、なんとか抜き取った。キーをポケットに収め、コインロッカーを離れる。来た道を戻り、私は段ボールハウスの中へと入った。

 翌朝、太いディーゼルエンジンの音で眼が覚めた。段ボールハウスを這い出す。外に出ると、窓に網を貼った警察車両とパトカーが二台、また吹き溜まりに進入してきていた。警察車両から警官がぞろぞろと降りてくる。どの車両もサイレンを鳴らしていない。ルーフの赤色灯を光らせているだけだ。
 他のホームレスたちも、段ボールハウスを這い出てきた。降りてきた警官の中に、中田の姿もあった。青を基調としたスラックスにブーツ、防刃ベスト。皆が同じ格好だ。その中田が拡声器を手にいい放った。
「これより、不法居住者の住居を撤去します。すみやかに散会してください」
 中田の声が拡声器のインピーダンスを超え、割れていた。ヘルスが長老に訊く。
「聞いてたか、長老?」
 長老が警官たちに視線をやったまま答える。
「いや、何も聞いてねえ。突然だ」
「まったく、いつもなら事前に通達があるのにな」
「そうだよ、妙だぜ?」
 ホームレスたちが口々に疑問や不平不満を漏らし、それでも身支度を始める。
 突然のホームレス一掃作戦。それは、警察による私への嫌がらせに他ならないように思えた。

 

              (十八)

 

 吹き溜まりを追われたホームレスたちが荷物をまとめ、方々へと散ってゆく。私も身の回りの品々をまとめ、台車に載せた。
「またな、コック」
 長老がいう。
「またほとぼりが冷めたら連絡するよ」
「そうしてください」
 別れを告げ、私は台車を押し、外苑東通りを歩き始めた。六本木を過ぎ、乃木坂へと至る。坂を下ると、そこは乃木坂トンネルだ。私は、またいつかのように青山墓地中央交差点に仮の住まいを据えるつもりだった。
 乃木坂トンネルの端には、やはり汚れた布団が敷かれ、それがこんもりと盛りあがっていた。タイラントが寝ているのだ。その脇を通り過ぎ、私は台車を押してトンネルを抜けた。
 夜が明けている。早朝の空は晴れ渡り、トンネルを抜けるとすぐに青山墓地中央交差点が遠く見えた。
 交差点に着くと、早速段ボールハウスを組み立てる。骨格を兼ねた段ボールを組み、その上にビニールシートをかぶせれば完成だ。調理器具を中へと放り込み、私はタオルを手にトイレへと向かった。
 早朝だからか、交通量は多くない。たまに空車のタクシーが走り去る程度だった。私はタオルを濡らすと個室で服を脱ぎ、身体を拭いた。
 外で車の停まる音がした。エンジンはアイドルしたままだ。どたどたと複数の足音が聞こえる。続いて物音。段ボールハウスが破壊されているのではないかと思い、私は慌てて服を着た。
 トイレから出ると、四人の男たちが私の段ボールハウスを破壊し、中を漁っていた。皆若い。二十歳そこそこだろう。何者だろうか。ひとりがトイレから出てきた私に気付き、口を開いた。
「あんた、北乃か」
 他の若者たちもこちらを振り向く。ビニールシートは取り払われ、段ボールはそこらに散らばり、中に収めたはずの中華鍋やフライパンがぶちまけられていた。
「そうだ」
 私はタオルを畳みつつ、答えた。
「なんなんだ、お前さんたち?」
「飯館組だよ」
 年齢や服装からして、正式な組員ではない。準構成員がいいところだ。全員が髪を茶色や金色に染め、ラフな格好をしている。私はいった。
「今じゃ組の名前を出すだけでこれだぜ?」
 手錠を架せられる仕草をして見せた。口を開いたひとりが鼻で笑う。
「浮浪者の相手を警察がするかよ」
 ひとりが眼くばせすると、残りの三人がこちらへ歩み寄り、私を取り囲んだ。
「身体検査だ、北乃さん」
 三人が服の上から私の身体をまさぐる。コインロッカーのキーと財布を抜き取られた。それらを抜き取った若い男が財布の中を漁り、免許証を取り出している。
「確かにこいつです。北乃甲って書いてある」
「だからそういったろう?」
 私はいった。
「何を探してるんだ?」
 頭らしきひとりが答えた。
「顧客リストだよ。組の指示だ。北乃さん、あんた『ハニートラップ』は知ってるな?」
「店の名前くらいなら知っているさ。それがどうした?」
 若い男が歩み寄ってくる。一方通行路の脇でアイドルしているのは、品川ナンバーの白いアストロだった。
「潰れたよ。経営者は自殺した。その現場から顧客リストが消えてたらしい。それを回収しろって組から指示が出てるんだ。うちの上の侠撰会も欲しがってる。警察もな」
「そこでなぜおれに当たるんだ?」
 私は訊いた。
「そこまではわからねえ」
 財布を抜いた若い男が免許証を財布に戻し、私に放った。受け取り、ポケットに収める。続いてコインロッカーのキーも放られた。
「オレたちの読みじゃあ、警察が侠撰会とうちを使ってでも回収したいんじゃねえかって話だ」
 キーをポケットに収め、私は疑問を口にした。
「警察がやくざを使うってのか?」
 若い男が答える。表情からは笑みが消えていた。
「そうしてでも欲しい、ってことなんだろうよ。聞いた話じゃ、現場近くであんたの姿が目撃されてるらしい」
 私の姿は、あのマンションに近いコンビニの監視カメラに映っていた。やはり警察からリークした情報なのだろうか。しかし、警察がやくざを使うなど、にわかには信じられない。その顧客リストがどれだけ重要なものであっても、だ。
「在り処を知ってるなら早く吐けよ、北乃さん」
 若い男が険しい眼でいう。
「知らんね」
 シラを切ると、若い男が苦い顔をした。
「北乃さん、この件に関しちゃ、オレたちの兄貴分ふたりが消されてる。本気だぜ、オレたちは」
 ふたりとは、和田と羽賀のことだろう。ふたりは内臓や眼球をくり抜かれ、死体となって晴海ふ頭で発見されたのだ。
「血眼になって探さなきゃ、お前さんたちも危ないってわけか」
 私はいうと、四人全員が無言で小さく頷いた。
「とにかく、おれは知らん。他を当たるんだな」
 ひとりが舌打ちし、最初に口を開いた若い男が踵を返した。三人がそれに続き、アストロへと乗り込む。ドロドロというアイドル音がやみ、ギアが入った。アストロは急発進し、青山通り方面へと走り去った。
 その直後、ぶちまけられた調理器具に混ざっていた携帯が鳴り始めた。拾いあげ、液晶に眼をやる。ヘルスだった。回線を繋ぎ、耳に当てる。
「コックだ」
「コックか?無事か?」
 ヘルスの弱気な声が聞こえる。
「ああ。何かあったのか?」
「あったんだよ。なんか若い野郎が何人かでオレのハウスをぶち壊していきやがった。何か探してたみたいだけど・・・」
「何もされなかったか、ヘルス?」
「持ってるものを全部見せられたよ。恐ろしかったぜ。やくざの下っ端かな、あの連中?」
 私は思わず安堵の溜息を漏らし、いった。とにかく、ヘルスは何もされず、無事なようだ。
「何もされなかったならよかったじゃないか。また六本木に戻れるようになったら長老から連絡が入るから、それを待とう」
「ああ。コックは無事なのかよ?」
「おれのところにも来たよ」
「ええ!?」
 ヘルスが頓狂な声を挙げる。
「段ボールハウスを壊して何かを探してた。もういったがね」
「何もされなかったか、コック?」
「ああ。平気さ」
 その後、長老からも同様の電話があった。同じく若い男たち数名が現れ、段ボールハウスを破壊し、何かを探していたらしい。どうも飯館組の若い連中は、例の顧客リストを求め、六本木のホームレスを片っ端から当たっているようだった。

 

            (十九)

 

 白いレクサスが青山墓地中央交差点を折れ、こちらに近づいてくる。竹久だ。レクサスは私の手前で減速し、停まった。助手席側のサイドガラスが降りる。
「こんな所にいたんですか、北乃さん」
 昼に近かった。赤坂通りの交通量は多い。眼をやると、営業車や二トントラックが渋滞を形成しているのが遠く見えた。
「六本木のほとぼりが冷めるまでの辛抱さ。ここをどこで聞いた?」
「中田です。あの万年巡査ですよ。ここじゃないか、って」
 そうか、と私はいった。
「乗ってください。話があります」
 竹久がいう。私はレクサスの助手席に乗り込んだ。ドアを閉じ、シートベルトを締めると、竹久がギアを入れ、車を発進させる。
「俺の部屋に警察の家宅捜索が入りましてね、北乃さん」
「何?」
 家宅捜索には裁判所の発行する令状が必要なはずだ。警察はそこまでしたのか。
「俺と北乃さんの姿があのマンション近くのコンビニの監視カメラに映ってたとかで。奴ら、どうやらあの店の顧客リストを探してるようです。家宅捜索までするくらいだから、何かとてつもなく大きな力が動いてますよ」
 顧客リストの中にあった警視総監の名を私は思い出した。梅岡高志。確かに、大きな力が動いている。
「持ってるんでしょう?北乃さん?」
「ああ」
 レクサスは青山墓地を抜け、星条旗通りへと入った。
「迷惑をかけたな」
「いえ・・・」
「持っているよ。その顧客リストを。あのときマンションの部屋から持ち帰ったんだ。警察からは電話があった。シラを切ったがね」
「やくざたちはどうです?」
「飯館組の下っ端たちが当たってきた」
「動いてるんですか?」
「そうだ。おれのハウスをぶち壊して探していったよ」
「見つからなかった、というわけですね」
 竹久が前方を見つつ苦笑する。
「そう簡単には渡さんさ。あれは連中にとっては爆弾のようだが、おれにとっては早苗を取り戻す切り札になり得る」
 星条旗通りを抜け、ミッドタウンに近い交差点に至った。竹久は左にウィンカーを出し、信号が青に変わるのを待っている。
 携帯が鳴った。私の携帯だ。ポケットから取り出し、液晶を見る。阿南だった。
「どうぞ。話はそんなところですから」
 竹久がいい、ステアリングを切った。
「元気か、北乃さん?」
 阿南がいった。
「なんとかね。六本木を追い出されて大変だったが」
「それは災難だったな」
 私は続けた。
「災難は続いたよ。飯館組の下っ端たちがおれの段ボールハウスをぶち壊していった」
「そうか」
「何かを探しているみたいだったが」
 阿南が含み笑いを漏らした。
「北乃さん、あんた、こちらが何を探してるかわかってるんだろう?」
「さあな」
「これでもとぼけていられるか?」
 阿南の声が遠ざかる。代わりに聞こえてきたのは、早苗の声だった。
「おじさん・・・」
「早苗か?」
「うん」
「無事なのか?」
「大丈夫だよ・・・」
 また声が遠ざかる。
「そういうわけだ、北乃さん」
 車は乃木坂を下り、赤坂通りにぶつかっていた。左側に乃木坂トンネルがぽっかりと口を開けている。
「明日の夜十時、晴海ふ頭で待っている。例の倉庫があった場所だ」
 切るように、短く阿南が告げる。私は訊いた。
「早苗を連れてきてくれるんだろうな?」
「それは約束する。あんたが持っている顧客リストと交換だ」
「それまで早苗には手を出すな。さもなきゃ、書類を燃やしてしまうぜ」
「大丈夫だ。それより、その書類は確実にあんたが握ってるんだろうな?」
「ああ。ある場所に隠してある。手に入れてどうする?聞く話じゃ、警察があんたらやくざを使っているらしいが」
「警察に渡すつもりなどないさ」
 苦笑する阿南の鼻息が聞こえた。
「あれは警察機構にとっては爆弾だ。強請るのさ」
 乃木坂トンネルを抜けた。トンネルの中でも電波は途切れない。私の仮住まいのある中央交差点が遠く見える。
「忘れるな。明日の十時だ。晴海ふ頭の倉庫。それじゃあな」
 回線は一方的に切れた。竹久がちらちらとこちらを好奇的な眼で見ている。

 

              (二十)

 

 霧雨が舞っていた。
 廃倉庫の脇に見憶えのあるサバ―バンが停まっている。阿南たちか。だが、人の気配はない。ポケットから携帯を取り出し、時刻を確認する。夜の九時半になっていなかった。
 竹久から借りたローレルを停め、車から降りる。歩きで敷地へ踏み入ると、何かが焼け焦げる臭いがした。私が燃やしてしまったキャンピングカーだろう。サバ―バンへと足を進めると、廃倉庫の中が眼に入った。焼けたキャンピングカーが、尻をこちらへ向けて佇んでいる。
 サバ―バンへと歩み寄った。やはり無人だ。運転席にも助手席にも人の気配はない。車体後部へと回る。観音開きの扉が現れた。施錠されていない。ノブを握り、引くと、ドアは簡単に開いた。
 初めに、脚が見えた。濃いすね毛に覆われている。ドアをさらに開いた。脚から胴が見え、闇夜の中、全貌が現れる。
 死体だった。眼を凝らす。飯塚だ。クスリを持ち逃げしたまではいいが、ついに捕まったらしい。胸から下腹部に雑な縫合痕がある。内臓をくり抜かれたようだ。見ると、閉じられた両の瞼から血が流れ、それが乾いている。
 飯塚の死体は人ひとりがようやく乗るほどの小さな手術台の上にあった。車内には医療器具らしき様々な物品が乱雑に置かれている。
 不意に閃光が私の眼を射抜いた。ヘッドライトだ。飯塚の死体が照らされる。憐れな最期を遂げた中年男の死体が浮かび上がった。
 さらにヘッドライトが続く。先頭は白いセルシオ、続いて敷地へ入ってきたのはゼロ・クラウンだった。二台が停止し。ヘッドライトが落とされる。
 ぞろぞろと男たちが降りてきた。六人ほどだ。まだ若い。私の段ボールハウスを破壊していった若者の姿もある。セルシオからはカンと呼ばれたベトナム野郎、そして阿南が降り立った。
「早いな、北乃さん」
 阿南がいう。まだ十時になっていない。
「早苗はどこだ、阿南さん」
 その姿がなかった。皆が成人した男たちだ。阿南が剣呑な笑みを浮かべ、口を開いた。眼が笑っていない。
「北乃さん、こちらとしてはまだあの女の子に働いてもらいたい。おとなしく名簿をこちらへ渡してくれると、あんたも無事でいられるんだがね」
 男たちが一歩、私へと迫る。訊いた。
「なんだ、こいつらは」
「飯館組の若衆だ。うちの傘下でね。こちらとしては、女の子を渡すことなく名簿も欲しい。わかるね、北乃さん」
「話が違うぜ」
 私は吐き出した。顧客リストは小さく折り畳み、履いている拾ったジーンズのバックポケットに入っている。
「俺はやくざだ、北乃さん。常にフェアとは限らない。時には暴力にも訴える」
「さっさと出したほうがいいぜ、おっさん」
 若者のひとりが忠告した。別の若者も口を開く。
「痛い思いをしたくなきゃな」
 得物は持っていない。皆が丸腰に見える。だが、懐に何を隠しているかわからない。そしてこの人数だ。腰の文化包丁を抜いても、とても敵わないだろう。阿南の隣に立つカンは無言だった。鋭い視線を私に送っている。
 その視線が、敷地の入り口へと向いた。私も釣られ、そちらへ視線を移す。エンジン音が近づいてきていた。次第に大きくなる。ディーゼルの音だ。
 ヘッドライトが闇を裂いた。マイクロバスだった。突然現れた闖入者に、皆が眼を奪われていた。灰色のマイクロバスが停車し、中からぞろぞろと男たちが降り立つ。
「コック!」
 闇の中、聞き慣れた声が放たれた。長老だ。
「来てやったぜ!」
 ヘルスの姿もある。六本木で暮らす、ホームレスたちだった。運転席からはスーツの男が降りてくる。竹久だった。
「北乃さん」
「竹久」
 言葉が続かなかった。なぜ私の仲間たちがここへ集まるのか。
「やるぞ!」
 長老が声を張りあげる。
「おお!失うものなんてありゃしないんだからな!」
 別の浮浪者が続く。
「ホームレスを舐めんなよ!」
 皆が箒やデッキブラシといった獲物を手にしていた。全員いる。九人だ。
「声をかけたら長老が皆を集めてくれましたよ、北乃さん。『北乃さんが困ってる』って」
 竹久が得意そうに笑い、上着を脱ぎ棄てる。自身も闘う気でいるようだ。
「なんだ、お前ら!」
「怪我してえかよ!?」
 飯館組の若者たちが凄む。ホームレスたちも負けていなかった。
「怪我なんて飯食ってりゃ治るわ!」
「やるか!?小僧ども!」
 最初に手を出したのは飯館組の方だった。それをきっかけに、大乱闘が始まった。まるで全共闘時代の警官隊と学生の攻防だ。竹久も加わっている。ぶつかり合いは拡散し、敷地のあちこちで闘いが繰り広げられた。
「賑やかだな、北乃さん」
 阿南が周囲を見やり、口を開いた。
「この展開は想定外だが、こいつは手強いぞ」
 カンが一歩、こちらへと歩み寄る。
「知っているさ。この身で」
 私はカンと対峙した。カンが腰から斧を抜く。私もベルトに挟んだ鞘から文化包丁を引き抜いた。
 包丁を左手で逆手に持ち、半身に構える。カンも同様の構えだ。
 靴が飛んできた。前蹴りだ。バックステップを踏み、かわす。
「このベトナム野郎をやっつければ早苗を返してもらえるのか、阿南さん?」
 視界の端で阿南を捉え、訊いた。
「ああ。返す。だが、名簿はこちらへ渡してもらう」
 拳。辛うじてかわし、私は包丁を横へ薙いだ。周囲では乱闘が続いている。あちこちで怒声が挙がっていた。カンが後退し、包丁をかわした。構え直す。カンがじりじりとリーチを詰めてくる。私はカンと互いの動きを探り合いつつ、阿南に訊いた。
「飯塚さんの死体があった。そこのバンだ。内臓を摘出したのか」
 斧が迫る。かわした。包丁を突き出す。カンが身を翻し、それを避けた。伸びた肘をすぐに戻す。カンが一瞬で距離を取った。動きに違和感がある。
 脇腹だ。私の傷と違い、骨は簡単には治らない。あの時折った肋骨がまだ治っていないのだ。カンの動きは、その肋骨を庇い、私の肋骨への攻撃を警戒する動きだった。
「覚醒剤を持ち逃げしたんだ」
「知っているさ」
 回し蹴りが飛んでくる。一瞬、カンの脚が私の視界を塞いだ。身をかがめ、それをかわす。続いてさらにソバットが飛んできた。中段だ。包丁を握った右腕で咄嗟にブロックする。
「血眼になって探した。傘下の組を総動員してな。まだ東京にいたよ。クスリを金に変える先を探していたようだ。始末して、有効活用させてもらったよ。内臓から角膜まで。これから海に棄てるところだった」
 息が切れてきた。カンも同様だ。私のこめかみに汗が伝う。
「和田と羽賀は」
 私は拳を突き出し、訊いた。カンの斧が月明かりを受け、妖しく光る。「始末した。『ハニートラップ』のことについて知っていたからな。うたう危険があった。あれらも始末して、有効活用させてもらった。うちとしてはずいぶん稼いだよ。三人分の内臓と角膜だからな。今頃空輸されて、現地で移植されてるはずだ」
 カンが腰を捻り、拳を突き出してくる。やはり動きに違和感があった。常に脇腹を庇っている。
「早苗はどうした」
 拳をかわし、カンの脇腹へと拳を放った。カンが咄嗟に距離を取る。眼が見開かれていた。
「できなかったよ、北乃さん」
「何が」
「臓器の摘出さ。俺もやくざである以前に、人だったんだな」
 蹴り。かわされた。さらに逆の脚で蹴る。これもかわされた。
「さすがに子供の眼をくり抜きでもしたら、俺も寝覚めが悪い」
「何をさせた」
 斧が飛んでくる。包丁で受けた。金属と金属の打ち合う音がする。
「働いてもらったよ。『ハニートラップ』でな。まあ、大したことはさせていない。ロリコンの上客がいるらしい。だが、あの店ももう終わりだ。その客・・・先生と呼ばれているらしいが、医者でね。派遣されてきた女の子を犯して死なせてしまったんだ」
 東京湾に浮かんでいた女児の死体。あの話か。
「経営者は木津という。その木津に泣きついたらしい。木津は事態の収拾に奔走したようだが、結局自殺した。収集し切れないと考えたんだろうな」
 拳が飛び、斧が振り降ろされる。ステップを踏み、かわした。一撃でも斧を受ければアウトだ。阿南が続ける。
「顧客の中に警視総監がいる。警察はそれで動いた。警視総監の鶴の一声でな。うちにも依頼が来たよ、北乃さん。顧客リストを回収して受け渡したら、また昔のように仲良くしてやるそうだ」
「昔は仲良くしてたのか、警察と」
 阿南が答える。
「俺がこの世界に入る前さ。暴対法が施行される前だ。互いになあなあでやっていたそうだ。北乃さん、あんたも昔は暴れていたらしいな」
 そうだ。と私は答えた。カンのフック。かわした。周囲の乱闘はまだ続いている。
「少しは有名人だったよな、北乃さん。西京連合の北乃といえば。しかし今はどういうわけかホームレスだ。堕ちたものだな。動きにも切れがない。歳のせいか?」
 それもあるが、やはり長年荒事と遠ざかっていたことが大きいように思える。昔の喧嘩のようには動けない。身体がイメージ通りに動かないのだった。
「しかし健闘するな、北乃さん。このあいだもそうだったが」
 カンが拳を連打した。畳みかけてきている。長期戦を避けているのか。カンの額に、汗が滲んでいた。
 こちらも勝負に出る。執拗に脇腹を狙った。ブロックはしていたが、カンの表情に苦悶の色が浮かんだ。
 ついに拳がカンの脇腹に入った。不気味な感触が私の拳に伝わり、カンが嫌な顔をする。カンが退いた。よろよろと後退し、片膝を割れたアスファルトに着く。その手から、斧が音を立てて落ちた。
「勝負あったな」
 阿南が告げる。
「お前はクビだ、カン。国へ帰れ」
 片膝を着いたまま、カンが首を横に振る。
「カン、もういい。そうしていろ」
 闘いを静観していた阿南が私に近寄ってくる。
「顧客リストを渡すんだ、北乃さん」
 息も切れ切れに、私はいった。
「早苗が先だ」
 阿南が舌打ちを漏らし、踵を返した。セルシオへと向かう。運転席に上半身を入れ、何かを操作していた。
 トランクが開いた。阿南がそちらへ周り、人の身体を抱きあげた。
 小さな身体だった。早苗だ。その身体を抱え、こちらへと戻ってくる。早苗の全身は弛緩し、ぐったりとしている。眼も開いていなかった。
「眠剤で眠っているだけだ。すぐに眼を覚ます」
 早苗の小さな身体を私に寄越す。私は早苗の身体をそっとアスファルトの上に置いた。腰を屈めたまま、ジーンズのバックポケットに手を伸ばす。折り畳まれた紙切れを取り出し、阿南へと渡した。
「早苗」
 軽く頬を二、三度張った。薄く瞼が開かれ、早苗が眼を覚ました。
「・・・おじさん?」
 早苗が呟く。
「ああ。おじさんだよ」
 眼を覚ました早苗に、私は口許が綻ぶのを感じた。

 

             (二十一)

 

 ホームレスたちは皆、ドクの許で治療を受けた。やくざな連中と身体を張って闘ったのだ。無傷でいられるわけがない。ある者は歯が折れ、ある者は眉に傷を負い、全身に痣を作った者もいた。
「久々に運動しちまったな、コックよ」
 顔全体にガーゼを当てた長老がいう。治療の為に髭は剃られ、笑うと顔全体のガーゼがわさわさと動いた。
「すみません、迷惑をかけてしまって」
 私は詫びた。
「いいんだよ、コック」
 ヘルスが割って入る。南斗内科の待合所だった。ヘルスも長老と同じく、顔にガーゼを貼り付けている。
「お嬢ちゃんが無事に戻ってきてよかったじゃねえか」
「その通り。何にも代えられないよ」
 長老がいい、何度も頷いた。
 南斗内科を辞す。階段を降り、少し歩けば吹き溜まりだ。先に治療を終えたホームレスたちが、長老とヘルス、そして私の三人を迎えた。
「大したことがなくてよかったな、長老もヘルスも」
 ある者がいう。私は再び詫びた。
「迷惑をかけました」
「いいってことよ」
 笑うと、ヤニで汚れた黄色い歯が剥き出しになる。
「ところでコック、お嬢ちゃんはどうした」
 長老が訊いてくる。私は答えた。
「施設に預けました」
 あの夜、眼を覚ました早苗を、私はそのまま車で役所へと連れていった。事情を簡潔に話し、引き渡した。早苗が渋々といった様子だったが、私が必ず迎えに来ると約束すると、それを承諾した。
「それで長老、お話があるんですが・・・」
「なんだい、聞くよ」
 場所を変えた。路地をふたりで歩き、ドン・キホーテの裏手に出る。巨大なビルが聳え、陽光を遮っていた。
「早苗はおれが引き取ります」
「そうか。でもどうやって?」
 長老が眼を見開き、首を傾げて見せる。それはそうだ。浮浪者のままでは彼女を迎え入れられない。
「社会復帰しようと考えています」
 長老が微笑み、ガーゼが動いた。
「それがいいだろうね。あんたの腕なら、どこの料理屋でも大歓迎だろうさ」
 そこへ、ヘルスの声が聞こえた。吹き溜まりからこちらへと駆けてくる。
「コック!コック!」
「なんだ、やかましいな」
「まあまあ、長老」
 私が長老を宥めたところで、ヘルスの足が止まった。
「コック。客だ。あんたを探してる」
「どんな客だ、ヘルス」
「ええと、老女っていうのか?若く見えるけど、けっこう歳食ってる。ベンツで来てるよ。銀髪の・・・。なんか外人っぽい顔してた」
 私が吹き溜まりに戻ると、段ボールハウスの脇に、ヘミングが立っていた。銀色の長い髪が風に靡いている。傍らでは、銀色のメルセデスがアイドルしていた。
「乗って。話があるの」
 私は頷き、メルセデスの助手席へと収まった。

 

              (二十二)

 

 店の名は、『ヘム・ルージュ』という。名付けたのはヘミングだった。
「いらっしゃいませ」
 扉が開き、客が一組入ってくる。六本木四丁目、四階建てのビルの二階にテナントとして入居したのだ。学校を終え、私と暮らす広尾の部屋で宿題を済ませた早苗が客を迎える。
「お好きな席へどうぞ」
 私がいうと、客は奥のテーブル席へと着いた。
 早苗が店を手伝うのは、夜の八時までと決めてある。まだ小学校の一年生だ。あまり夜遅くまで使うわけにはいかない。本人は仕事であるエスコート係を楽しみ、もっと遅くまで店に居たい様子だが。
 母親である千穂がどうなったのか、早苗が訊くことはなかった。早苗はあの凄惨な死体を眼にしている。六歳なりに、全てを察しているのかも知れない。
「お飲物からお伺いします」
 メニューを手に、早苗がテーブル席へと近づく。客はスーツを着たサラリーマン風のふたりだった。
「小さいのによく働くねえ」
 片割れがいった。
「八時までですよ。この子がいるのは」
 トラブルはなかった。一度、早苗に酌をさせようとした客を私が追い出した程度だ。カウンターでは、ヘミングがバーボンをロックで飲っている。出資したのも、このヘミングだった。
 私は愛里を保証人とし、広尾に部屋を借りた。2Kの狭い部屋だが、ふたりで暮らすには充分だ。同時に広尾にある施設から早苗を引き取り、今は一緒に暮らしている。
 いつか早苗に訊いたことがある。『ハニートラップ』で何をさせられたかを。正直にいってごらん。
「あたしね、先生のちんちんをぱくぱくさせられたんだよ、無理矢理」
 早苗は俯き、そういった。
「そうか。もう忘れるんだ」
 私はいい、借りた金で早苗にランドセルを買い与えた。買い与えたのはランドセルだけではない。机、ベッドなど、彼女が当たり前の暮らしを送るための物品を揃えるのに、かなりの金がかかった。店を出すのにヘミングが出資した借金もあり、まわりじゅう借金だらけだ。それだけ仕事に精が入り、客の入りも上々だ。一度など、和洋中とレストランを渡り歩いたシェフの作る創作料理の店として、雑誌で紹介された。それもあり、客足は絶えない。
 そして週に一度、私は店を終えるとあの吹き溜まりへと赴き、残されたホームレスたちのために炊き出しをしている。もちろん、食材は残りものを使って。
店のドアが開いた。
「いらっしゃいま―」
 いいかけた早苗の表情がこわばり、動きが止まった。店の空気が凍りつく。
 阿南だった。
 その日も、ヘミングがカウンターでバーボンを飲っていた。ヘミングからひとつ置き、阿南がスツールに腰かける。
「ビールを」
 阿南が註文したが、早苗は動かない。代わりに私がサーバからビールをグラスに注いだ。
「お料理はどうします」
 私は訊いた。早苗はカウンターを横切り、私の脚に身を寄せている。阿南は酒瓶の並んだ棚の上に置かれたメニューに眼をやり、いった。
「生ウニを」
「ただいま」
 今朝、豊洲で仕入れた食材だった。鮮度は良い。臭みなど全くなかった。皿に盛り、阿南の前へと置く。私は口を開いた。
「ひとつ聞き忘れてましたよ、阿南さん」
「うん?」
 グラスを傾け、阿南が片方の眉を吊り上げた。ひとつスツールを置いた隣では、ヘミングが聞き耳を立てている。
「横田を消したのは侠撰会ですね」
 阿南はこともなげに答えた。
「ああ。実際に手にかけたのは飯館組だがね」
「なぜ消したんです?」
 剣呑な笑みを浮かべ、阿南が答えた。
「奴は知り過ぎた。『ハニートラップ』についてな。あれも有効活用させてもらったよ。今度の件では、うちもかなり稼がせてもらった」
 いい終え、阿南がグラスを干す。
「お引き取りください」
 私はいった。
「ここはやくざ者の来るところじゃあない」
 阿南がウニを一気に食い、スツールから腰を上げた。
「わかったよ」
 釣りはいい、といい残し、阿南が紙幣を一枚カウンターに置き、店を出ていった。
 私の脚に絡みついていた早苗の腕が、ようやく解かれた。
 見ると、眼に涙を浮かべている。恐ろしかったのだろう。
 ヘミングが口を開く。
「ねえ、あんな客、入れちゃだめよ」
 微笑み、ヘミングがグラスにバーボンを注いだ。

 

                    (了)

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