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【主日礼拝】2024.3.17「栄光を現わす時」

  これは2024.3.17の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】
(旧約)イザヤ書 63章1-9節
(新約)ヨハネによる福音書 12章20-36節

【 説教まとめ 】

  栄光とは、何でしょうか。

  国語辞典を調べると、「輝かしい誉れ」、「名誉」などとあります。また、「幸いを与える光」と説明しているものもあります。

  栄は、榮であり、夜中の警備に用いられるかがり火が語源だそうです。その夜の暗闇を照らす、木が燃えて照らし出す光。それが、栄光の輝きですね。

  では、私たちの求める栄光とは、何でしょうか。

  進学、出世などでしょうか。歴史に名を遺す偉業を成し遂げることでしょうか。

  聖書の中では、『栄光』という言葉がよく出てきます。本日の聖書箇所の中でも、イエスさまが言われていますね。

  父よ、御名の栄光を現わしてください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」

ヨハネによる福音書 12章28節

  栄光とは、ギリシャ語原文では「ドグサゾー」と記され、輝きという意味もありますが、賛美という意味もあります。つまり、神を賛美することが栄光なのです。

  天地を創造された神は、その栄光を隠されていました。私たちには、その栄光が見えずにわからなかったのです。しかし、イエスさまは人としてお生まれになったことによって、その姿を現されました。それでも、私たちは目にすることで逆に見えなくなってしまいました。

  『ヨハネによる福音書』では、イエスさまの行われた数々の奇跡を ” しるし ” と呼びますが、そのしるしは、7つ記されています。ここで「既に現した」と言われる栄光とは、ラザロの復活までの7つのしるしのことです。

  そして、「再び栄光を現わそう」と言っておられるしるしとは、十字架の死と復活のことを言われています。

  来週は、棕櫚の主日礼拝です。イエスさまがエルサレムに入城されたとき、群衆はなつめやしの葉をもってお迎えしました。人々は、イエスさまがローマ帝国を武力によって戦うメシアとして歓迎したのです。しかし、そうでないことがわかると、「十字架につけろ」と叫ぶ暴徒と化しました。

  イエスさまは、罪からの解放の道を歩まれました。そのことで人々は、ますますイエスさまのことがわからなくなったのです。

  このエルサレムに入城された時が、最も栄光を現わされた時のように私たちには見えます。しかし、神さまの目には、十字架への道へ進まれ、復活を果たされることこそ、最大のピークであると言えるでしょう。

  さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。  彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。

ヨハネによる福音書 12章20-21節

  ここで言われるギリシア人とは、ユダヤ人以外の人をさしています。ここでは、異邦人の代表する人たちのことです。その異邦人たちが、「イエスを神であると信じた」ということです。

  これは、異邦人伝道の先駆けを記したものでしょう。しかし、記述としては、イエスと会うことができたかどうかは記されていません。けれども、おそらくイエスさまはお会いになったことでしょう。

  イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。  はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

ヨハネによる福音書 12章23-24節

  種がふえるためには、その一つの種が芽吹き、成長して実をみのらせることによって、多くの命を生みます。これは、十字架の死と復活によって、それを信じる人にイエスさまの命が訪れることを言われています。

  「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。  父よ、御名の栄光を現わしてください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」

ヨハネによる福音書 12章27ー28節

  十字架の死は、主イエスであっても心を騒がせることです。平常心ではいられない出来事です。そのために、イエスさまは祈られます。

  この祈りは、ゲツセマネの祈りと呼ばれます。

  『ヨハネによる福音書』では、ほかの3つの福音書で記されているような、ゲツセマネの園での出来事が記されていません。しかし、ここで十字架に臨むために父に祈りをささげておられています。

  主イエスは、まことの神であり、まことの人でありました。絵画で描かれるイエスさまは、凛とした物静かな印象を覚えますが、弟子たちと宴会を開かれたときは笑顔を見せたでしょうし、ラザロの死には涙を流されました。

  十字架の死に向かう不安と戸惑いを、父への祈りで乗り越えていかれたのです。

  そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

ヨハネによる福音書 12章29節

  イエスさまの祈りに、神は、「再び栄光を現わそう」と答えられましたが、その声は、群衆には聞こえていませんでした。それは、イエスさまを信じるものだけが聞き取ることができたのです。

  わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

ヨハネによる福音書 12章32節

  これは、十字架に上げられることと、天に上げられることの2つのことを言っておられます。イエスさまを信じる者は、この恵みを受けることができます。

  私たちの生活の中でも、そうではないでしょうか。

  その時は最悪だった出来事であっても、それがあったから今の私がある、今の幸いがある。「あの最悪の出来事は、神の恵みであったのだ」と振り返ることもあるのではないでしょうか。

  今、私たちはレント(受難節)の中にいます。イエスさまの十字架の苦しみを覚えるときです。3月29日は十字架の死、そして31日はその復活を祝う主日礼拝になります。

  私たちも、主の復活を信じて神の恵みにあずかりたいですね。

  主イエスに、神に、聖霊に栄光がありますように。

  お祈りをしましょう。

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