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【説教06】2022.8.28「大胆に神に近づく」

  これは2022.8.28に、” 封印の巻物を開くこと ” について、子どもと大人が参加する礼拝で、私がお話したことです。

【 聖書箇所 】

  そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、  彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」

ヨハネの黙示録 5章9-10節

【 説 教 】 約15分30秒

  今日の聖書箇所は、『ヨハネの黙示録』です。この中では、幻がたくさん飛び交います。これは一体、何なのか。そして、「イエスさまが開かれる巻物とは、何なのか」について、御心を深めていきたいと思います。

  『ヨハネの黙示録』の内容を、おおまかに話をすると、「地上に御国が降りてくる前の7年の間に、これまでにないくらいキリスト者は迫害されます。そして、信仰から引き離そうと惑わす者たちもいっぱい出てくるから気をつけてね」という話です。その中で、最終的に不信仰な人たちが裁かれる姿が描かれています。

  あなたは、『ヨハネの黙示録』を読んだことがありますか。読んだことない人は、お話を聞いているうちにだいたいの雰囲気がわかりますから安心してください。

  読んだことある人は、どう思いました。「これは何て希望にあふれる書だ」と、喜びに満ちあふれましたか。はじめて『ヨハネの黙示録』を読んで明るいイメージを受ける方は、そうそういないのではないかと思います。

  罪人の頭である私も、これをはじめて読んだとき、「怖いな」とか、「こんな目に遭いたくない」とか、「これ本当だったらどうしよう」と思いながら読んでました。あとになって気づいたのですけれど、それは「自分に関係あること」だからです。


  例えば、みなさんは熟とか、習い事とか忙しいので、もしかしたら学校で宿題や課題は、あまり出ないかもしれないのです。けれど、私の子どもの頃は、「今日の授業の確認だ」と、先生がいっぱい宿題を出してました。

  それで次の授業のときに、「授業を始めます」「よろしくお願いします」と授業の始まりのあいさつをした瞬間に、先生が「おい、宿題を出してたけど、やってきたか」と先生が言うのです。

  すると、私なんかはドキッとするのです。なぜかというと、それは私に関係のある言葉だからです。

  そのような時でも、正しい人たちは、モーセが顔と顔を合わせて神と語り合ったように(出34:29,34)、主なる先生の目を見て、「はい、やってきました」と言えるのです。

  しかし、そうでない人たちは、アダムの息子カインのように、「どうして顔を伏せるのか」と言われるのです(創世4:6)。


  『ヨハネの黙示録』には、こういった顔を背けたくなるような話がいっぱい出てくるのです。では、『ヨハネの黙示録』は、何を目的として「終わりのとき」が私たちに示されているのか。

  聖書の中にも、これと同じ状況に立たされた人がいます。それは、誰ですか。

  『ダニエル書』に出てくるバビロンの王ネブカドネツァルです。

  ネブカドネツァルは、夢を見て、その解釈を求めます(ダニ2:27-45)。そのときダニエルだけが解き明かすことができました。

  そしてダニエルは、「これは終わりの日について示されたことです」と言って、夢の解き明かしをする前に、その夢が示された理由を説明するのです。

  その解釈が王様に告げられることによって、王様がご自分の心にある思いをお知りになるためです。

ダニエル書 2章30節

 「あなたの見た夢の意味は、こうです」と示されたときに、「あなたはどのように感じましたか」、「どのような思いがあなたの中にあることに気づきましたか」、そして「感じたこと、気づいたことから、何か自分の中で見直すことがありそうですか」。

  それを浮き彫りにするために(ヘブ12:27)、「終わりのとき」が示されているのです。

  『ヨハネの黙示録』には、神の罰を受け火の池に投げ込まれるものと、御国で神と共に永遠に生きる幸いを受けるものとが出てきます。これをはじめて読んで、あんまりよいイメージをもてない人が多いのは、なぜか。

  それは、「今、御国が来たら自分は裁かれる側なのではないだろうか」という思いを抱いて読んでいるからです。なぜ、その立場で読んでしまうのかは、この先の話を聞いていくとわかります。

  そしてそれは、「どうして神は、何度も何度も私たちを赦してくださるのか」、その救いにつながってきます。そうやって心を揺さぶることで、畏れをもって神の言葉に耳を傾ける心を(箴言9:10)、『ヨハネの黙示録』は強制的にととのえてくれるのです(ヤコ4:9)。

 どうして私たちは、このような思いを抱かないといけないのでしょうか。

  モーセたちイスラエルの民は、聖なる民だと集められて、神から何を受け取りましたか。十戒、律法、掟を受けて、「守らなければ殺すぞ」と言われたのです(出20:5-6)。

  そのとおりになりました。

  聖書は、聖なる書物と言われながら、聖なる民が裁かれてばっかりいませんか。これ、本当に聖なる書物ですか。

  モーセの荒れ野の旅でも、親の世代はすべて滅ぼされて(民数14:35)、ヨシュアとカレブ以外は子どもの世代がカナンの地に入ります。

  なぜ、彼らは裁かれたのですか。どうして、聖書には聖なる民がこんなに裁かれる姿が描かれているのか。

  パウロは、こう言います。

  これらのことが彼らに起こったのは、警告のためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちを戒めるためだったのです。

コリントの信徒への手紙 Ⅰ 10章11節

  聖書は、『戒めの書』とも言われます(出20:20)。つまり、「私のやりそうな不信仰なことをやる人々を集めておきました。そして、あなたの代わりに裁いておきましたので、あなたは存分に聖なる民として生きてください」ということなのです。

  「この人たちがやっていることは、自分もやりそうなことだ」、「実際にやっている」と、そのことを受け入れることによって、私たちは、その言葉を神の言葉として受け取る力が与えられます。

  その預言の働きについて、パウロはこのように言っています。

  しかし、皆が預言しているところへ、信者でない人か初心者が入って来たら、  心の秘密が暴かれ、そのあげく、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表すことになるでしょう。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 14章24-25節

  「心の秘密が暴かれる」とは、例えばこういうことです。

  私の母親が、日曜の夕方に「早くご飯用意してゆっくりしよう」と、からあげを揚げてたんです。すると雨が降ってきて、「洗濯物を取り込まなきゃ、火の番してて」と出て行こうとしたのです。私は、「わかった」と言って、からあげの方を見ているのです。

  それを母親は、チラッと横目で見てまして、台所を出て行ったのだけれども、スッと顔だけ戻して、「食べちゃダメだからね」と言うのです。それに対して私は何と言ったか、「えッ、なんでわかったの」。

  人は、後ろめたい思い、心の秘密を言い当てられると、やろうと思っていたことができなくなってしまうのですよ。だから、私はからあげが食べられませんでした。おりこうさんに待ってました。

  ただし、預言の働きは信じる人のためのしるし、「あなた悪いこと考えていたでしょ」、「おっしゃるとおりです」と、その言葉を戒めとして受け入れる人にとって、その人の人間性を養う神の言葉になるのです。

  信じない人は、どうなるのか。例えばこういうことです。私には、3歳年下のかわいい妹がいるのですよ。同じような状況で、その妹がトテトテトテと歩いて来て、「あ、お兄ちゃん、つまみ食いなんていけないんだ」と言われたら、私の対応は、母親のときと同じでしょうか。

  いいえ、違いますね。私は半分の確率で、こう言います、「うるせぇ、おまえ黙ってろよ」。これが戒めの言葉として受け入れない人にとっては、人間性を養う言葉とならないということです。

  それは、なぜなのでしょうか。それは多くの人は、人に力があると思っているからです(Ⅱペテ2:19)。「どの人の言葉を聞こうかな」と、同じ言葉でも、人を選んでいるのです。

  だから例えば、肉の人たちは、近所のよく顔を合わせるおじさんとすれ違ったとき、「こら、きみたちは朝のあいさつをちゃんしなさい」と言われると、「誰だ、おまえは」という気持ちになるのです。

  でも、おじさんの胸に「私は大企業の社長です」みたいなすごいバッジがついてたり、フェラーリなんかに乗ってると、「こら、あいさつだろ」と言われても、「アーメン」となるのです、この人たちは。

  けれどもイエス様は、「私の話した言葉は、霊であり、命である」と言われます(ヨハ6:63)。「言葉は霊だ、言葉は神だ、言葉は命だ、言葉にこそ力があるのだ」と言われます(ヨハ1:1-5,9-13)。

  だから地位も低くて、学も薄くて、貧しい社会的に弱い立場にあるような人を預言者として、肉の王に送るのです。それは言葉に力があるということを知らせるためです。

  さっきの妹に対してもう半分の確立では、どうなるのか。私は、笑顔で「おいで」と妹を御元に招き寄せます。そして、自分がからあげを食べたいところを、まず妹に食べさせてあげるのです。優しいお兄ちゃんですね。それから一言いいます、「おまえも同罪だからね」。

  聖書の言葉を信じるのであれば、私たちは、神か、それ以外かを主人として生きています(マタ6:24)。

  神に従っていないのであれば、それはサタンに従っているということなのです。サタンだって光の天使を装うのですから(Ⅱコリ11:14)、私がよいお兄ちゃんを演じて妹を悪の道に引き込んでも、何の驚くこともないわけです。

  このように戒めの言葉として受け入れない、神に従っていないと、人間性が養われないばかりでなく、「うるせぇ」とか汚い言葉を使って神の預言者を拒んだり、正しい人たちを悪の道に引き込んだりして、別の父の似姿が現れてきてしまうのです(ヨハ8:44)。

  だから、「悪いこと考えてたよね」、考えていたら「そのとおりです」と、認める。「これやったのだれ」、やっていたのであれば、「ごめんなさい、私です」と、認める。「あなたこういうところあるよね」、それを自分も改めたいなと思っていたのであれば、「あります」と認めるということです。

  けっこう厳しいことを言っていると思います。けれども、この言葉を信じてくださるのであれば、悪い言葉から解放されて、何か悪いことがよぎってもやらなくなります。そのうちよぎることもなくなります。

  あなたを戒める言葉を受け入れることで(Ⅰテサ2:13)、あなたの人間性を養い、人生を形づくっていく土台となります(マタ7:14-27)。ただし、どのような言葉にも従うのではなくて(Ⅰヨハ4:1)、権威ある言葉、つまりイエスの正しい言葉に従うのです。

  イエス様が「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われるように(ヨハ10:27)、「どこだ、どこからイエスの言葉は来るのだ」と、常に身構えておく必要があります(ルカ12:35)。それが人をとおして語られる聖霊様の声ですよ(箴言8:1-3)。

  今日の聖書箇所では、イエス様が巻物を開いていますよね。これを、私たちも一緒に開きます(イザ8:16)。ただし、私たちが開く巻物は、この地上で開く聖書です。

  これはイエスさまが開かれている巻物とまったく同じ性質をもっています。

  ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度、現れてくださいました。

ヘブライ人への手紙 9章26節

  ここで、「イエスさまは、世の終わりに現れた」、「世の終わりはもう来たのだ」と言っています。

  どこにきたのですか。

  それは、「イエスさまが私たちの罪を取り除いてくださった正しい主人だ」と受け入れる人のもとに来たのです。

  神を信じる人のもとには、御国は2回降りてきます。一度目は個人的にあなたの心に、二度目は現実に地上に降りてきます。

  パウロは、「わたしたちの戦いは血肉によるものでなく、目に見えない悪霊との戦いである」と言います(エペ6:12)。神は、何度も私たちを憐れみ、慈しんで、赦してくださいます。

  それは、「あなたは悪い人ではない。あなたは主人を間違えている。だから正しい主人に変えなさい」と言われます。これは救いです。なぜなら、正しい主人を見出すなら、私たちは何度も立ち直ることができるからです。

  『ヨハネの黙示録』を読んだときに、「怖い」、「こんなこと起こって欲しくない」と、おののいているのは、誰か(ヤコ2:19)。

  それは、あなたではない(ロマ6:16)。

  あなたを奴隷として従えようとしている偽りの主人が、あなたに耳打ちしている。だから、正しい主人の言葉を聞きなさい(イザ30:15)。聖書は、そう言います。

  それは、こういうことです。「自分はなかなかイケてるんじゃないか」と思ってるときに、主から「すばらしい、もっと近くに寄りなさい」と招かれるのです。

  すると主は光だから、近づくと、見えなかったものが見えるようになるのです。きれいな服を着ていたと思っていたけど、「あれ、こんなところにシミが、しわが、汚れが……ごめんなさい、あなたの前でこんな汚い格好して」と、恥ずかしく思っているだけなのです。

  でも、「いいんだよ、そのために呼んだのだから」ということなのです。そうやって主に目を開いてもらったのだから、「御言葉に洗ってもらいなさい」、「御心をもっと求めなさい」ということです。

  そのような時、「自分なんて全然ダメだな」とか、「うるさいな(これくらいいいじゃないか)」などと、否定的に受け取る偽りの主人の言葉を聞かないで、主から、「もっと近づいていいと許可が下りたことを素直に喜びなさい」ということです。

  それが大胆に神に近づくということです(マル10:50)。

  そうやって、『ヨハネの黙示録』の出来事があなたの中で、個人的に起こります。悪霊があなたの中で踏み潰される。すると、「どうしたらあなたのように心穏やかに過ごすことができるのですか」というあなたの生き方や人間性に惹かれる人たちが出てきます。

  このようにして聖書に従って生きる姿勢を人々に示すこと、それがイエスと共にこの地上で巻物を開くということです。

  個人的に、『ヨハネの黙示録』の終わりのときを起こして、神の兄弟たちに御国を降ろすということです。


  主に近づき、へりくだり、主と共に生きる喜びを知ることこそが、私たちの慎みという聖なる装いです(Ⅰテモ2:10-11)。

  主が、私にも、あなたにも、私たちと交わる兄弟にも輝く上質の亜麻布を送ってくださいますように(黙示19:8)。

  お祈りをします。


【 お祈り 】
  天の愛するお父さん、あなたの言葉を私の心に記してください。私たちが、人の前に弱く、あなたの前に強い者となれますように。

  私たちがあなたの心を正しく受け取ることができるように、イエスさまの学ばれた従順を私たちにも教えてください。そして、初めから聞いたことが私たちのうちにとどまり、私たちの交わる兄弟たちにも満ちあふれますように。

  この祈りを私たちの救い主であり、主であるイエスさまの御名によってお祈りいたします。

  アーメン。

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