finalvent読書会 D 田中小実昌・短編集『ポロポロ』 、『岩塩の袋』と『魚撃ち』

finalvent読書会 D 田中小実昌・短編集『ポロポロ』を読んでいるのだが、なかなかにして、怖い。どんな仕掛けがあるのか、怖いのである。恐る恐る二編読んだ。『岩塩の袋』と『魚撃ち』。たぶん、衝撃的な仕掛けは、少なくとも前二編のようものは、ないだろう。

『岩塩の袋』は、中国に送られた初年兵が行軍する話である。ひたすら歩き、疲れ、死ぬ。この死ぬすがたが、リアルに考えると悲惨そのものなのだが、文章は滑稽味を帯びていて、不条理というかシュールなのだが、その感覚こそが田中小実昌の世界観なのだろう。

小説の構造は、先二編と同じように、冒頭に仕掛けているなあという感じがして構えた。読み進めて、正直、その仕掛けとの関連で言えば、なんの話なのか、わからない。だが、最後にわかった。そして、衝撃ではないが、ガッツーンとやられた。ネタバレになるが、この小説は、「地の塩」そのものだった。「地の塩」とはどういうことかということを、徹底的に描ききった作品だった。ここでは、「地の塩」とはなにかという解説は省略する。

こんなこと考えたこともなかった。塩が塩の味を失うこと。塩が存在するなら、塩の味がするだろう。そして、聖書でいう塩というのは、肉の保存という含みがあるが、つまり、肉がだめになってしまうことだと理解していた。たぶん、これは正しい聖書理解だろうが、そういうのとは、違っていた。

行軍をしながら、人は人でなくなっていった。作者は、この間、実は、人たらんとしていた。銃を捨てた、米を捨てた。それはとぼけて書いているが、巧緻さであったかもしれない。だが、塩は最後に彼を捌いたといえるだろう。捌いたというのでもないだろうが、彼はイエス・キリストの声を聞いただろう。

私たちは、戦争をいろいろに捉える。賛美したり反意をもったり。だが、こっそりと、戦争の外側にいるのだ。これは、後年に生まれた私たちだからという意味ではない。戦争は、特異な事態ではあるが、同時に特異な事態でもない。そのなかで、私たちは密かに塩を抱え、塩を失っている。そのことを知るのは、ゾッとする。

『魚撃ち』は、米国の現代的な短編を連想させる。一見そう見えないが、技巧的でよく書かれた作品だ。エンディングで私は、吹き出してしまった。もちろん、笑ってはいけないような、状況ではある。だが、人というのは、そういうものなのだ。田中小実昌には、おそらく、ああ人を殺めたという実感はあっただろう。それは殺意でも、戦争でもない。人が生きる実態というのは、こうしたなんか吹き出してしまうような悲劇でできている。



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