【主日礼拝】2024.4.7「あなたがたに平和があるように」
これは2024.4.7の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。
【 聖書箇所 】
(旧約)出エジプト記 15章1-11節
(新約)ヨハネによる福音書 20章19-31節
【説教まとめ】
「あなたがたに平和があるように」とは、イエスさまによる平和のあいさつです。
礼拝とは、神との交わりであるとともに、神を中心とした人々の交流でもあります。そのため、「主の平和」、「シャローム」などは、世界的にも交流する際の平和を告げるあいさつでもあります。
イエスさまは金曜に十字架で死なれ、安息日をむかえる前に、人々によって急いで埋葬されました。そして、日曜の朝早くに復活されたのです。
ユダヤ人たちにとっては、日曜は週の初めであり、安息日である土曜日は週の終わりでした。
しかし、イエスさまは日曜に復活され、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と、主の平和を告げてくださいました。そのために、私たちは日曜に礼拝を献げるようになったのです。
イエスさまは、復活された朝に、まずマグダラのマリアに姿を現されました。そのことをマリアは弟子たちに告げ知らせましたが、弟子たちは、主イエスの復活を信じませんでした。
そして、主が復活された日の夕方の出来事が、本日の聖書箇所になります。
弟子たちが福音を宣べ伝えたことで、反ローマ運動が起こりました。しかし、ローマ帝国は、これまでよりももっと大きな武力でこの運動を攻めました。そして、紀元70年に、エルサレム神殿は完全に破壊されてしまうこととなります。
そのため、ユダヤ人たちは『旧約聖書』をまとめ、ユダヤ民族の一致を図ります。これによって異端であるかどうかを明確にしようとしたのです。
日曜を礼拝の日と定める私たちは、土曜を安息日とするユダヤ人にしてみれば、異端ということになります。このため、イエスの弟子たちは、ユダヤ人から迫害され、それを恐れて家の中に閉じこもっていたのです。
また、弟子たちは、ゲツセマネの園でイエスを見捨てて逃げてしまいました。そのため弟子たちが恐れていたのは、ユダヤ人たちだけでなく、イエスを恐れていたこともあるのではないでしょうか。
これはイエスの弟子たちだけではなく、『ヨハネによる福音書』の読者たちの心の状態でもあるのです。そして、それは、私たち自身についても言えることではないでしょうか。
私たちも神を信じているのに、偽っていることもあるのではないでしょうか。イエスを信じているのに、世に隠れ、信仰者であることを表すことが困難に感じていることもあるのではないでしょうか。
主イエスは、復活の40日後に天に昇っていかれます。そのお体は、これまでとは異なり、復活された体です。復活の体とは、栄光の体、霊の体です。
この体は、主の激しい愛を現しています。
イエスは、鍵のかけられた家の中に現れました。どんなところへでも、厚い壁の中であったとしても、私たちを捜して、見つけてくださいます。
イエスさまは、裏切って逃げた弟子たちにうらみを告げるのではなく、「平和があるように」と、平和を約束してくださいました。
イエスさまは、手とわき腹に空いた傷口、弟子たちの裏切りを示されて、そのうえで、平和を告げられました。
だから、弟子たちは喜ぶことができた。
私たちも喜ぶことができるのです。
イエスは、息を吹きかけて聖霊を与えてくださいました。これは『ヨハネによる福音書』のペンテコステと呼ばれています。
伝道をすることで、主の働きを知ることができます。イエスさまは、「今、あなたが受け取った喜び、福音を、ほかの人々にも告げ知らせなさい」と言われたのです。
罪からの解放を告げ知らせる権限と、その喜びを告げる喜びを享受する喜びを与えてくださいました。
これらの出来事によって、初めての復活の日曜が終わりました。しかし、トマスは、その時その場にいなかったため、復活の主を信じませんでした。
これは翌週の日曜の出来事です。なぜ、弟子たちは、また鍵をかけて閉じこもっていたのでしょうか。復活の主の喜びは、どこへ行ってしまったのでしょうか。
はっきりとしたことは、わかりませんが、これについては、2つの説があります。
それは、①閉じられた戸とは、トマスの心を表しているということ。そして、②ほかの弟子たちがトマスのために、自分たちの体験を再現しようとしたのではないかということです。
私たちも日曜は教会の中で主イエスを待ち望みますね。
しかし、教会は主イエスを信じない人も来てよいのです。信じるようになるために来てほしいのです。主を待ち望むあなたに大いなる祝福がそそがれます。
お祈りをします。
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