その人の名は祈(いのり)  その2        祈の娘 父はピアノの音

私は祈の娘
私は敗戦の年の12月に生まれた。父は朝鮮半島の人で2月に召集令状がきて入隊したきりで消息がない。生きているかも死んでいるかもわからない。写真もないからどんな顔をしているかもわからない。父は母が私をみごもったのも知らない。父と母は正式に結婚していないので戸籍には母と私の名しかない。母は父が作曲したというピアノソナタを、産まれたばかりの私に「これがあなたのお父さん」と言って弾いて聞かせていた。そのピアノの音が父である。
 
母は私を妊娠した時に、祖母にすべてを話してどうすべきかを相談した。
「相手はどんな人? なぜ結婚しようとしなかった?」
「子供の父親はお母さまもご存じの鍾泰(ジョンテ)です。彼に赤紙が来て、彼と一緒の時間を持つのが精いっぱいで、結婚を考える余裕はありませんでした。付き合っていることは彼が半島の出身だったので、お母様にもお兄様にも打ち明けることはできませんでした。」
「鍾泰がどういう人間かはわかっています。どこの出身であるかは関係ない。話してほしかったね。」
祖母はしばらく考えて、
「産むつもりだね。ここは空襲の心配に加えて、国防婦人会か何か知らないが人の心の中まで干渉してくる連中が大勢いて厄介だ。避難することを考えねばならない」
母には私を産まないという選択肢はなかった。祖母は結婚していない娘が子供を産むことがどれほど大変なことか良く分かっていたが、それでも相手がどのような人間であろうと、生きていようと死んでいようと、娘のためにどうすれば子供を安心して産んで育てるのによいかを考え、空襲のリスクも比較的少ない呉から少し離れた町に住む母の長姉を頼る段取りをつけてくれた。母が東京を離れてからしばらくして、東京で大空襲があり祖母は逃げ遅れて亡くなった。私は祖母の顔はわからないけど、声はしっかり覚えている。誰も遮ることができない頼りになる強い声を覚えている。
 
伯母の家は広い牧師館で、ピアノが置いてある集会場もあった。叔母の夫の実家は広い農地を持った農家であったが、家業を継いだ伯父の弟が戦死したため、近くの牧師館に住む伯父が牧師のかたわら農業もしていた。呉は軍港であったために、7月に米軍の大空襲があり焼夷弾で呉は火の海となって多くの人が亡くなった。叔母の家は呉市内でなかったために被害を受けることはなかったが、呉市内から多くの人が避難してきて、叔母夫婦は親が亡くなった大勢の子供たちを受け入れて面倒を見た。母も一緒に子供たちの相手をした。全ての子供たちの行く先が決まったのは私が5歳になった頃で、それまで私には叔母のところを含めて大勢の兄弟姉妹いた。
 
広島に原爆が落とされたとき母は叔母の家にいて、8時ごろ北西の方に突然ものすごい音がしたのに気が付いた。爆心から離れていたために直接の被害はなかったが、大変なことが起きたことはすぐにわかった。母は子供の頃からの親友が結婚して広島に住んでいるのが気がかりだった。
(その人の名は祈 その2 祈の娘 父はピアノの音)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?