finalvent読書会『ゴリオ爺さん』始めますよアナウンス

finalvent読書会『ゴリオ爺さん』始めますよアナウンスです。今日、4月3日月曜日、つまり、この月曜日の今日から、finalvent読書会『ゴリオ爺さん』始めます。これは、そういうアナウンスというか挨拶的な話です。内容的な話ではありません。

今回の読書会で『ゴリオ爺さん』を読むのに、4週間、つまり約1ヶ月を取ろうと思います。というのも、この小説は、読みにくいという定評もあるからです。

読みにくいけど名作かというと、間違いなく名作ですので、読んでおいた方がいいかっていうと、まあ、おおむね読んどいた方がいいでしょうけれど、っていうタイプの小説です。

ですが、現代の知識的な読書人には、この作品は、それほど好まれてないっていう感じはします。あまり知的ではないし、現代からすれば、それほど文学的はではないし、古くさい、通俗的っていうふうに思います。今回も読んでみて思うのは、『ゴリオ爺さん』はかなり通俗的だなっていう感じです。通俗的っていうのは、テレビドラマにありがちなことです。。

そこで、この『ゴリオ爺さん』の通俗性っていうのを現代において、どう受け止めるかもこの読書会の課題でもあります。

テレビ番組、テレビドラマとか現代の映画とか、基本的にほとんどは通俗的な作品です。映画はそうじゃないとか、テレビでもドキュメンタリーがそうじゃないとか、あるにはありますが。それに基本的に小説作品が通俗的であるというのは、そう悪いことではないんです。

ただ、現代における通俗性には一定の時間との関わり合いがあると思います。簡単に結論を言うと、通俗的な作品の再現は、例えば、映画とかは、人が鑑賞続けることができるのおは、せいぜい2時間ということです。だから、映画は大体2時間の尺で終わる。

そもそも物語作品の、鑑賞を辞めたいという疲れが生じない限界が2時間ぐらいなんだと思います。なので、『ゴリオ爺さん』っていう作品を、そういう通俗的な感性で読むことは、かなり、読書のチャレンジですし、読書会のチャレンジでもあります。

同時に、現代のようなメディアがない時代にこの作品が読まれたころ、その通俗性はどう時間感覚との関連で維持されたかというのも、文学研究的には興味深いでしょう。

いずれせよ、2時間で大体へたる、現代人の通俗作品への感性が、このような大きな古典作品に向かうと、大抵は、2時間で躓くと装幀してもよいでしょう。そこを超える工夫は必要かと思います。

逆に現代の通俗エンターテインメントは、飽きがと疲れがこないように、刺激的なシーン、性的なシーン、暴力的なシーン、謎解き的なシーン、感覚的な刺激などを多種ぶち込んできます。それでも、神経を飽和させるのが大体30分でしょうか。すこしお休みシーンを入れて、最後で盛り上げてようやく、2時間。テレビの尺で言うと、1時間枠で45分ですね。

ごちゃごちゃ言いましたけど、『ゴリオ爺さん』作品を読む時も、そのくらいの時間目安で区切って、なんとか関心を繋いでいくというのは、古典作品読書のコツの一つでしょう。

『ゴリオ爺さん』は朗読的な遅読で、だいたい18時間かかります。驚かないでくださいね。でも、効果的な人生を送りたい現代人には、かなりな負担になるのも確かです。だから、古典作品は読まれないというループでもありますが。

そこで、こうした古典作品を読み慣れない人が読むには、ある種ペースメーカーが必要です。

一日、30分読むと36日。これが遅読のペースメーカーでしょうか。ただ、30分できっちりぶつ切りとすると関心や記憶がうまく繋がらないので、緩急・長短の試行は必要でしょう。概ね、一日45分の読書をすれば『ゴリオ爺さん』は4週間では読み切れます。興が乗ればその半分くらいでしょう。というわけで、読書慣れしていない人にはけっこうハードルが高いです。

もう一つのペースメーカーは、これ読むのに、4週間というふうに考えていくことです。実際のところ、仕事ではないのですが、読むペースが整えば早く読めるし、4週間で間に合わければ、読書会後になってもいい。というか、基本、finalvent読書会は、過去作品読み直して参加されてもかまいません。今から『トニオ・クレーゲル』を読んで、感想を書かれてもいいでしょう。

こうした工夫を通してでも、とりあずこの作品、『ゴリオ爺さん』が読めたら、特に、古典長編小説に慣れていない人には、読後、いい読書体験になると思います。

100年、200年前のエンターテインメントってのは、こういうものなんだっていう感覚が現代人でも伝わるという感覚も得られるでしょう。現代のエンタメとは違う人生の楽しみにもなるでしょう。

もう一つ、この古典名作、『ゴリオ爺さん』の面白さは、人生経験が生きる感覚が味わえることです。現代通俗作品は、基本的に一過性というか、面白さの単層性で心に残りますが、『ゴリオ爺さん』は読む人の生きた経験の反照が楽しめます。

特に、僕とか、もう65歳なんで、すっかりゴリオ爺さん側に回って、しかも自分の娘さんもなかなかにお困りさんなんで、すっかりゴリオ爺さん的状況に陥って、「ゴリオ、前は俺だ」みたいな感じがするんですよ。これはこれで感動の一つです。

もちろん、僕みたいに、ゴリオ爺さんになっちゃうまで年を取らなくてもいいんです。この小説には、色々な年代がいてそれぞれに自分というもの、自分の人生というのが重なります。たとえば、ラスティニャック、主人公のひとりなんですが、大体20歳ぐらいかな。そこには、この年齢特有の夢や不安、心の細かさが共感できるでしょう。

それはこの作品の通俗性の利点です。人は、現代人でも、生きていれば、つまり、人間の人生ってのは、大抵はそんなに素晴らしいことも優れた人に恵まれてるってことはなくて、通俗的な凡人にあの囲まれて凡庸な生活を淡々と過ごすものですが、それなのに、人間くさい事件に巻き込まれるものです。これが実際のところはかなり悲劇なんですよね。なんか、突然、大切な人が死んじゃったみたいな悲劇が、誰もある意味普遍的に起きる。

そういうのが、なんて言うんですか。自分がメディアじゃないところで、生きた経験として蓄積される。こういうのに『ゴリオ爺さん』はきちんと答えてくれる。これも古典名作の、言い方はよくないかもしれませんが、面白いところです。そして得難い種類の面白さの体験でしょう。

あと、『ゴリオ爺さん』という作品は、それほどエロティックなシーンはないのです。男性と女性の関わり合いっていうのが一見、表面的です。検閲に対してきれいに払拭されて描かれてるみたいで、安全な作品ですが、にも関わらず、その、男と女の、なんかこう。体臭とか、肌が触れ合うような臭いのような、そういう感覚が、ところどころ出てくるんですよ。これはちょっとぐっときます。

この人間臭さという典型は、ヴォートランというキャラクターです。実に典型的ではありますが。

夏目漱石の『明暗』っていう、最後にして最高傑作だと僕は思うんですが、あの中に、小林っていうやつが出てきて、なんか色々と主人公に絡むんですけど、あの小林の面白さとかもヴォートラン的です。あの面白さってのはテンプレですね。今の現代的な通俗的な作品にも、あのヴォートラン的なキャラクターは出てきます。

そういえば、ラスティニャックも、かなりテンプレです。ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコリニコフは、ラスティニャックのダジャレだとも言われてますね。

そういう意味で、文学通な人から見ると、『ゴリオ爺さん』はこの通属性文学祖先という面白さもあります。

とまあ、ちょっとごちゃごちゃ話したんですけど、なんでこの作品を選んだかっていうと、読書として面白いにということに加えて、読書トレーニング的な面白さみたいなところもあるからです。できれば、がんばって読んでみてください。4週間あるんで、挫折しても、トライ・アンド・エラーで取り組んでみてほしいっていう気がします。ちょっとここは偉そうなんですけど。それでも、ダメだったらダメで諦めてください。

『ゴリオ爺さん』を読む時のコツはノートの方に人物紹介を上げときましたが、人物、つまり、キャラですね、キャラをよく理解することです。キャラの顔が浮かぶような補助もしておきました。ご参考までに。ゴリオ爺さんさんってこんな顔だよなみたいな、ゴリオの娘の姉はこんな顔で、妹はこんな顔で、みたいな顔のイメージはあるといいと思います。それと、下宿屋ヴォケールの構造もビジュアルであるといいでしょう。この安下宿ドラマは『めぞん一刻』の原型ですね。社会の底辺層で癖のある人間を集めて、物語をやるっていうのは、通俗作品のテンプレです。

読書会としては、この後『80日間世界一周』そして、『ボヴァリー夫人』をやろうかと思っています。ここまで行ったら、結構読書会としてはすごいなって思います。逆に言うと、勇み足っていうのが早すぎて指導的じゃないかとも思いますが。で、『ゴリオ爺さん』は軽く読んでしまったという人で、こちらの作品がまだの人は先読みしていてくださってかまいません。

とはいえ、そもそも、この読書会、ご自由に参加くださいではありますが。

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