【カリスマ考察】天堂天彦と比べる 性と密教史・チベット仏教史の関係
はじめに
この記事は、天堂天彦を推しているヲタクが、素人ながらに必死になって勉強した内容です。
間違った表現・至らない部分があることを前提に、お読みくださると幸いです(。ᵕᴗᵕ。)
仏教全体の流れと天堂天彦の考察
仏教と性の関係性の説明においては、
「初期仏教」「中期密教」「後期密教」「後期密教の消滅」「チベット仏教」と大まかに5つに分けられます。
私がこれを調べて抱いた印象は、天堂天彦の半生を少しだけ覗いた気分だ!でした。
筆者の立場として言及しておきたいのは、天堂天彦は、生まれたときからカリスマであり、密教の信仰者というわけではないと解釈しているので
天彦の行きついた自らの思想がたまたまインド密教と似ていた、と考えています。
初期仏教(⊃密教)と性
ここで、あえて(⊃密教)と表現するのは、仏教の歴史に関係しています。
初期仏教が元となっていろんな宗派が生まれ、そこに密教も含まれるからです。
性に対して真面目に向き合う気持ち
古代インド哲学が、特に仏教に影響を与えた3つの理念の補足です。
①「宇宙」と「自我」が一体になっていることを理解すれば、
「解脱」(永遠の幸せの獲得)が可能という考え。
②呼吸を調整しながら精神を集中させ、
心の動きを止めて「悟り」を得ようとする瞑想法。
ここでは「宇宙と自我の一体化」の為という意で使われます。
③シャクティは、インドの最高神「シヴァ神」の能力といわれています。
資料の通り、性欲に基づく性行為の連想ではなく、性の力に対する尊敬の理念からきています。
初期インド仏教は性に対して真面目に向き合っていました。
天堂天彦とも、考えが似ているな~と感じます。
ん~似てる!
私の考えとしては、天堂天彦には物心ついたときからこういった性に対して真面目に向き合う気持ちがあったのではないかなと予想しています。
だとしたら、すごい子供やな…。
中期密教の危機
なかなか理解されなかった理念
一般庶民からすると、性に対して真面目に向き合い宇宙との一体化を目指そうとする思想は、
高邁すぎてついていけなかったらしいです。
ふみやがこうやって紹介していますが、
こういった部分と似ているなと感じます。
素晴らしいことを言ってんのは、分かる人には分かってもらえるけど
それを心から分かる人ってなかなか居なかったんじゃないかな~と捉えました。
【補足】ヒンドゥー教で注目を集めたシャクティ派
歴史としては、仏教の僧侶がインパクトが大きく分かりやすいヒンドゥー教に流れていく信者を横目に、聖典『タントラ』にある、シャクティ派の教えに目を付けました。
内容は画像の通りです。
これを初めて見たとき、私はこれが
「エクスタシィ~~!」
ってことかなぁ?という印象を抱きました。
しかし、歴史を学んだ先で分かったのは、そんな単純なものじゃなかった…。(私の勝手な解釈と考察の上ではという意味で)
ともあれ、この教えが後期密教に繋がっていきます。
後期密教の理念ごちゃごちゃ編
信者獲得と引き換えに見失った方向性
ここで出てくる「性秘儀」というのが大事なキーワードとなります。
性的ヨーガは、平たく言えば「性行為をすることで宇宙と一体化し、手っ取り早く解脱出来るよ!」という考え方です。
この考えを、後期密教は「性秘儀」というインパクトのある名前を使って庶民を取り込むことにしました。う~ん。
後期密教の見失った方向性を体現しているのが、経典『秘密集会タントラ』です。
これについては…内容を知りたい人だけ調べることをお勧めします。
とまあそんな感じ!
信者を広めるために、主にヒンドゥー教の身分制度にあぶれた人達を救済していく手段を取っていたらしいので…。しゃーなし。
「性秘儀」と経典『秘密集会タントラ』の書き出し
後期密教ごちゃごちゃ編からは、今の時点で出ている天堂天彦の情報と繋がるような、これといったポイントは見つかりませんでした。
繋がりを予測できるものとして、2つだけ丸投げしておきます。
Ⅰ.
Ⅱ.
「性秘儀」「秘密集会タントラ」と
「DSM」《ダイレクトセクシャルミーティング》
↑ これはあんまり関係ないんじゃないかな~と思っています。
天彦に人間としての倫理観は当たり前にあるとして、性においてだとしても一線を引いた倫理観はあると思うからです。
あとはこの後の歴史も、関係ないと思う理由の一つです。
過去に血迷った経験があったのかしら。
ヲタクとしては、それはそれでありです…。
後期密教の消滅
方向性を見失ったまま突き進んで堕落・消滅
分かりやすくまとめると、「いつまでも高邁な思想ばかり説いているようでは信者獲得にはつながらなかった」けど「分かりやすくして世俗的なものに寄り添えば寄り添うほど誤解や悪用などの堕落に繋がってしまった」というわけです。哲学。
これに関しても、今の時点で出ている天堂天彦の情報と繋がるようなポイントは見つかりませんでした。
しかし、当時の心からの密教信者の気持ちを考えると、自分たちが大事にしている本当は気高く優れている思想が、うまく伝わらなったり誤解や悪用されることの悲しみや寂しさが伝わってくるような気がしました。
天堂天彦は、もしかしたらこんなことに近い思いをしてきたのかもしれないという気分になれます。
ぜんぜんなんもない可能性もあるよ!
むしろそっちを望んでいます…。
平和に生きてほしい。
チベット仏教の誕生と教義の捉えなおし
イマジネーションで得る快楽
ツォンカパさんは、後期密教の思想を受け継ぎながらも、「不道徳な性行為は行ってはいけない」という厳しい戒律とその遵守を求める、チベット仏教を開きました。
私の考察としては、これが今の天堂天彦の思想に一番似ているのではないかなと思います。どうかな。
いままで、性行為が手っ取り早いとされていた「実践的な性的ヨーガ」が「観想による性的ヨーガ」へと変化していきます。
観想というのは、心を静めて深く思い入るという行為です。
瞑想とは別物ですが、考察とは関係ないので省略。
これには、イマジネーションが大事…らしい。わからん。
私は、天彦が日々どんなセクシーが生まれるかを探求しているのは、この思想と似ているところから来ているのではないかと考えました。
このイマジネーションから来る快楽が、天彦のいう
「エクスタシィ~~!」
なのかなと考察しています。
エクスタシーを感じるために、イマジネーションを集めているのかも…?
知らんけど。
密教・チベット仏教と性の行き着いた先
密教の人間肯定主義
密教の人間肯定主義ですが、
天彦の思想との関係が密接だなと感じます。
天堂天彦って、密教ほど凄惨じゃないけど空回りしてるんですよね。
だけどこれは、「性の神秘性」に対する畏敬の念と「人間の誰もが持つセクシーの種を掬い取り世界中に解き放ちたい」という天堂天彦の「人間万歳」という考えを象徴するものだと思うんです。
誤解・悪用への諦め
密教史・チベット仏教史を知るにあたって大変参考になったWebサイト、高野山の歴史探索には、チベット仏教のまとめとしてこう書かれていました。
これを読んだとき、真っ先に天堂天彦の下記台詞を思い出しました。
このセリフを初めて聞いたとき、「天彦って悟っているな〜」と思っていました。
自分なりに考察をしてみた結果、割かし実際に人間愛の辿り着く境地にいるんだな~と改めて思います。
チベット仏教の行き着いた先にも
「誤解・悪用どうぞお好きに。でも私たちは、そんな堕落した思想のもとにいないのです」という意思を、勝手ながら感じました。
仏教史、おもしろい!天堂天彦も、おもしろい!
まとめ
ここからは、自分の考察が正しいと信じている前提で話が進みます。
「はじめに」でも書いた通り、天堂天彦の思想が密教と同じというよりは、天堂天彦の生まれ持ったカリスマ性とその生き方が、密教史と似ているよ!ということを伝えたくてこの文章を書きました。
やはり彼は孤高の探究者なので、真の意味で理解をすることは出来ませんでしたが、推しが人間を悟っているのに少しズレている価値観をもった可愛い人だということと、天堂天彦の思考回路が少しだけ覗けたようで面白かったです。
私は天堂天彦を、この記事のようなカリスマ性と、人間性の間で揺れている人だと考えています。(カリスマチャージ!)
ですので、この思想が天彦の人間性の全てではないと思うのですが、少しでも理解につながる参考になればと思います!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?