finalvent読書会 初心者コース 『ジョゼと虎と魚たち』の背景・『カドカワ』の時代

『ジョゼと虎と魚たち』の時代背景を見ていこう。といっても、まず、三つのことがある。

二つめのほうを先に言うと、そんなことは知らなくてもいい、ということ。知っていてもいいくらい。なので、この先は読まなくてもいい。

一つめは、この作品は極めて普遍的な作品であること。普遍的というのは、特定の時代や地域、言語に縛られないということで、そうした要素なくしても、成立する珍しい作品であること。このことは、少なくとも3種類のメディア化でも支持できるのではないか。なので、普遍的な作品ということを念頭において、これが生まれた特定の背景を見ることが重要になる。つまり、特定の背景に作品の質が還元されない、それで全部説明できるわけではない、ということ。

三つめは、この話は、この作品と同時代人の私の語りであること。

背景として、おそらく最初に取り上げるべきことは、この作品が掲載された文芸誌・『月刊カドカワ』(げっかんカドカワ)についてである。

これは、名前からわかるように、角川書店が出版していた文芸誌、そして音楽誌でもあった。コミックも含まれた。1983年に創刊され、1998年に廃刊した。5年間の雑誌だったが、同時代人としての私は、書店で見るその毎号の表紙に強い印象をもっている。もっとも、同誌のコンセプトが消えたわけではなく、事実上名前を変えて継続した。

が、ここで重要なことは、「カドカワ」という片仮名なのである。これが角川書店の、新しい時代の看板となったということだ。ここには、角川書店と、「新しい時代」という二つの要素がある。

角川書店は、あるいは、角川書店もというべきかもしれないが、日本人の戦後でもあった。1945年11月10日、角川源義(げんよし)が東京都板橋区小竹町で角川書店を創立した。彼は傑物であった。この感触は、荒俣宏『帝都物語』に登場しているあたりが面白い。同書は角川書店の出版だったということもあるが、角川源義は昭和を代表する時代の人でもあった。

角川源義はどのような人であったか。こういうとき、つい、Wikipediaをなぞることになるが、できるだけ私の視点で簡素にまとめよう。彼は、1917年(大正6年)に富山県の商家に生まれた。中学生時代に文学に傾倒し、改造社の雑誌『改造』で折口信夫(釈迢空)の「大倭宮廷の剏業期」という論文を読んで感動し、これが彼の人生を決める。国文学の道に志し、後に折口信夫の事実上の弟子になった。俳人としても大成した。折口信夫を含め、おそらく「ひとたらし」の才があったのだろう、戦中にすでに文人の人脈を得る。

敗戦直後といっていいだろう、1945年(昭和20年)11月に東京都板橋区で角川書店を設立した。出版社設立というと、なんかすごい建屋でもという印象を持つかもしれないが、戦後の出版社というのは、こ汚く狭い事務所だったりする。阿部次郎著『三太郎の日記』(この作品については戦中青年の聖書でもあるので、いつか触れたい)の合本で成功し、1949年5月、角川文庫を創刊した。私の時代、文庫といえば、岩波文庫、新潮文庫、角川文庫であった。角川文庫にはショウペン・ハウエルの哲学書に並んで、ヒットラーの『我が闘争』もあったし、後に大川隆法が頭角すればその著作も出した。節操がない。1952年に雑誌『俳句』創刊した。ところで、私が彼の「俳句」の側面を注視しているのは、私は10代によく俳句を作っていたからである。

角川源義は、1975年に死去。編集局長にいた息子の角川春樹が社長に就任した。彼は、1942年(昭和17年)の生まれ。翌・1976年、株式会社。角川春樹事務所を設立。角川春樹の時代が始まる。つまり、「角川商法」というメディア・ミックスである。ここが現代の、サブカル・メディアの源流の一つだろう。角川映画もこの流れである。

そして、『月刊カドカワ』は、その流れから生まれてきた。さらに背景には、戦前戦後の少女・少年向け小説誌の背景もあるが割愛する。そうでなくても話がうざくなりすぎる。

『月刊カドカワ』を書店風景は印象深い。25歳の私が大学院を飛び出て、まともな就職も出来ず、恋人もなく、友だちも少なく、お先真っ暗人の、お金のかからない時間つぶしは大書店を隈なく見ることだったからだ。その1983年の書店の風景には、『IN★POCKET』(イン・ポケット)もある。講談社が発行していた文庫サイズの文芸PR誌なのだが、有料(200円)で、嬉しいことに、村上春樹の短編も掲載されていた。

『月刊カドカワ』は翌年あたりだったか、新編集長となった見城徹のカラーが濃くなり、そして見城が抜けて幻冬舎ができると、廃刊した。

『ジョゼと虎と魚たち』は、この『月刊カドカワ』1984年6月号に掲載された。

このfinalvent読書会 初心者コースなるうさんくさい目論見の次回の課題本は、村上春樹の『プールサイド』にするつもりだが、これが『IN★POCKET』に掲載されたのは1983年10月号だった。連載の『今は亡き王女のための』が1984年4月号、『嘔吐1979』1984年10月号。

私はなにが言いたいか。田辺聖子の『ジョゼと虎と魚たち』は、サブカルチャー化した村上春樹文学と同じ地平のなかで、出現したのだ、ということである。ちなみに、よしもとばななの『キッチン』は、1987年で少し遅れる。

このとき、田辺聖子、56歳。もともと大衆的なエッセーや中間小説を得意としていたが、すでに小説家として大成しているなか、新しい日本文学の地平に、彼女はすっとのぼってた。その違和感のなさ、そのものが『ジョゼと虎と魚たち』であった。

余談だが、澁澤龍彦が田辺聖子と同年生まれだった。

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