そのい人の名は祈(いのり)  その3 父の書斎 母の裸婦画

私は祈(いのり) 父の書斎 母の裸婦画

伯母が去ってがらんとした部屋の中で、祈は子供の頃見た絵のことを考えていました。絵は2点ありました。「あの絵は私を産んで亡くなった母を描いた絵に違いない。」と考えていました。そしてお腹の子に話しかけました。「私はあなたを産んで必ずこと手で抱くから心配しないでね。」
 
祈(いのり)は子供の頃、子供たちは父の書斎には入らないように言われていたのに、父の作った緑釉湯呑を見たくて、誰もいないときにこっそり入ったことがあります。父が穴窯で作り出す緑色が好きだったのです。そして、ある時父の書斎で1枚の絵を見つけました。それは祈によく似た少女の絵でした。まっすぐ正面を見て、やさしく微笑んでいる少女の絵でした。その絵を見つけてからは緑釉湯呑ではなく、その絵を見るために何度か父の書斎に忍び込みました。そして、戸棚の奥に隠してある別の絵を見つけました。それはもう一つの絵と構図はおなじでしたが少女は裸でした。幼い祈(いのり)でも、少女が恋をしているのがわかりました。祈はそのときとても懐かしく、温かい感情に包まれている自分を感じていました。
 
祈はやさしくいつも遠くから見ているような、父の眼差しの意味が分かったような気がしました。父が祈を見るときは母の文子を同時に見ているのでした。絵を通してしかしらない母文子が、祖父母ふたりに祈の父母として祈を守ることを託したのだろうと思いました。
 
父(祖父)が亡くなったのは昭和18年に入った頃でした。その前の年の12月に、祈の一つ上の兄の英夫がガダルカナルで戦死したという知らせの紙が1枚届いたのをきっかけに体調を崩し、年を越すのがやっとで母の看病もむなしく亡くなりました。父は陸軍士官学校へ兄が入学するのを懸命に思いとどまらせようとしましたが、兄は家族のため国のためにと戦場に向かいました。かつて、父は日露戦争の時に、戦意を鼓舞する歌曲を作曲し評判となったことがありましたが、人を死に追いやるようなことをしたと悔いていました。そして、上海事変の時に、爆弾を抱えて自分を犠牲にして敵陣を突破した3人の兵士がいて、爆弾三勇士として武功を称えられ、多くの有名な作曲家が爆弾三勇士の歌を作曲しました。父にも日露戦争の時のように歌曲を作るようにと要請がありました。父は年のせいにしてもう容易に作曲はできないと断っていました。かつて自分が作った日露戦争の時の曲を兄に弾いて聞かせたこともあり、兄の死は父に大きな衝撃を与えたのでした。
 
父は子供の頃、祈と同じようにアメリカから来た宣教師から色々なことを学びました。その宣教師の影響でヴァイオリンを弾くようになり、東京音楽学校で音楽を学びました。卒業後は作曲をしていましいたが、新しくできた高等女学校の校長から頼まれて音楽と国語を教えるようになりました。そして赴任先で、緑釉陶器をもっぱら作成していた陶芸家に巡り合い、その陶芸家から陶芸を一から学びました。女学校で教鞭をとりながら、時間を見つけて教えを受けていました。陶芸家が身体を壊して陶芸を続けられなくなると、彼が使っていた工房と登り窯を託されました。父はすべての時間を陶芸につぎ込むことはできませんでしたが、陶芸の世界で少しは名を知られるようになっていました。
 
戦争が深まってきた昭和15年頃、軍が薪や炭を優先的に確保し始めたために、登り窯で使っていた薪を手に入れるのが困難となってきました。少しは名を知られてはいると言っても教師と兼業のものに内緒で回してくれるものはおらず、身寄りのいない師匠の了解を得て、窯を崩して元の山に戻しました。手元にあった作品は一部を残し、窯と一緒に山に埋めました。祈りと一つ上の兄は、父の窯入れの手伝いをよくしていたので、窯じまいにも立ち会いました。窯じまいをした後に、祈は父の作った湯呑を一つだけ内緒で掘り出しました。父の緑を手元に置いておきたかったのです。
 
祈は母のことを姉(伯母)から聞いてから、お腹の子供に歌をいっそう歌って聞かせるようになりました。Lavender's Blue は勿論、Annie Laurie、マザーグースの歌などをたくさん歌って聞かせました。英語で歌の意味も話して聞かせました。そして、お腹の子供がLavender's Blueをとても好きで、一緒に歌っていることに気づきました。

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