『トニオ・クレーゲル』第7章の神話性と心臓の身体性

『トニオ・クレーゲル』第7章は、海上の旅を描いている。神話的な原型は、オデュッセイアであろうが、ここでは強い暗喩はない。ただ、帰還と海上の困難性、過去が迫るというあたりの対応である(がそれこそが文学系譜であろうが)。また、これは、端的に言えば、これらから異世界に入るためのイニシエーション儀礼であろう。ゆえに苦痛が必要とされる。

作品構成上重要なのは、ライトモチーフである「トニオの心は生きている」である。

トニオの心は第1章と第2章で「生きていた」とされ、3章以降は「死んでいた」となる。

なではぜ、第7章で生き返ったかだが、端的に言えば、人との関わりである。その男をトニオ・クレーゲルは見つめる。

どうやら、日常を超越した厳粛で内省的な気分に浸っているようだった。そんな気分のときには、人と人を隔てる垣根は消え去り、心は見知らぬ人にも開かれ、口は普段なら恥ずかしくて言えないようなことまでしゃべり出す……

浅井晶子訳

僕も素直に思うだが、こうして読書会とかで、「口は普段なら恥ずかしくて言えないようなことまでしゃべり出す」のは、「人と人を隔てる垣根は消え去り、心は見知らぬ人にも開かれ」だからで、これだけでも、『トニオ・クレーゲル』とその読書会の価値がある。そして、ここには、陳腐だが、強い教訓がある。

人の心は他者に開かれたとき、生き返る。

あと、浅井晶子訳では、「心は」と訳しているが、実吉訳では概ね「心臓は」である。だが、実吉訳でも第7章では、「心は生きている……」としていた。

「心」か、「心臓」か。どちらでもよいだろうが、訳者が問われるところである。私は、「心臓」と訳すべきだろう。理由は、心臓が生きているという強い鼓動の感覚は身体の、意識への違和として現れるからだ。

教訓的な話をしたい。何が人の自殺を押し止めるのか。私は、身体であろうと思う。身体が生きたいと心にむけて願うとき、人は死ねなくなる。どんなに悲しくても腹が減るとき、人は生き返る。

自殺を思いとどまらせる言葉が空虚なのは、それが「心臓」に届かないからだ。ではなにが心臓に届かせるか。言うまでもない、文学の力である。文学は心に伝わるものではない、身体に伝わるものなのだ。とま、言い過ぎ感はあるが。

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