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【主日礼拝】2024.2.25「信じたい」

  これは2024.2.25の主日礼拝で、H.Y牧師がお話しされたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】
(旧約)列王記下 6章8-17節
(新約)ヨハネによる福音書 9章1-12節

【 説教まとめ 】

  聖書は、信じるとは、見ることと教えています。

  たとえば、英語でseeは「見る」ですが、I seeとなると「わかる」という意味になります。日本語でも「百聞は一見に如かず」と、見ることの重要性を言葉に見ることもできます。

  神がわかるとは、信じることでもあります。

  神は、人の姿でこの世に来られましたが、そのイエスさまを信じない人がたくさんいました。それは、人々がイエスのことを正しく見ていなかった、信じていなかったからです。

  本日の旧約聖書における聖書箇所では、アラムの王と敵対するイスラエルに有益な情報を与えるエリシャを、アラム軍は包囲した場面です。エリシャの従者は、その状況を恐れました。

  するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、  主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。

列王記下 6章16-17節

  エリシャのとりなしの祈りによって、従者の目は開かれ、神の軍勢を見ることができるようになりました。

  さて、本日の新約聖書における聖書箇所でも、生まれつき目が見えなかった人をイエスさまがいやされます。

  このお話では、見ることと、見えないこと。わかることと、わからないこと。信じることと、信じないことについて書かれています。

  このお話を読む前に、その前の一節を確認しておきたいと思います。

  すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

ヨハネによる福音書 8章59節

  真理を語るイエスさまを、ユダヤ人たちは見損なっていました。このように神を見ない者たちからイエスさまは身を隠されて、この生まれつき目が見えない人と出会われたのです。

  ユダヤ人から問いつめられたとき、イエスさまのことがわからないから語ることができませんでした。そしてこのいやされた人は、ユダヤ人の会堂から追い出され、家族からも見放され、村八分のような状況となり、イエスさまと向き合うこととなります。

  また、この人は、罪のために目が見えないのだと言われてきた苦しみの中にありましたが、その中で「神の業がこの人に現れるためである」と言われたイエスさまのことを信じたのです。

  けれども、イエスを知らない。見えない。目が見えるようになりたい。それは、あのイエスというお方を見たいという思いが、ユダヤ人たちではなく、イエスさまのことを信じたのです。

  このお話は、『ヨハネによる福音書』の中で第6のしるしです。これまでも数々の奇跡を起こされたイエスさまのことが弟子たちにも見えていませんでした。それは、なぜでしょうか。

  思い込みが心の目を閉ざしてしまっていたからです。謙虚な心で「信じさせてください」と願う心が、神を見るために重要なことです。

  こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。  そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

ヨハネによる福音書 9章6-7節

  これは珍しいいやしです。いつもは一言でたちまちいやされるものです。これは創世記で土をこねて人を創造されたことを思い出させます。ここでも、同じように、人を創造されたのです。

  イエスは、天地創造の神であり、マリアから生まれ、大工の息子として育ち、十字架で死を迎えられます。そして私たちの主キリストとなられたのです。

  これは霊によらなければわからないことです。

  イエスがわからないということは、神がわからないということと同じです。だから神は、目に見える形でイエスさまを送られました。この独り子を送られたほどに、私たちのことを愛しておられたからです。

  イエスを知ることは、神を知ることです。そして、それは自分自身をしることでもあります。

  私は仕事で渋谷を通りますが、そこでも物乞いをする人がいます。誰も、この人がどうしてこのようになったのか、助けてあげたいなどと深入りしようとはしません。

  哀しいですが、私もその一人です。

  弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」

ヨハネによる福音書 9章2節

  弟子たちは、このような心ない言葉を問います。この弟子たちのように私たちも、自分たちのことがわかっていません。その言葉は、その人の耳にも届いていたでしょう。

  しかしイエスは、その人の心の奥まで見ておられました。神は、このような私たちを愛して救ってくださるのです。

  『使徒言行録』においてパウロは迫害者でしたが、目が見えなくなり、アナニアにいやされたとき、すべてがはっきり見えるようになりました。見えていなかったことを知ったのです。

  それは見えるようになっても、イエスを見なければ、見えるとは言えません。

  本日のいやされた人の洗った池、シロアムとは、『遣わされた者』という意味ですが、霊が遣わされること、つまり、このいやされた人が洗うことは、洗礼を受けることを表しています。

  イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

ヨハネによる福音書 9章35節

  ここで「出会う」という言葉は、原文で「見つける」という意味でもあります。イエスさまは、その人を探し出されたのです。

  ここで言われる「人の子」とは、ダニエル書の言葉から取られた神の子と同じ意味です。その神の子を、いやされた人は「信じたい」と告げたとき、「私がその人だ」と、イエスさまは姿を現されます。

  信じたいという思いを神はご覧になっておられ、そのお姿を私たちの前にも現わしてくださいます。

  お祈りをします。



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