今回の記事は文学論的・言語学論的なので込み入っています。ご注意。
前回の「『トニオ・クレーゲル』における人称叙述(Person narrative)装置の意義」では、この作品における特異性に焦点を当てたが、文学理論的には、三人称叙述のなかに一人称叙述を埋め込む小説技法は、自由間接話法(Free indirect speech)である。この小説史的な背景を知らなかったのであらためて調べてみると、興味深いものであった。簡素にこの機にまとめておきたい。
まず、自由間接話法(Free indirect speech)だが、日本語での権威ある定義は簡単に見渡した範囲では見当たらなかった。Wikipediaの日本語では「話法」の一項目に次のようにあった。少し長い引用だが、ざっと見ても論点が散見される。
まず、このWikipediaの記者は、接続法(仮定法)の理解が不十分であろう。しかし、この問題は、接続法(仮定法)自体の言語学的な不備にもよるので(イェスペルセンに問題も問題がある)しかたない。余談だが、この問題は私の修論のテーマの一つでもあった。
日本語Wikipediaでは次の項目が後置する。
erlebte Redeは重要なのであとで論じるが、ここで示されるのは、「法」差で話法を分けているのだが、ゆえに、erlebte Redeは直説法ゆえに「自由間接話法」ではないとしている。これは正しいだろうが、留保したい。
英語Wikipediaでは次のように、やや定式化した印象を与える。
英語圏での理解では、この特性として、次の項目があるが、議論を要する。
とあるが、それこそが接続法なので、Wikipediaレベルの議論は混乱している。
とはいえ、文学史的には、次の定説があると見てよいだろう。
煩瑣な議論のようになってしまったが、「自由間接話法」の文学的かつ言語学的定義は曖昧である。
では、各国小説での発展はそれぞれの系統があるだろうか。論点を『トニオ・クレーゲル』との関連でいうと、先のEerlebte Rede(体験話法)が焦点になる。まず、ドイツ語Wikipediaを参照する。
これがドイツ文学の系譜での説明かというとそうでもなさそうであり、次のようにやはり、接続法との混乱がある。
フランス語Wikipediaでは、この話法をDiscours indirect libreとしてフランス文学のなかに位置づけようとしているが、それはさておき、次のような興味深い指摘がある。
なにより興味深いのは、写実主義により語り手が絶対的に人の内面に入り込むという逆説的な文学運動となった点であろう。
『トニオ・クレーゲル』はこうした19世紀的写実主義の自由間接話法が、前回触れたようにその極限で超越的話者によって解体されるポストモダン的な特性を示している。