【説教16】2024.2.25「私が、それである」
これは2024.2.25、おもに子どもとその保護者が参加する礼拝で、ね羊さんがお話しした全文です。
"目が開かれること"について御心を深めていきます。その中で、『旧約聖書』における神の国の隠された教えの受け取り方についてふれています。そして、生活の中でイエスさまが御言葉を語られていること、天の父が求めておられる霊と真理による礼拝について、お話ししています。
本文では、『聖書協会 共同訳』を引用しています。
【 聖書箇所 】
【 説教要約 】
【 説教 】 約19分30秒
こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。
本日のお話でイエスさまは、生まれつき目が見えなかった人をいやし、その人の目は開かれます。
“ 目が開かれる ” と、私たちはどうなるのでしょうか。そして “ 目が開かれる ” とは、どういうことでしょうか。今日は、このことについて、御心を深めていきたいと思います。
『福音書』の中でイエスさまは、手や足の不自由な人をいやしたり、病気を治したり、死んだ子どもを生き返らせたり、水をぶどう酒に変えたり、パンを裂いて5.000人に与えたり、さまざまないやしの業、奇跡の業を起こされます。
これらのことについて、あなたは、どのように思いますか?
「どのように思いますか」というのは、「この聖書に記された出来事が、歴史的に現実に起こった出来事であると、信じますか」ということです。
いきなり、このようなことを言われると、少し困ると思うのです。何に困るのかというと、「どの程度、受けて入れていれば、信じたうちに入るのだろうか」ということに、みんな困るのです。
私も、それに困っていました。しかし、私はあるときに、その悩みが解決しました。それは、洗礼準備会で牧師とお話していたときです。
洗礼を受ける前に、牧師としっかりお話しすることができる楽しい時間があります。その中で、『福音書』を少し読み深める時間があります。
そのときに牧師から、「あなたは神を、イエスさまを信じますか」と、ふいに問いかけられました。そのとき、私は言葉につまりました。
それは、「私はまだ聖書のこともよくわかってないし、教会生活も短い。それで信じたと言えるのだろうか」という不安があったからです。
その迷っている姿を見て、牧師はすぐに、「あなたはイエスさまを信じたいと思いますか」と問いかけられました。それには、はっきりと、「はい、信じたいと思っています」と答えることができました。
今はもうはっきりわかったことですが、「信じたい」ということは、「信じている」ことと同じです。
信仰の賜物を与えてくださるイエスの霊がなければ、この神の霊感によって書かれた聖書の言葉を「信じたい」とは言えません。
だから、恐れることなく「私は聖書の言葉を信じたいと思っているから、聖書に興味があるから、主は私と共におられる」と答えてください。
主イエスも、「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われます。神の声を聞き分け、この礼拝に招かれたあなた、ライブ配信を通して神の言葉を求めておられるあなたと共に、主はおられます。
あなたに、もう一度、問いかけます。あなたは、この聖書に記されているすべてのことを信じたいと思いますか。
「信じたい」ということ、「そうであればいいな」と思うことは、もう「信じている」ことと同じです。
さて、本日の聖書箇所は『ヨハネによる福音書』9章のお話です。読み上げたのは、その後半の一部の内容ですが、ここまでにいたる経緯を少しお話します。
生まれつき目が見えなかった人がイエスさまにいやされたとき、人々は、それを信じませんでした。ファリサイ派たちも、「どうやって見えるようになったのか」と問いつめますが、納得せず、その人の両親を呼び出して、「もともと見えていたのではないのか」と疑います。その両親もファリサイ派を恐れて、「もう大人ですから本人に聞いてください」と、口をつぐんだため、この人は、また呼び出されて、同じ質問で問いつめられます。
それに対し、自分が信じていることは告白したものが、本日の聖書箇所になります。
このお話を読んでいると、私は中学生の頃のお友だちのことを思い出します。
その私のお友だちは、ちゃんと勉強ができるはずなのに、テストの成績が悪いのです。先生からも、「お前はやればできるのに、どうしてこんな点数なんだ」と、いつも心配されていました。
あなたの周りにも本番に弱いお友だちはいたりしませんか。そういう子です。
けれどもその子が、あるとき急にテストの点数がポーンと上がったのです。それで困ったのは、誰だと思いますか。
それは、同じくらいの成績をとっていた人たちです。
なぜかというと、それは、「俺たちはがんばってもできないグループなんだ」と安心していた人たちの中から、がんばってできちゃった人が出てきたからです。
だからそのグループの人たちは、その成績の上がったお友だちに質問するのです。
「よい家庭教師をやとったの」
「塾に通うようになったの」
「よい参考書でも見つけたのか」
「教えろよ」
けれども、その子は、「先生を心配させないように、そのことを考えてテストを受けるようになったら、落ち着いて問題が解けるようになったんだ」と答えたのです。
それにみんなは納得しません。「俺たちに隠れて勉強しているんだ」、「俺たちを出し抜いていい気になっている」と、日をあらため、言い方を変えながら、似たような質問を繰り返すのです。
けれどもその子は、「先生が僕の緊張をほぐしてくれたんだ」としか言わないのです。
「まるで、今日のお話のようだな」と、私は思っています。似たような出来事をあなたも目にしたことがあるのではないでしょうか。
勉強だけに限りませんが、「面倒くさい、面倒くさい」と言っていたお友だちが、急にやりだすことありませんか。
素行のあまりよくなかったお友だちが、「いや~…親を、先生を心配させないために」とか言って、急にいい子になったりすることありませんか。
私はお母さんから言われましたよ、「半年くらい前までは、あんたに口酸っぱくして言っていたけど、この半年は何も言わなかったのに…何で今頃いい子になるの」。
何ででしょうね。
目が開かれても、何かが変わるわけではありません。もともともち合わせていた力を発揮できるようになったとか、言葉に思いが伴うようになったとか、理解でしかなかったことが生活と結びついたとか、これまで見ていたものに対する意識が変えられるのです。
そしてそれは、変えられる前のことも覚えています。
本日の聖書箇所で、目をいやされた人は、目が見えなかったときに見ていたことを話しています。私のお友だちも、できなかったときに「できるようになりたいな」と思って見ていたものについて話をしていたのです。
それは、「イエスというお方のおかげなのだ」、「それは先生のおかげなのだ」という話をしているのです。
『福音書』の中でイエスさまは、いろんなたとえ話をされます。一般的にたとえ話というと、聞いている人が想像しやすいように話されるかりそめの、空想のお話といったイメージがあるのではないでしょうか。
聖書のたとえ話は、そうではありません。
イエスさまのたとえ話とは、神の国の教えが隠されたすべてのことを指します。このことがわかると、聖書の教えが本の中から、あなたの生活の中にあふれるようになります。
なぜならば、「『福音書』の中で語られているイエスさまのたとえ話だけが、たとえ話なのではない」と気づくようになるからです。
この聖書は、神の霊感によって書かれたものです。それはモーセも、ペトロ、パウロも言っていますね(申命18:18、Ⅱテモテ3:16、Ⅱペトロ1:21)。
もし、そのことを信じるのであれば、『創世記』から『ヨハネの黙示録』に至るまで、そこにイエスさまの語られる神の国の秘密が隠されているということですよね。
私たちは、神さまが隠されていることを探し出して、イエスさまが送られた人生の歩みを自分のものにしていくのです。
けれども、「こんなに厚い本を目にすると、ちょっと…」という思いになりがちではあります。だから、少しずつ読んでいきなさい。
いや、私は一気に読みたい。だったら、一気に読みなさい。疲れたら少し休みなさい。
あなたの時を大切にしなさい。
どこで、そのようなことを言われているのですか。イエスさまは、このようにも言われます。
これは、モーセが「カナンの地の支配を広げるときには、一気に全土を侵略しないよ。そんなことをしたら、管理がいきとどかなくて、荒れ地に野盗や獣が住み着いて、前よりひどくなってしまうから、少しずつ少しずつその管理させる範囲を広げていきますよ」ということをイスラエルの民に告げたものです。
さぁ、このカナンの地とは、何ですか。
カナンの地とは、イスラエルの民に割り当てられた土地です。では、今の新しい時代を生きる私たちにとってのカナンの地とは、何ですか。
「あなたたちは神の畑、神の神殿なのです」と(Ⅰコリ3:9)、パウロが解き明かすように、私たちのカナンの地は、私たちの体です。
そうであるなら、モーセの後継者であるヨシュア率いるイスラエルの民が、カナンの地に攻め込むとは、どういうことでしょうか。
ヨシュアとは、イェシュア(ヘブライ語)、イエスのことです。
カナンの地への侵攻とは、イエスが種を蒔きに出かけられたということです。その種とは、「御言葉のことである」とイエスさまは言われますね。
聖書の一つ一つの言葉がカナンの地、あなたの体の中に入ってきて、心の板に記されますよ。だから、「カナン人は女も、乳飲み子もすべて殺せ」。
つまり「目が開かれる度に、聖書の言葉に反する言葉、その思いを見つけたなら、それが弱いものでも、小さなものまですべて取り去りなさい。聖書の言葉と入れ替えなさい」という神の国の隠された教えなのです。
だから、あなたのペースを守って、あなたの時を大切にして、荒れ地ができないように、聖書が嫌になってしまわいように、少しずつ神の言葉をものにしていきなさい。
これが、私が知っている旧約聖書から、イエスさまの教えを受け取るための読み方ですね。
「目に見えない教えのイメージを与えてくれるのが、旧約聖書における一つの働きなのだな」と、私は思っています。
このように、カナンの地は私たちの体、種とは聖書の言葉でありカナンの地に侵攻したイスラエルの民のことを指していたりするのか、カナン人たちは私たちの中で働く神に背く思いや言葉のことなのだな。
ある言葉の裏側に別のメッセージがあります。このように読んでいくことで、裏側にあるメッセージを読み取っていく訓練ができるように、聖書はつくられています(Ⅱテモテ3:16、ヘブライ10:1)。
その訓練を積むと、どうなるのか。
これに対してサマリアの女は、「キリストが来られて一切のことを、私たちに知らせてくださる」と、まだ目にしていないけれども、見ているもの、信じたいと思っていることを告白しました。
するとイエスさまは、「私が、それである」と答えます。
同じように、本日の目がいやされた人にも、「私が、その人だ」と姿を現されます。
【 本日の暗証聖句 】
「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
それは、見えない人は、見たいと願っていたこと、信じたいと思っていたことを、神から目を開かれて、心がとらえるようになるからです。
あなたにもイエスさまは姿を現されます(マタイ5:8、ヨハネ3:19-21、Ⅰコリ2:6-16)。
イエスさまは、「カナンの地への侵攻」という旧約聖書の歴史的出来事から、「種蒔く人のたとえ」の話を話されます。ほかにも探せばいっぱいあります。このように過去の出来事から重要な教えを抜き出して話されます。
ということは、私たちの生活の中の出来事を通しても、イエスさまは、神の国の重要な教えを、たとえ話を語られているのではありませんか。
人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。
すべての出来事の裏側には、神がおられます。
すべての人の口からイエスさまは語られます。
重要なことは、それが良い出来事か、悪い出来事かではありません。その言葉が、神を信じる人の言葉であるか、背く人の言葉であるかも、まったく関係ありません。
私の羊は私の声を聞き分ける。
あなたが神を信じているかどうかが、重要なことです。あなたは、天の父の声を聞き分けます。
霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
今がその時である。
荒れ野の旅の中で、人々がマラでモーセと争ったとき、主は苦い水を甘く変えられ、モーセに、そこで掟と法を個人的に与えられました(出15:22-26)。
モーセにとって、マラは苦い出来事でしたが、それは、信仰を育む頼りとなる神の律法を得るための甘い出来事となりました。
たとえ、あなたにとって苦い経験・体験であったとしても、主の言葉を通してそれを見るならば、それは乳と蜜のあふれるカナンの地、キリストへの成長へと導く甘く豊かな出来事になります(Ⅱコリ3:15-18、ヘブライ12:7-13)。
私たちが寝ていても、覚めてもキリストと共にありますように。仮に私たちが一時、教会から離れることになったとしても、あなたのあるところが神を礼拝する神殿でありますように。そして、まことの信仰者として、再びこの教会に集められますように。
お祈りをします。
【 お祈り 】
天の愛するお父さん、今日も私たちに言葉を超えるあなたの思いを明かしてくださってありがとうございます。
あなたはまどろむこともなく、いつも私たちと共にいて働かれていることを、私たちは知っています。
「今がその時」と言われるあなたの時をしっかりと受け取ることができるように、開かれた目、あなたの恵みを受け取る確かな腕、そして、あなたの据えられる固い土台を歩むしっかりとした足を私たちに与えてください。
すべては、あなたが私たちに与えてくださる子どもたちが、私たちを通して、あなたと強くつながるためです。
あなたのパンによって生かされ、心があなたをとらえることができますことを、何よりも喜び、感謝いたします。
この祈りを私たちの救い主であり、主であるイエスさまのお名前によって、お献げいたします。
アーメン。
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