『トニオ・クレーゲル』冒頭訳文の差について

小説のキモは、冒頭の一文にあると言っていいだろう。『失われた時を求めて』ではそれを論じるだけでいくつのも論文があるくらいである。『トニオ・クレーゲル』ではどうだろうか。小説の冒頭の一文は、読者にその小説をどのように読ませるか(読ませないか)を決める鍵でもある。

名訳と名高い実吉捷郎・訳はこうである。

実吉捷郎・訳
冬の太陽は僅かに乏しい光となって、層雲に蔽われたまま、白々と力なく、狭い町の上にかかっていた。破風屋根の多い小路小路はじめじめして風がひどく、時折、氷とも雪ともつかぬ、柔らかい霰のようなものが降って来た。

青空文庫

朗読して格調があり、情景も浮かびやすい。が、「僅かに乏しい光」が日本語としてこなれていない印象があり、「層雲」は詩語のように格調高い言い回しだが現代語としてはなじみにくい。「ともつかぬ」も現代では古めかしい。「じめじめして風がひどく」はやや矛盾した印象を与える。

次は現状もっとも新しい浅井晶子訳である。

浅井晶子・訳
冬の太陽は貧弱で、厚い雲の向こうから乳白色ののっぺりした光で狭い町(2)を覆っていた。切妻屋根の連なる通りはじめじめと寒く、冷たい風が吹き抜ける。ときどき、氷でもなければ雪でもない、柔らかな霰のようなものが降ってくる。

光文社

実吉捷郎訳に比べると、浅井晶子訳は用語の選びや語調は現代語的な印象がある。が、「貧弱で、……光で」の構文はややわかりにくい。(2)の注は、リューベックを指し、読者への解説がなされている。全体を3文構成にしている点も注意したい。

英語圏で定番のBayard Quincy Morgan (1883–1967)英訳も見てみよう。

Bayard Quincy Morgan (1883–1967)英訳
The winter sun, only a poor make-believe, hung milky pale behind cloud strata above the cramped city. Wet and draughty were the gable-fringed streets, and now and then there fell a sort of soft hail, not ice and not snow.
(冬の太陽は、貧弱な見せかけでしかなく、窮屈な街の上空の雲の層に背後で乳白色に垂れていた。切妻屋根の街路はどこも湿っぽく吹きさらしで、時折、柔らかいあられのようなものが降ってきたが、氷でも雪でもないのだった。)

1914 英訳

カッコ内の英訳文の和訳は私が行なったが、こうして日本語で読むと、村上春樹の影響がありそうな気がしてきた。Morgan訳では、a poor make-believeに翻訳の工夫がありそうだ。draughtyは米綴ではdraftyであり、現代英米人にも古めかしい印象を与えるだろうが、「隙間風が入る」という語感は生きる。倒置構文もやや硬い印象はあるかと思うが、文学的な印象を与える

さて、原文はどうだろうか?

原文
Die Wintersonne stand nur als armer Schein, milchig und matt hinter Wolkenschichten über der engen Stadt. Naß und zugig war's in den giebeligen Gassen, und manchmal fiel eine Art von weichem Hagel, nicht Eis, nicht Schnee.
(冬の太陽は、狭い街の上方の雲の層の背後で、ただ乳白色で薄く貧弱な光として立っていた。切妻屋根の路地には湿気があり、風が強かった。時折、氷でも雪でもない柔らかいあられが降った。)

グーテンベルクプロジェクト

私はドイツ語に疎いので、カッコ内にわかる範囲で直訳的に和訳を添えた。原文を見ると、冒頭語がDie Wintersonne(冬の太陽)であり、各訳文もそれを踏襲しようと翻訳しているのがわかる。これがstandするが、この語感はこれらの訳文には反映されていないように思える。関連して、nur als armer Scheinは英語なら、only as a poor appearanceなので、冬の太陽が擬人化されみすぼらしい姿で立っている含みが生じる。おそらく、ここは、中世以降のリューベックの衰えを神の衰えに暗示しているのではないだろうか。そして雲の層は天界の層の隠喩かもしれない。

冒頭一文の、文学表現として興味深い点は、これを映画のカメラ・アングルとして見るとわかりやすい。まず、読者は空を見上げる、そして街を見渡す、そして空と街の中間を満たす、氷でも雪でもないという異様ななにかを見せる。

視線の誘導で、ある種の異世界というか、異国情緒を誘う。これは、作品テーマである主人公の異邦人性に対応している。

最後に余興だが、太陽が擬人化されているかもしれないと考えると、こんなふうに訳したくなる。

その狭い街には重たげな雲が覆い、その背後の冬の太陽は、白っぽくみすぼらし光となって立ち尽くしていた。尖った屋根の家が並ぶ路地はじめじめして吹きさらしだった。時折、柔らかいあられのようなものが降ってきたが、氷でも雪でもないのだった。

試み訳

【追記】
コメント欄の tae さんのコメントが参考になります。stand の擬人化はなさそうですね。私の考察はちょっと勇み足でした。

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