finalvent 読書会 『八十日間世界一周』その翻訳史

前回に続いて、『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜』の話題だが、「第3章 『80日間世界一周』と日本」もかなり面白い内容だった。いろいろ考えさせられることが多い。

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先日の話題にもつながるが、率直なところ、『八十日間世界一周』(1873)を誰が最初に日本語に訳したかについて、私はまったく関心がなかった。まったくというのは正確ではない。戦後になって、誰かが訳したのだろうと思うし、1956年の映画に合わせて、その原作も翻訳されたのだろうくらいに思っていたのだった。

しかし、この作品がフランス語で刊行されたのは、日本でいうと、明治6年であり、これをどう近代化日本が受け止めたかは、けっこう重要な問題である。比較でいうと、『レ・ミゼラブル』(1862)が日本に定着したのは、『萬朝報』を刊行(1892年)した黒岩涙香の新聞連載用の「超訳」であり、『巌窟王』などもその流れにある。

つまり、明治25年の日本では、こうした西洋(特にフランス)の翻案的な物語の新聞連載が多く大衆に支持されていたのである。対して、夏目漱石が朝日新聞に連載を始めたのが、1907年(明治40年)の『虞美人草』からであり、新聞が小説というメディアである時代の、好調期に生じている。余談だが、新聞が主要な小説のメディアであったのは、1995年の渡辺淳一の『失楽園』が実質的な最後ではなかったか。奇しくも、インターネットの時代が始まる年である。

話を『八十日間世界一周』に戻すと、最初の翻訳が、1878年(明治11年)川島忠之助訳『新説 八十日間世界一周』とされている。これには、同書によればどうも異論があるらしい。とはいえ、だいたい『萬朝報』の翻案的小説群に10年先立つことになる。

川島忠之助は、Wikipediaを借りると、《横須賀造船所黌舎でフランス語と英語を習得後、海軍省から大蔵省管轄の富岡製糸場の通訳を経て横浜の生糸輸出商社「和蘭八番館」の番頭となり、雨宮敬次郎の通訳としてフィラデルフィア万国博覧会に同行した際、大陸横断鉄道の売店で手に入れた英訳本『八十日間世界一周』に認められる増補部分に興趣をかき立てられ、さきにパリの三井物産にいた従兄の中島才吉から贈られたフランス語原本(1872刊)と照しあわせて、邦訳を思い立った。なお、川島の翻訳は本書含む3冊のみで、その後横浜正金銀行に勤務した。》とのこと。

これに続き、1890年代後半、新派劇の父であり「おっぺけぺー節」でも有名な川上音二郎はジュール・ヴェルヌ作品の芝居を行っている。彼は、1877年(明治10年)に『八十日間世界一周』も芝居化していると『萬朝報』が伝えるが、川島の翻訳書との関係はよくわからない。

いずれにせよ、明治10年代は、日本では、ジュール・ヴェルヌは芝居や翻訳でけっこう大衆レベルでも受け入れていたことがわかる。日露戦争(1904年)ごろなので、現代から感じる戦前日本の保守・伝統主義的な日本イメージと、かなり異なっていて面白い。

さらに言えば、現在の私たちが江戸時代としてイメージする、ちゃんばら劇的な芝居が交流したのもその頃からのようで、案外こっちが後なのかもしれない。

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