finalvent読書会 『幼年期の終わり』について

いちおうスケジュール的には、『幼年期の終わり』の読書会の期間はこれで終了とします。次の読書会は、ちょっと間を間を置きます。2週間ほど。9/4日に次の課題をと考えています。当初は、チェーホフの『桜の園』とも考えていたのですが(PARCOもあって)、ちょっと検討しなおし中です。

ここでは、第三部のあらすじを追いながら、『幼年期の終わり』という作品の意味を考えていこうと思います。

あらすじ 第3部 最後の世代

第3部の表題が「最後の世代」であるのは、ここで現存人類としては、この世代をもって宇宙から消滅することになるからで、では、どのように地球人類は終焉を迎えるのか?

まず、人類文化は、オーバーロードの指導的支配のもと、終わりを告げた。正確には新しい文化はもう生じなくなった。人々は、ただ、与えられた文化的な娯楽を消費しているだけとなった。(このあたりの作者クラークの未来ビジョンはNetflixなどが普及した現在の人間のありかたをきれいに予言している。)

そんな状態で人間と言えるのだろうか、ということで、オーバーロードの指導に反感を持つ芸術家や学者たちは、人類の文化性を守ろうとして、アテネ島と呼ばれる太平洋上の火山島に独自の文化的コミュニティを作った。(このあたりのカルト的なコミュニティを作るのも米国文化っぽい。)

すると、このコミュニティにいる子供たちに異変が生じる。いわゆる超能力が発現する。念動力やテレパシーなどである。睡眠も取らない。全体として何が生じたかというと、この子どもたちは、宇宙全体の精神性である「オーバーマインド」 (Overmind)に進化する新たな知性の種として覚醒しはじめた。この新しい世代は、直に人間としての個体の意識を失い、宇宙全体の精神に融合する。他方、それ以外の人類はその個体生存期間をもって終わる。

かくしてオーバーロードの役割が明らかにされる。彼らは、さらに上位の精神体である「オーバーマインド」の命令を受け、人類がオーバーマインドに至る種を育児することであった。カレランは、人類へ向けて最後のラジオ演説を行ない、該当の子供たちを別の大陸に移した。

オーバーロードは人類よりも優れた知性にありながら、人類とは異なり、オーバーマインドに到達することなく、世代を再生産することもできずに、現存個体のまま滅びる運命にあった。その意味では、オーバーマインドに至ることのできない残存人類も同じく、もはや滅びる運命にある。

このように、一部の人類がオーバーマインドに至ろうとすることが、いわば蛹から出ることが、地球人類の「幼年期の終わり」であった。

物語の残存的部分として、宇宙に飛び出した登場人物、ジャンが語られる。彼は、宇宙に出ようとして80年後、ようやく地球に帰還する。が、SF的相対性理論のお約束どおり、ジャンは年をとっていない。その彼が帰還したのは終わりを迎える人類の地球だった。ジャンは、旧人類に属し、その終わりを見つめ報告した。

なぜオーバーロードは悪魔の形態をしていたのか?

なぜオーバーロードは悪魔の形態をしていたのか?理由は、人類が未来にオーバーロードによって実質選別され、その直前の世代がすべて滅亡に至るという未来を、人類が「未来の記憶」としてもっていて、その事実に対する嫌悪の情感もそこに付着させていたからだ。SFやラノベでは「未来の記憶」やお約束。

なぜオーバーマインドは、オーバーロードを使って人類を保護しようとしたのか。人類には、オーバーロードとは異なり、より高度な精神性に至る可能性があり、それを育成すると同時に、人類の、他宇宙生命体に強い精神性が他へ悪影響する可能性を統制するためだった。

オーバーロードはなにか失敗したのだろうか。物語では、どのようにしても滅びる運命だったとしているが、暗黙にオーバーマインドに至る道を自分たちの文明が閉ざしたことだろう。これは推測。

『幼年期の終わり』が提起している問題意識はなにか?

現代批評的なSF文学的には、人類の精神性がすでに限界に達し、芸術が無化され、人々はただ延々と娯楽に人生を消費するけの精神退化を示すことの予言と警告である。

しかし、深いレベルでは、知性文明のありかたの本質からの、2つの道の選択を問うている。

1つの道は、個としての独立した自我を維持しているために、宇宙の精神体であるオーバーマインドに融合して永遠的な存在になることができない。なのでいわば無限に苦しみの輪廻を繰り返す。

他方は、個の意識を喪失して、最高位の一つの宇宙的な精神に融合することだ。もはや個体としての生滅はない。いわば涅槃に達するようなものである。

抽象的な選択の問いだが、単純なところでは、私たちが個の実現として個体で人生を終えるか。それより大きな価値や美に自己犠牲をして融合させるかである。

私たちが修辞的に描く美しい未来や未来展望は、実際には、この小説に示された非個性化の、ある種の全体主義にすぎない。

また、私たちが悪魔として嫌悪してきたイメージこそが私たちの個性体としての姿でもあった。(キリスト教文明への批判。)


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