『トニオ・クレーゲル』冒頭訳文の差について
小説のキモは、冒頭の一文にあると言っていいだろう。『失われた時を求めて』ではそれを論じるだけでいくつのも論文があるくらいである。『トニオ・クレーゲル』ではどうだろうか。小説の冒頭の一文は、読者にその小説をどのように読ませるか(読ませないか)を決める鍵でもある。
名訳と名高い実吉捷郎・訳はこうである。
朗読して格調があり、情景も浮かびやすい。が、「僅かに乏しい光」が日本語としてこなれていない印象があり、「層雲」は詩語のように格調高い言い回しだが現代語としてはなじみにくい。「ともつかぬ」も現代では古めかしい。「じめじめして風がひどく」はやや矛盾した印象を与える。
次は現状もっとも新しい浅井晶子訳である。
実吉捷郎訳に比べると、浅井晶子訳は用語の選びや語調は現代語的な印象がある。が、「貧弱で、……光で」の構文はややわかりにくい。(2)の注は、リューベックを指し、読者への解説がなされている。全体を3文構成にしている点も注意したい。
英語圏で定番のBayard Quincy Morgan (1883–1967)英訳も見てみよう。
カッコ内の英訳文の和訳は私が行なったが、こうして日本語で読むと、村上春樹の影響がありそうな気がしてきた。Morgan訳では、a poor make-believeに翻訳の工夫がありそうだ。draughtyは米綴ではdraftyであり、現代英米人にも古めかしい印象を与えるだろうが、「隙間風が入る」という語感は生きる。倒置構文もやや硬い印象はあるかと思うが、文学的な印象を与える
さて、原文はどうだろうか?
私はドイツ語に疎いので、カッコ内にわかる範囲で直訳的に和訳を添えた。原文を見ると、冒頭語がDie Wintersonne(冬の太陽)であり、各訳文もそれを踏襲しようと翻訳しているのがわかる。これがstandするが、この語感はこれらの訳文には反映されていないように思える。関連して、nur als armer Scheinは英語なら、only as a poor appearanceなので、冬の太陽が擬人化されみすぼらしい姿で立っている含みが生じる。おそらく、ここは、中世以降のリューベックの衰えを神の衰えに暗示しているのではないだろうか。そして雲の層は天界の層の隠喩かもしれない。
冒頭一文の、文学表現として興味深い点は、これを映画のカメラ・アングルとして見るとわかりやすい。まず、読者は空を見上げる、そして街を見渡す、そして空と街の中間を満たす、氷でも雪でもないという異様ななにかを見せる。
視線の誘導で、ある種の異世界というか、異国情緒を誘う。これは、作品テーマである主人公の異邦人性に対応している。
最後に余興だが、太陽が擬人化されているかもしれないと考えると、こんなふうに訳したくなる。
【追記】
コメント欄の tae さんのコメントが参考になります。stand の擬人化はなさそうですね。私の考察はちょっと勇み足でした。
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