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おばあちゃんとおはぎ

おばあちゃんが亡くなってもうすぐ4年経つ。
社会人になって、初めての仕事にあたふたして、数ヶ月あたふたし続けていたら、おばあちゃんが亡くなったと知らせが入った。

私が当時住んでいた東京から、おばあちゃんの住む神戸へは、飛行機で1時間ほど。空港へ急ぐ時間を入れても2時間ほどで着いてしまう。コロナ禍の在宅勤務真っ只中、上司にメールで頭を下げ、翌日妹と共に飛行機に乗った。

私は、おばあちゃんっ子ではなかった。おじいちゃんっ子でもなかったし、親や叔父叔母がする、俗にいう「大人の会話」を聞いて、よく分かっていないくせにそれに口を挟むのが好きな、ませたクソガキだった。早く大人になりたい、一丁前に場を回して沸かしたい、とまで思っていた。

そんな私を、おばあちゃんはいつも台所に引っ張って、
「あんたは本家の長男の長女なんやから、しっかりせんとあかん。家のこととか、台所のこととか、ちゃんと知っとかなあかん。ほんで、お婿さんはちゃんとした人をおばあちゃんが選んであげるさかい」
と言って聞かされていた。(単純に大人の会話の邪魔すんな、という口実だったのかもと今になって思う)

最初言われた時、クソガキの私はその言葉たちの意味も理解せずに、
「おばあちゃん、神戸の人やのになんで「〜やさかい」っていうんやろ。ここは大阪ちゃうのに」
としか思っていなかったが、言われ続けると次第に「おお、私はしっかりしなければいけないのか、これが大人というものだ…!」と思い始め、届かない背をカバーするべく椅子に立ちながら(直後に椅子に立つなと怒られた記憶もある)台所に入りびたるようになった。大人たちに褒められたかったのもあるが、本当に楽しくて料理が好きで、これが今の料理好きに繋がっている気がしている。

今、自分が大人になって振り返ると、口実かもしれないとはいえ10歳にもならない子ども相手にヘビー発言だなとも思うし、今の教育研究者や欧米の研究者などから苦言を呈されそうな気もしているが、言われた本人はケロッとしているので御心配には及ばない。昔はきっとこれが普通だったのだとも理解しているし、おばあちゃんも私を一端の労働力だとはみなしておらず、ただ学ばせようとしていたのだと理解している。

ちなみに、お婿さんの件に関しては、両親や叔父叔母達が、おばあちゃんが言ってるだけで気にせんでいいから、と言ってくれたこともあって、間に受けていたのは小5までだった。
こましゃくれガールの私は、
「知ってるで、『デントウテキカチカン』ってやつやろ。大人も大変やなあ」
と、図書館で借りた本で仕入れた、新しい単語を使って鼻高々に言い放ったのを覚えている。我ながらこうやって文字にすると大いに恥ずかしい奴である。

そんな恥ずかしい過去を持つ私は、おばあちゃんとおはぎを一緒に作るのが大好きだった。お盆とお彼岸は、お年玉がなくてもおはぎがあるから好きだった。

作ると言っても、おばあちゃんが用意してくれていたあんこときなこを、おばあちゃんとご飯を丸めてまぶすだけ。片付けだって、洗い物を手伝うようになったのも、流しに背が届くようになってからだ。『デントウテキカチカン』を偉そうに語る子どもは、楽しい記憶は全て用意してもらっていた事に気づくのに、20年もかかった。

そんなおばあちゃんのおはぎは、いつしかお墓参りやお彼岸に行った父親が、使い捨ての容器に入れて持って帰ってくるものに変わった。私が中学生になり、毎日部活のことばかり考え、高校生になっても変わらず部活に明け暮れるようになったからだ。たまに遊びに行っておはぎがあっても、もう一緒に作るものではなく、おばあちゃんが一人で作ってくれていたものになっていた。すっかりおばあちゃんの背より大きくなった高校生の私が、大皿に並ぶおはぎを10人分の小皿に取り分けながら、
「昔おばあちゃんと一緒におはぎ作ったの、楽しかった。また作りたいね」
と話した時に、覚えててくれたん、嬉しいわぁと微笑んだおばあちゃんの顔が、まだ私の頭に残っている。その時は、当たり前やんと笑ったが、おばあちゃんはどんな気持ちだったのだろう。

おばあちゃんの家から出てすぐの、椿の垣根。歩いて20分ほどのところにある、市場が併設されたスーパーに行く道。私が押す!と何度ごねたか分からない、スーパーのカート。それより好きだった、市場の魚屋さんとのおしゃべり。私が生まれる前におばあちゃんが働いていた豆腐屋さんで木綿豆腐を買って作ってもらった、母は作らない硬めのお豆腐が入った赤味噌のお味噌汁。

いつでも思い出せるおばあちゃんとの記憶。当時は存在すらしていなかった、Google Mapではこれからも見つけられない景色。

一番新しい記憶のはずなのに、棺の中のおばあちゃんの顔は、もう思い出せない。初めて見る、知らないお婆さんが、そこに横たわっていた。遺影はおばあちゃんの写真で、頭ではおばあちゃんのお葬式だということを理解していても、なんだか腑に落ちなかった。ただ冷静に、人が死ぬとはこういうことなのか、と思ったのを覚えている。悲しい気持ちにもならなかったし、涙も出なかった。おばあちゃんっ子だった従姉妹が大泣きしているのを見て、死んでいるのは私の心の方だな、とも思った。

お葬式の翌日、久しぶりの実家で私は一人で時間を持て余していた。両親は確か仕事に行き、妹は東京へ戻った。平日だったので同じ社会人一年生をしている友人たちを誘うこともできず、何しようかと横たわった瞬間、思った。

あぁ、おはぎ食べたい。

私はすぐにiPhoneを手に取り、市内の(と言っても車で1時間弱かかる)有名なおはぎ本店への道を調べた。多くの方、特に西日本の方はご存知だろう、日曜日の国民的アニメの主人公の名前を冠した、あの和菓子屋さんだ。自分で作ろうとは思わなかった。
ただ急に、おはぎをすごく食べたくなったのだった。

東京へ行ってからはほとんど運転しなくなった車を走らせ、私の口は放り込まれるおはぎを、今か今かと待ち焦がれていた。社会人になって手に入れた少しのお金で、あんこときなこのおはぎを急いで買い、お行儀が悪いとは分かりつつも、おはぎ屋さんの駐車場で買いたてのおはぎにかぶりついた。





…違う。

その時、気がついた。私が食べたかったのは、おばあちゃんのおはぎだった。
そして、その味はもう二度と食べられないのだ、とも。
ようやく、涙が出た。
私の心は、死んでいなかった。

大人になって、料理も片付けも一人でできるようになった。そして、大体の料理は作れるようにもなり、パンやケーキ、アイスも作ったりとおばあちゃんとは作ったことのないものまで、作れるようになった。今年の年明けは、おせちも自分で作った。それでも、何度頑張っても、あんこだけは異様に下手くそで、味が違うどころの騒ぎではなく、全く美味しく炊けない。

おばあちゃんの味が、遠すぎる。

『デントウテキカチカン』とかいう単語を覚えて偉そうにする前に、あんこの炊き方を習っておけばよかった。大学院に進んで、英語でいろんな国の学生と議論してるんだとか、東京の新宿にあるデカいビルで働くとか、中東とかアフリカとかに出張するんだとか、偉そうに話すくらいだったら、もう一度おばあちゃんと、おはぎを作っておくんだった。おばあちゃんが作った最後のおはぎは、もう上手に丸められなくなっていて、おばあちゃん悲しそうにしてたのに。美味しいよ、じゃないんだよ。お前が少し早く行って、一緒に作ればよかったんだよ。
私は、おばあちゃんから与えられていたものを何一つ分かっていないまま、クソガキからただの馬鹿野郎になっていただけだった。

おばあちゃん、ごめんね。
それでも、何も怒らずに、うんうん頷いて、好きにさせてくれてありがとう。
(何回説明しても、東京でウエイトレスさんになるんやろ?って言ってたけど…)
結婚も、おばあちゃんが生きているうちにはできなかったけど、素敵な人と出会えて、幸せに過ごしてるよ。(一番気にしてた姓は変えちゃったけど…)

本当だったら、美味しいあんこの炊き方を、夢の中で教えてね。とか言いたいところだが、今まで好き放題させてもらった上にそこまで図々しいことは言いたくない。

自分で頑張って、美味しくないあんこを何度も作っては食べるのだ。下手くそあんこを食べるのは、懺悔みたいなものだと思う。

もしいつか私がおばあちゃんになる時が来て、孫に美味しいおはぎを作ってあげられることができたなら、御の字だと思う。たとえ自分の孫が、私と同じようにクソガキだったとしても、Google  MapやVRじゃ見られない景色を見せてあげられたなら、私のおばあちゃん不孝も無駄にならないかもしれない。私は本当に、最後まで勝手な孫だ。

おばあちゃん、私、頑張っておはぎ作れるようになるね。

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