嫌い嫌いも好きのうち

嫌いな人ほど、詳しかったりする。

嫌いなはずなのに、解像度が高い。

たとえば、嫌いな食べもの。

私の兄は、きのこが嫌い、甚だ。

何がそんなにかと思うが、曰く、
土臭い匂いがするし,味も変だし、食感も気持ち悪い。

酷い言われようだ。

一般的には、そういう見方を改めて、なんでも美味しく食べるように躾けられるし,自分の家庭でも試みられていたが、良い一面もあるのではないかと思うのである。

きのこについて、繊細に感じることができるからこそ、嫌いになる。

嫌いな食べ物が多い人は、食べ物の味や香りや食感に敏感で、繊細な感性を持っているのではないかと考えることもできる。

嫌いのものを無理に克服するのではなく、その繊細かつ類い稀なる感性を大事に待っておくことも必要ではないか。


これは、人を嫌いになる時にも当てはまると思う。

誰かの行動に腹が立つのであれば、自分はその部分を大事にしていることの裏返しと言える。

声が小さい人に苛立つのであれば、自分はハキハキ喋ることが必要だと考えている、といえる。

譲れないからこそ、腹が立つ。

それでも歩み寄る姿勢は大事。

でも、その譲れない部分も持っていたいし,変わりたくはない。

そんな矛盾を抱えつつも、人と歩み寄りながら離れながら、関係を築いていきたい。

なんの話だったっけ。
まあいいや。

この文章が嫌いなら、論理性を大事にしているということだ思う。

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