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【主日礼拝】2024.4.14「破れない網で」

  これは2024.4.14の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。


【 聖書箇所 】
(旧約)イザヤ書 61章1-3節
(新約)ヨハネによる福音書 21章1-14節


【 説教まとめ 】

  『ヨハネによる福音書』は、本来は20章で完結しているお話でした。それは、20章の最後に「本書の目的」と小見出しが記されていることからも、わかることです。

  聖書は、古い本であるため、原本というものが存在しません。数多くの写本があるだけです。この写本を読み比べて、より古いものが原本に近いと判断されてきました。

  しかし、聖書の原本と呼べるにふさわしい時代のものに記されてはいなかったものの、それに準ずるカタチで尊重に値すると判断された記述は、例えば、『マルコによる福音書』16章9-20節に見られるような、カッコ書き〔  〕がつけられて、聖書に記されています。

  ところが、本日の聖書箇所では、そのカッコ書き〔  〕がありません。それは、この『ヨハネによる福音書』21章の記述が欠けている写本が存在しないからです。つまり、この21章は、限りなく原本と同じ時期に記され、聖書そのものとして扱っても遜色ないと判断されているからです。

  それでは、本日の聖書箇所を見ていきましょう。

  その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。

ヨハネによる福音書 21章1節

  ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖のことです。ティベリアスとは、アウグストゥスの後、2代目のローマ皇帝の名前です。イエスさまが伝道をされた時代は、この皇帝ティベリアスの時代でした。

  この皇帝に気に入られるために、人々は、ガリラヤ地方の主都ティベリアスを建設し、そのガリラヤ湖もティベリアス湖と呼ばれるようになったのです。

  シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

ヨハネによる福音書 21章3節

  さて、20章で復活のイエスさまと出会った弟子たちは、伝道のために出ているはずです。しかし、なぜ、この21章では、漁をしているのでしょうか。

  これは、伝道という漁をしているということです。イエスさまがペトロたちを弟子にされたときに、「人間をとる漁師にしよう(マタイ4:19)」と言われた言葉が思い出されますね。

  この時代、キリスト者たちは、ローマ帝国とユダヤ人の両方から迫害を受けていました。その迫害に負けて、信仰から離れてしまう者たちも多くいました。

  教会の主流は、ペトロの教会でしたが、『ヨハネ』と題される聖書各巻は、ゼベダイの子ヨハネを尊重するヨハネ教会・ヨハネ教団と呼ばれるものたちによって書かれたものです。

  この教団は、ペトロの教会も尊重しつつ、聖書の記載の中では、「ペトロともう一人の弟子」といったように、まるでペトロとライバル関係であるかのように記されています。

  しかし、『ヨハネの手紙』の中でも読み取れるように、「ヨハネ教団は、にせ教師と呼ばれるものたちの介入によって次第に勢力が弱められ、ペトロの教会と合流していったのではないか」と言われています。

  そのため、21章のつけ足しは、こういった事情が関係しているのではないかと言われているのです。

  本日のお話の中で、多くの魚を捕らえて引き上げられた網は、破れることはありませんでした。この破れない網の中で、「ペトロとヨハネが一つになっていく」と、そういった事情がうかがえるのではないでしょうか。

  これによって、『マルコによる福音書』をベースにして、4つの福音書が記されました。共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)と、『ヨハネによる福音書』です。

  この4つの福音書によって、あらゆる角度からイエスさまの伝道を知ることができます。

  既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

ヨハネによる福音書 21章4節

  夜とは、ローマ帝国による支配された世のことです。ユダの裏切りが起こった夜です。イエスさまが捕縛された夜です。

  しかし、イエスさまは、ピンチをチャンスに変えられます。

  この世を支配しているのは、誰でしょうか、何でしょうか。

  人でしょうか。ローマ帝国も、皇帝も滅んでしまいました。では、政治でしょうか。経済、軍事力が支配しているのでしょうか。

  夜とは、罪の支配する世界のことです。

  弟子たちは、岸に立っておられるのがイエスだとわかりませんでした。それは、伝道の中で、イエスを信じられなくなったということです。

  イエスは、いつから立っておられたのでしょうか。

  きっと、夜通し立っておられたのでしょう。そのことに弟子たちは気づいていませんでした。

  私たちは、イエスを見れば信じることができるのでしょうか。

  見ても信じることはできないでしょう。なぜなら、私たちは、世の支配する力の方を見てしまうからです。

  イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。  イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。

ヨハネによる福音書 21章6-7節

  弟子たちは、イエスの姿がわからなかったが、御言葉・証言によって知ることができました。

  このときペトロが上着をまとったのは、創世記の出来事を振り返るものですね。「裸同然だった」とは、アダムが神を信じられなくなったことと同じように、ペトロもイエスさまを信じていなかったことが恥ずかしくなったということではないでしょうか。

  神は、そんなアダムにも、ペトロにも上着をかけてくれました。証言は、証しは、人を生かすのです。

  イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。  シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

ヨハネによる福音書 21章10-11節

  ここで ” 魚 ” とは、ギリシャ語で「イクスース」と記されています。それは、「イエス・キリスト」、「神の子」、「救い主」の頭文字をつなげた言葉だと言われています。

  そして153という数字は、諸説ありますが、当時知られていた魚の種類の数ではないかと言われています。魚とは、世界の人々のことです。それが網、教会に集められるということですね。

  そして、その教会には、どんなに多くの人々が集められても、破れることはありません。

  イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

ヨハネによる福音書 21章13節

  イエスは、先ほどから弟子たちのそばにおられたのに、「来て」と記されています。これは聖餐を表しています。聖餐は、世界で行われています。

  5000人の給食のように、どれだけ多くの人々がイエスさまのパンを裂き、ぶどう酒を飲んで、その恵みにあずかっているのです。

  イエスさまは、十字架の死と復活を通して、私たちお体の中に来て、今も生きてくださるのです。

  お祈りをします。


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