至福の烙印 を声に出して読む そして、AIなんていらないとと強く思う!      クラウス・メルツ著 白水社刊

至福の烙印 クラウス・メルツ
ヤーコブは眠っている 本来なら長編小説
 
 どこにでもある家族の日常が簡潔な文体でつづられているが、父が癲癇持ち、母が鬱、弟は水頭症、兄は医者のミスで名前が付けられる前に死亡。叔父は変わり者で盗んだ飛行機で事故を起こし死亡。家族の日常と書いたが、それは死と生と病(やまい/障害)が隣り合わせで住んでいる日常である。こうした日常での主人公ルーカスを詩とも思える文で語っている。クラウス・メルツ以外ならとても長い長編小説となったかもしれないが、クラウスは簡潔な文を読者に語る。私は声に出して読む。
  「隣近所の家ではとうに青い山の麓に憩う時刻になっていたが、僕たちは慣れしたしんだ声の反響に耽っていた。
     ロンドンのテオドール・H
     パリのハンス・O
     ニューヨークのハイナー・G
彼らの声色ははるか向こうの広大な世界、遠くの都市とその葛藤をぼくたちの田舎くさい頭の中に形作り、後々まで残る印を刻んだ。・・・」
 イメージが浮かんでくる。あたかも1950年代のスイスの田舎にいるかのように。しかし、私はルーカスではない。テオドールもハンスも知らない。ラジオもほとんど聞かない。そこで読み直す。僕は生まれそこなったヤーコブになって、空からルーカスたちを見ている。このようにして、イメージが次から次に浮かんでくる。著者が何を意図していたかにかんけいなく、豊かな言葉に誘われる。
 これを読んで庄司沙矢香とジャンルカ・カシオーリが演奏する、ベートーベンのヴァイオリンソナタが浮かんでくる。彼らのソナタの豊かな響きは、聴くたびに違って聞こえてくる。何度も聴く。クラウス・メルツも前に行ったり、戻ったり繰り返し声に出す。饒舌ではない、簡潔だが、しっかりした写実で1秒を1年、2年にする。ルーカスは10歳になったり、20歳になったりするが、ルーカスである。
 こんなに何度も読めた本は今まであっただろうか。
 
 ところで、AIがこのような作品を作ることができるだろうか? AIは選別するから、いらないものは捨てるから、このような作品は決して作らない。AIは落ちこぼれや、障害者や鬱に悩む人間や転換の父親や死んで名前も付いていないヤーコブは選ばない。AIは個性的な作品を作った顔をするかもしれないが、AIが作ったものでしかない。彼ら(僕ら)は捨てられる。 僕らは一人一人欠点があり、間違いを犯し、時に夢精でびっくりし、俺は天才だと勘違いし、でもそれでも俺は俺であり、それでいいと思っている。 ヤーコブは眠っているを読んで、AIなんていらないと強く思う。

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