『トニオ・クレーゲル』における人称叙述(Person narrative)装置の意義
『トニオ・クレーゲル』における人称叙述(Person narrative)の扱いが、どの程度特異なものであるのかについて、私は、文学的に評価できる能力がない。しかし、普通に読んでいて、その人称叙述がこの作品の魅力の装置であることは言えるだろう。そこに言及しておきたい。端的にいって、この作品が文学的な興奮をもたらす最大要点であるように思われるからだ。
この小説における人称叙述の扱いというのは、端的に言えば、一見、叙述前提が三人称のように扱われ(ゆえに、「トニオ」と「クレーゲル」と「トニオ・クレーゲル」がそれぞれ分離的に叙述可能になっている)ながら、一人称の叙述が巧妙に頻出することだ。読者は、トニオの内面に巧妙に共感的に誘導されるように仕掛けられている。最初の例をあげよう。
「トニオはこんなふうに思うのだった」までが三人称叙述で、この句を切り替えに、一人称の叙述に切り替わる。客観世界が主観世界に連続的に接続される。ただし、こうした手法では、形式上は、間接用法に近い。「こんなふうに思う」といったキューが残されているためである。
だが、早々にこうした、間接用法のキューは消えていく。
「ハンスは僕の名前を好きじゃない―」はすでに一人称叙述である。
『トニオ・クレーゲル』の特徴は、こうした三人称叙述が一人称叙述に連続するのが、トニオの心性にのみ限定されていることだ。このことが、さらにどういう意味を持つかというと、一人称叙述のなかで、ドイツ語の Du(親称)とSie(敬称)が使い分けられるということが生じる。そして、この小説では、Du(親称)はハンスとインゲに限定されている。ここで注目すべきことは、ハンスとインゲはDuの世界としてトニオの主観的世界なかに写し取られることによって、三人称世界と一人称世界の重ね合わせが生じることである。
このことが、この小説では、2つの興味深い、というか、驚異的な小説装置を作り出している。
1つは、「この当時トニオの心は生きていたからだ」というライトモチーフの二番目のとき、超越的な叙述が出現することだ。
とあるが、この君(Du: dich)は親称である。
この親称だが、驚くべきことにトニオの内面でのそれではない。さらっと読むと、これまでのように三人称叙述の世界が一人称世界に接続され、トニオがインゲボルクに「おまえ」と呼びかけているかに見える。だが、そうではない。ここは、一人称叙述に書き換えが不可能なのだ。あきらかに三人称叙述のなかに、Duが出現ている。
ここは、この小説でどうやら唯一の作者の超越的な介入なのである。浅井晶子訳注ではこれを特記している。
浅井晶子はここがどうしても日本語に訳せないが、注意してほしくてこの注を付したのだろう。
他方、植田寿郎はこの部分をこう訳している。
これを誤訳とまで言っていいかわからないが、意訳ではある。「僕の魂は」と原文を読むことはできない。
さて、そもそもなぜ著者は、ここで超越的な叙述者を登場させたのか。おそらく、トニオといおう内面の主観性が虚構である暗示としての伏線であろう。このことが二番目の小説装置である。雰囲気程度のものかもしれないが、この装置を配備することで、トニオの主観世界それ自体が虚構性を帯びさせる効果が生じる。
このことが、後半における、「インゲボルク」の再登場と関連しているだろう。つまり、再登場するインゲボルクとハンスは、トニオの主観性のなかで、超越的作者のなかの虚構性として提示されるのである。これはまた別途議論しよう。
いずれにせよ、三人称的な客観世界が、一人称世界接続しつつ、さらに超越的な叙述者を介在させることで、三人称的な客観世界が一人称的な世界のかに循環させ、幻想的な異世界的なテキストを出現させる。こうした世界は、内省を超えた現前となるところに、単に『トニオ・クレーゲル』の、甘ったるい青春回想ではない、妖しい魅力があるのだろう。
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