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【主日礼拝】2024.3.24「わたしである」

  これは2024.3.24の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】
(旧約)ゼカリヤ書 9章9-10節
(新約)ヨハネによる福音書 18章1-18節

【 説教まとめ 】

  本日のお話は、ゲツセマネの園でイエスさまが捕らえられる場面のお話です。

  マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書では、イエスさまは園で祈られ、捕らえられますが、『ヨハネによる福音書』では、最後の晩餐において祈りを終えられた後に、ゲツセマネの園に出向いて捕らえられます。

  このゲツセマネの園は、キドロンの谷とオリーブ山の間にあります。ここは、イエスさまたちがいつも礼拝のために集まっている場所でした。

  ユダは、この神を礼拝すべき場所でイエスさまを裏切ったのです。しかし、イエスさまは、礼拝の場所であるからこそ、ここで御心を行われたとも言えるでしょう。

  ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

ヨハネによる福音書 13章27節

  ユダは、パン切れを受け取ると、すぐに夜の闇の中に出て行きました。夜とは、罪が支配する世界のことです。その罪が支配する世界にユダは出て行ったのです。

  マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書では、ユダがイエスさまに接吻をして、ファリサイ派たちにイエスが誰かを知らせました。しかし、『ヨハネによる福音書』では、ファリサイ派たちのほかにローマ兵たちも一丸となってイエスさまを捕らえに来ます。そして、イエスさまは自ら進み出て捕らえられるのです。

  これは、十字架の贖いが神の御心であることを強調するためです。

  ファリサイ派とローマ兵たちは、イエスを捜します。捜すとは、ギリシャ語原文ゼーテイラでは、「救い主を捜す」、「救いとは何かを捜す」という意味もあります。

  人々の願いは、ローマ帝国からの解放でした。しかし、イエスさまは罪から解放するために来られたのです。

  『ヨハネによる福音書』では、捜すという言葉がたびたび出てきます。

  イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、

ヨハネによる福音書 1章38節

  ここで弟子たちが言った「どこに泊まっておられるのですか」という「泊まる」という言葉が「どこに所属しておられるのですか=捜す」という言葉です。

  それに対し、イエスさまは、「来なさい。そうすればわかる」と言われます。それは、これから弟子たちの救いを捜す旅が始まるのです。

  そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたたちは来ることができない。」

ヨハネによる福音書 8章21節

  ファリサイ派たちは、イエスを捜すけれども見つけることはできません。なぜなら、人々はローマ帝国から武力によって解放してくれる救い主を捜すからです。

  しかし、イエスさまは争いによらず、ろばに乗ってエルサレムに入城されました。罪から解放しに来た救い主を捜さなければ、ユダが夜の、罪の世界に出て行ったように、その罪によって死の報酬が与えらえることになります。

  イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。

ヨハネによる福音書 18章4節

  私たちはイエスさまを誰として捜しているでしょうか。ファリサイ派たちのように罪人として捜しているのであれば、救い主を見失うことになります。

  主イエスがわからなくなるということは、自分自身もわからなくなるということです。なぜなら、天地のすべてを創造されたのは、神であられるからです。

  だから、私たちが自分を知るためには、まず神を捜さなければなりません。

  イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

ヨハネによる福音書 18章6節

  この「わたしである」とは、「エゴー エイミ(ギリシャ語)」、「I am(英語)」のことです。これは、『出エジプト記』の中でモーセのもとに神が姿を現されたときと同じ言葉です。

  名は、そのものの本質を表すものです。私たちは、神の姿の全容を知ることはできません。その神の本来の姿を現されたら圧倒されてしまいます。旧約聖書では、神を目にすると死ぬと言われています。

  イエスを捕らえに来た600人は、神の姿に圧倒され、後ずさりして倒れたのです。イエスは、夜の闇にまぎれて逃げることもできましたが、弟子たちの配慮をしつつ、自ら捕らえられようとされました。

  シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。

ヨハネによる福音書 18章10節

  ペトロも、イエスを、罪からの救い主を見失って、剣をもって切りかかりました。それをイエスさまは制して、「父のお与えになった杯は、飲むべきではないか」と自ら捕らえられました。

  この後、マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書では、大祭司カイアファの屋敷に連れられて行きますが、『ヨハネによる福音書』では、カイアファのしゅうとであるアンナスの屋敷に連れて行かれます。

  アンナスとは、大祭司を退いて18年経っていたとも言われ、政治的な力で神殿に影響を与え続けていた大物です。

  シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、  ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

ヨハネによる福音書 18章15-16節

  この記述があるのも『ヨハネによる福音書』だけです。

  これは、ヨハネであると思われるもう一人の弟子は堂々としていたが、ペトロは、おどおどしていたということです。そしてペトロは、イエスの弟子であることを知られそうになると、「違う」と答えます。

  この「違う」とは、「私ではない = I‘m not」という意味です。

  イエスは、捕らえられるときでも、「わたしである」と堂々と姿を現しました。ヨハネも、大祭司の中庭に入っても、イエスの弟子であると堂々としていました。

  しかし、ペトロはイエスの弟子であることはバレバレであるにもかかわらず、イエスを追いかけてきたのに、おどおどして、「私は弟子ではない」と拒んでしまいます。

  私たちも「私はキリストの弟子である」と言えるでしょうか。

  日本でキリスト教徒は、とても少ないです。その中で神を信じるということは、大祭司の中庭に入って行くようなものです。そのようなとき、私たちも、世に対してキリスト者であることを隠しがちになってしまいます。

  ユダのように夜の闇、罪の中に出て行ってしまいます。ペトロのように大祭司の中庭まで来て「違う」と答えてしまいます。

  今日から受難週に入ります。私たちもイエスさまを見失うことなく、イエスさまの復活にあずかることができるように、救い主を捜していきましょう。復活信仰に希望をもって歩みましょう。

  お祈りをします。

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