愚親、死すべし

子供を育てる、ということは。
(大して考えもせずポンポコと子供を作り産むバカな親たちに)

1.
ぼくは大学を出ていない。それどころか、高校すら卒業できなかった。
高校を出られなかったのはぼくの責任に違いないのだが、大検(現・高認)を経て大学を卒業できなかったその責の所在はぼくにはない、というのがぼくの意見である。
ぼくの育った家は父親が早逝したために片親であり、兄妹はぼくを含めて三人もいた。そして残ったその母親もこれまた無責任な女であり、子供たちの体がそこそこ大きくなると、「ホレ働け働け自立しろ」といわんばかりに社会へと放っぽり出してしまうような人であった。
とにかく無責任で無能な母親である。夫に先立たれ子供が三人もいるというのに稼ぎというと自分一人がどうにか食えるかどうかといった程度でしかなく、その他は国からの施しと夫の残した保険金をひたすらに食い潰した。
これが「夫に先立たれたあと身を粉にして働き三人の子供を女手ひとつで育て上げ・・・」となれば美談であり、子供たちも美輪明宏のヨイトマケの歌とかを聴いて涙しそうなものだが、現実はそう甘くない。大抵の場合、何も考えずに子供を作り産んでしまう人間というのは無責任な人と相場が決まっているのである。
一体なぜ、とぼくは思う。
一体なぜそんな連中に限って子供を量産し、やがて成長した子供たちが進学を望んでも己の経済力のなさ故それを叶えてやることができず、さほどの教育を受けさせることなく社会へと放り出し、そして放り出されたその子供たちも高度な教育を受けていないために所得水準が伸びず、またその子供たちに教育を受けさせてやれない、といった負のスパイラルへと陥ってしまうのだろうか。
一体なぜその負の連鎖が断ち切られることなく延々と続くのだろうか。

2.
ぼくは経済的な事情で大学を除籍処分となった。
それでもこの大都会において大卒というのはデフォルト、つまり「大学くらい出ていて当たり前」といった風潮があり、事実として人並みの評価を得たいならば自身が高卒だろうが中卒だろうが大学を出ている連中と肩を並べて競争し、闘わなければならない。
自分はどうせ高卒(実際は、ぼくは大検こそ持っているが高校を卒業したわけではないので中卒であった)、と諦観し闘いを避け、教育水準の低い地方へと逃げてしまえば楽だったのかも知れないが、ぼくは育った田舎でかなり複雑な目に遭った過去があり、帰ってゆく場所というのがなく、この大都会で闘う以外に選択肢がなかった。
今どき大学すら出ていない者が、何不自由なく育った大卒連中と張り合うのである。幸か不幸か、社員は皆大卒といった、いってしまえば都内にあるごく普通の会社組織に社員として潜り込むことができたぼくは闘いを続け、一歩も退かず、どれだけ理不尽な思いをしてもファイティングポーズを崩さず、ようやくサラリーマンとしてごくごく当たり前の待遇を手にしたのだが、そこに至るまでに一体どれだけの辛酸を舐めたかわからない。
大学を出られなかったのはぼくの責任ではないのだから、「高卒だから」などといわれて差別され区別されるのは不当であったし、人が驚くような実績を叩き出しても「高卒だから」といわれて正当に評価されないのは理不尽である。悔しく、惨めで、どうにか人並みの暮らしができるようになる頃、ぼくは二十代を終えようとしていた。
ここでふと疑問を抱くのだが、親が無能で甲斐性なしであることが原因で高卒のまま社会に放り出され、つまらん人生を送らざるを得ない人たちは親に損害賠償を求めて訴えを起こしたりしないのだろうか。
たぶんしないのだろう。そんな例は聞いたことがない。そこには親への少なからぬ愛情というのも存在するのだろうし、その親を全面的に敵視することもできまい。また、そんな訴えを裁判所が真に受けるとも思えない。司法を構成する連中は皆それなりに恵まれた境遇に生まれ育っているのだろうし、それこそぼくのような不遇の徒に理解など示さないだろう。
だが、それら諸問題が解決するならば、親に対して親愛もクソもないぼくは声高に訴えを起こしたい気持ちである。親が無能なせいで一体どれだけ悲惨な半生を送ってきたか。
差別され、区別され、不当な扱いを受け、不条理を目の当たりにし、惨めで、悔しい日々を送り、それこそ、できなかった結婚だってあったのだ。

3.
様々な事情があり、今では縁が切れているのだが、まだその縁が辛うじてあった頃、何度か母親がぼくにヒステリーを起こしたことがあった。
子供たちが高度な教育を受けられなかったことをどこかで理解しており、その責が自身にあることもわかっているようなのだが、それを絶対に認めない。大学なんていかなくても四民平等、などというのが母親の口癖であり、論破せんとぼくが挑みかかると声を裏返させて、「だってしょうがないじゃん!」などと叫ぶのである。
不思議な論理だな、とぼくは思う。
どれほどの過失を犯し、その結果として何がどうなっても、この人の中では「仕方がない」で済んでしまうのだ。
また、学費によって困窮したぼくが奨学金を受けようと保証人を頼むと、母親は首を横に振った。とにかくこの人は自身が産み落とした歩く負債から逃れたくて仕方がないのだった。
そして、この人に限ったことではないようだが、子供に教育を受けさせられない無能な親というのは、どうも子育てというのを盛大に勘違いしている節がある。
子供というのは食事を与え続ければ自動的に育つというものではない。
時間をかけ、愛情を注ぎ、というのは当然ながら、お金だってかかってくる。簡単にいってしまえば、どこへいってもそれなりに通用する程度の教育を受けさせる、というそれを含めての子育てではなかろうか。
不思議なことに、その辺りを勘違いしている大人に限ってやたらと子供を作りやたらと産み、そして作り産むことで同時に発生する責任というのを取ろうといった考えは持っていない傾向にある。
作りたいだけ子供を作り、育てなくてもよい、となれば、それこそぼくには今ごろ六十人を超える数の子供がいることになるのだが。
概ね、そういった具合に作られ、さほどの教育を受けられずに育った子供というのは大変な苦労を強いられる。
そう、育てられないにも関わらず子供を作り産む、という行為は実に罪深い行いなのだ。

4.
それほど罪深い行為を働いた愚者に、なぜ適用される罰則がないのか、ぼくには不思議でならない。
考えてみてほしい。連中は不幸の種を量産し、そればかりか受け継いだ種をさらに拡散し、ばらまき続けるのである。
ぼくの育った田舎など、その顕著な例だろう。
元々教育水準と所得水準の低い土地であり、そんな環境で育った子供は高度な教育を受けさせてもらえず、都会で勝負するにしても相手にしてもらえないか通用しないかで田舎へと尻尾を巻いて帰ってきてしまい、そんな連中がやがてポンポコと子供を作り産み、これはぼくが知る限りだが、そんな不毛な連鎖を文久の時代とかから延々と続けているのだ。
先日、優生保護法によって不妊手術を強制された被害者団が国を相手どり訴えを、といった報道を見て疑問に思ったのだが、優生保護法があったのに、なぜ劣性迫害法とかが存在しないのだろうか。
かなり過激な書き方になってしまうが、育てられもしないのにやたらと子供を作り、その体が大きくなると教育も受けさせず社会へと放り出すような愚者は易行とはほど遠い位置にあり、まるで害虫のようにただ増えるだけなのだから、増え続ける前にさっさと生殖能力を奪ってしまえばいい、とぼくは考える。
嫌だ、というだろうか。
ならばもっと過激に書こう。
子供を作り産むなら、責任を全うせよ。
要するに、金を作れ、ということだ。
それもできない、というだろうか。
ならば、臓器を売ってでも金を用意しろ。
腎臓を、肺を、角膜を、売ってきてはどうだろうか。
宛てがないというなら紹介するけど・・・。

人の親になるというのは、決してイージーなことではない。
そこには責任というが付随するのだ。
せめて奨学金を受けるための保証人くらいにはなってやってくれよ。

(了)

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