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心理学と私

 京都の某有名私立大学の心理学部のホームページにおいて、各教員が各々「あなたにとって心理学とはどのような学問か?」という問いに応えている。基礎心理学が有名なその大学で多かった答えは「心理学は心の科学である」という旨のことであった。私は、その答えに賛成する一方で、自分であれば違う答えをするかもしれないと感じる。個人的な事情を含めると、心理学は私のアイデンティティの一部であり、責任の持った優しさであると応える。
 私が心理学にいざなわれた理由は、他にも多く綴ったが、やはり度々感じるのは、冷静な興味関心という以上に、感情的で情緒的な想いにあるように感じる。「思春期にアイデンティティや人生を模索する上で感じた傷や悲壮感を癒したい。同じような傷を抱えた人の苦悩を引き受けたい」そんな想いであった。しかし、心理学においてはそんな想いは重要であると言い難い可能性があるどころか、もはや有害になり得るため、声高に言うことはできない。心理学では何より根拠を大切に、時には実証的に集めたれた数字のデータを、時には先人たちの研究報告を活用して冷静に論じ、主張する。想いや情緒というのは厄介で、それが先行し、目の前の問題を冷静に検討することを見えなくさせてしまいかねない。高ぶる感情を一旦冷静に調整し、学問に臨んでいる。
 そんな私が、苦悩しながら心理学を味わっている一方で、強いアイデンティティを感じるのは、心理学に肌が合う感覚を覚えていると同時に、心理学を介して素敵な人々出会ってきたためだと感じる。ずっと、個人の経験則に基づいた説教を受けることが好きでなかった。「私は乗り越えてこれたんだから、あなたもそれができるはずだ、それができないのは、あなたの怠慢に他ならない」そんな見解に幾度となく肩を落としてきた。個人の経験が一般化されることに頷くことができないし、一般化されたとしてもわたしが例外に当たる可能性が考慮されていない。他者に私自身を断定されるのは、決して快いことでなかった。心理学では、多数から集めた意見を構造化された測定法や分析法にかけて、必要な示唆を得る。他者に働きかける際は、しっかりと根拠に基づいて責任を持った働きかけを行う。発言、特に一般化したことを断言するには、責任を持ちたいと思うし、持つべきと考えている私にとっては心理学が非常に肌が合うのだ。人が人から受ける影響は大きい。自分の言動の影響力に責任を持つのは大切なのではないだろうか。
 また、心理学を学ぶに至って非常にかけがえのない大切な人々に出会ってきた。心理学を学びたいという想いを聞いてくれた心理臨床家、大学の先生、共に心理学を味わう学友。そんな彼らと私たちは心理学を介して出会い、今でも共に味わっている。すなわち私にとって心理学がアイデンティティであるというのは、疑いようがないのだ。
 心理学が科学の一類であることは、もちろん間違いないが、心理学は客観性と同時に主観性を大切にする優しさも同居しているような気がする。心理学の応用領域である臨床心理学は、相談依頼者の悩みを、その人にとっての主観的重要問題であると捉え、引き受けて傾聴・受容する。その中で、個人の経験に基づく根拠のない助言は行わず、先行事例とその人固有の特性を考慮しつつ、責任を持って時間を共にする。社会においては、主観的に重要であると思われる問題や苦痛に冷ややかな眼を当てられることは少なくない。その人の立場や考えによっては、主観的な苦痛や世界が否定しかねない。しかし、心理学がその人にとって内的事実として存在する苦痛を認め、共に同じ世界を見る。冷淡な社会においては、その営みは、人間だからできる優しさを含んでいるように私は思うのだ。
 心理学が比較的主要な学問領域である以上は、ライバルとなる人は多い。志す全ての人が心理学の専門家となり、その称号を得られるとは限らないからだ。私が心理学のアカデミズムに生きられるか今は分からないが、青年期の自己形成を図るこの時期に、心理学に出会えたことが大きな意味のあることであると感じる。

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