トニオとリザヴェータに性的な関係はあったか?

少し第4章に突っ込む。第3章についての話題で、「肉欲」に触れたからだ。

で、端的な問いは、こうである。トニオとリザヴェータに性的な関係はあったか?

今回、『トニオ・クレーゲル』の読書会ということで、いくつか、評論や感想を散見したが、「トニオとリザヴェータに性的な関係はあったか?」という問いを提示しいるものを見なかった。なんだろうか?なんとく、「そんなわけないじゃん」という「童貞臭い(差別表現の批評的使用)」フレームワークすら感じられた。

私は、この問題に、真摯である。これを外さないわけにはいかないだろう?

で、どうか? 決定的証拠はない。むしろ、ドイツ語原文では、二人の会話は、Sie(敬称)でなされていて、Du(親密)ではない。連想されるのは、クララ・シューマンがブラームスに後年、「Duと呼びなさい!」と言ったというエピソードである。ただ、現代的に言えば、現代ドイツ語では、普通の男女友情ではむしろ、Duを使うようではあるが。

つまり、外形からは、「トニオとリザヴェータに性的な関係はあったか?」には否定的な論が多いのはわかる。

だが、そんなことありえるだろうか?

第3章の隠された主題は、「肉欲」と堕落である。つまり、トニオ・クレーゲルは「男」として「女」と堕落の関係しかもてなかったクソ野郎なのである。でも、それがのうのうと、第4章でも文学だのとほざいて生きているのは、「ハンスやインゲなどの憧憬」のおかげであっただろうか。ぷぷぷ、ここは笑うところだ。そんなわけないだろ。

トニオ・クレーゲルの肉欲の堕落を救ったは、リザヴェータとの肉体的な関係だろう、常考、この表現も古いなあ。そして、その肉体関係の後、リザヴェータは、「私はただの馬鹿な絵描き女だから」、だから、そこからトニオ・クレーゲルはSieの関係に戻ることができた。これがトニオ・クレーゲルを救っているし、リザヴェータと母性的な同性愛的な展開をしてしまって、痛く滑っているのが第4章の本質であろう。

いやあ、さらに暴言を吐きたくなってきた。『トニオ・クレーゲル』の「童貞読み」こそ、日本近代知識人装置の産物だったんじゃないか。

といいつつ、ここまで暴言を言ったのだから、私は自分もオール・インすべきなのだ。私はリザヴェータのような女性と関係を持ったことがない。それを、老年になってさみしいようにも思う。だからこそ、『トニオ・クレーゲル』の西欧近代青年的な像に羨望を覚える、「こじれた童貞読み」をするのである。

まあ、文学はどう読もうが自由なんだが、ね。


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