『トニオ・クレーゲル』における人称叙述(Person narrative)装置の意義

『トニオ・クレーゲル』における人称叙述(Person narrative)の扱いが、どの程度特異なものであるのかについて、私は、文学的に評価できる能力がない。しかし、普通に読んでいて、その人称叙述がこの作品の魅力の装置であることは言えるだろう。そこに言及しておきたい。端的にいって、この作品が文学的な興奮をもたらす最大要点であるように思われるからだ。

この小説における人称叙述の扱いというのは、端的に言えば、一見、叙述前提が三人称のように扱われ(ゆえに、「トニオ」と「クレーゲル」と「トニオ・クレーゲル」がそれぞれ分離的に叙述可能になっている)ながら、一人称の叙述が巧妙に頻出することだ。読者は、トニオの内面に巧妙に共感的に誘導されるように仕掛けられている。最初の例をあげよう。

トニオは黒髪で炎のような気性の母を愛していた。グランドピアノとマンドリンを素晴らしく演奏する母を。そして、トニオが周りから浮いていることを、母が少しも嘆かないことを、うれしく思っていた。だが一方では、父の怒りのほうが母の無関心よりもずっと尊敬すべき貴いものだという気がして、たとえ叱られても、心の奥底では父の言い分に完全に納得していた。そして母の朗らかな無関心のことを、少しだらしがないと思っていた。ときどき、トニオはこんなふうに思うのだった――僕はこんな人間なんだから、しかたがないじゃないか。自分を変えようとも思わないし、変えることもできない。怠け者で、強情で、ほかの誰も考えないようなことばかり考えてる。だから少なくとも、僕のことは真剣に叱ったり罰したりするべきなんだ。キスと音楽とでごまかして、素知らぬふりなんかしちゃいけない。なんといったって、僕たちは緑の馬車に乗ったジプシーなんかじゃない、きちんとした人間なんだから。クレーガー領事の家族であり、クレーガー家の人間なんだから......だがトニオはまた、よくこんなふうにも思った――どうして僕はこんなに変わっていて、周りと衝突ばかりするんだろう?先生たちとは合わないし、ほかの生徒たちのなかでは浮いてしまう。ほかのやつらを見てみろ。

トニオ・クレガー(光文社古典新訳文庫)

「トニオはこんなふうに思うのだった」までが三人称叙述で、この句を切り替えに、一人称の叙述に切り替わる。客観世界が主観世界に連続的に接続される。ただし、こうした手法では、形式上は、間接用法に近い。「こんなふうに思う」といったキューが残されているためである。

だが、早々にこうした、間接用法のキューは消えていく。

 それからトニオは黙り込み、ふたりが馬と革製品のことを語り合うに任せておいた。ハンスはイマータールの腕を取り、夢中で話している。『ドン・カルロス』では決してこれほどの熱意は呼び覚まされなかっただろう……ときどきトニオは、鼻がつんとして泣きたくなるのを感じた。それに、絶え間なく顎が震え出すのをなんとかこらえようと必死だった。
 ハンスは僕の名前を好きじゃない―だからって、どうしろっていうんだ?ハンスの名前はハンスだし、イマータールはエルヴィン、確かに誰も変だなんて思わない、よくある名前だ。でも「トニオ」は、どこか異国風で風変わりだ。

同上

「ハンスは僕の名前を好きじゃない―」はすでに一人称叙述である。

『トニオ・クレーゲル』の特徴は、こうした三人称叙述が一人称叙述に連続するのが、トニオの心性にのみ限定されていることだ。このことが、さらにどういう意味を持つかというと、一人称叙述のなかで、ドイツ語の Du(親称)とSie(敬称)が使い分けられるということが生じる。そして、この小説では、Du(親称)はハンスとインゲに限定されている。ここで注目すべきことは、ハンスとインゲはDuの世界としてトニオの主観的世界なかに写し取られることによって、三人称世界と一人称世界の重ね合わせが生じることである。

このことが、この小説では、2つの興味深い、というか、驚異的な小説装置を作り出している。

1つは、「この当時トニオの心は生きていたからだ」というライトモチーフの二番目のとき、超越的な叙述が出現することだ。

トニオの心臓は暖かく、悲しく、インゲボルク・ホルム、君のために鼓動していた。そしてトニオの魂は、自己否定に恍惚としながら、君という金髪で、明るい、高慢で凡庸でちっぽけな人間を抱きしめていたのだ。

同上

とあるが、この君(Du: dich)は親称である。

Denn damals lebte sein Herz. Warm und traurig schlug es für dich, Ingeborg Holm, und seine Seele umfaßte deine blonde, lichte und übermütig gewöhnliche kleine Persönlichkeit in seliger Selbstverleugnung.
(試訳:その時、彼の心臓は生きていた。インゲボルグ・ホルム、おまえのために温かくも切なく鼓動し、彼の魂はおまえの金髪によって、明るく高慢で平凡な小さな人格を至福の自己否定で包み込んでいた。)

原文と試訳

この親称だが、驚くべきことにトニオの内面でのそれではない。さらっと読むと、これまでのように三人称叙述の世界が一人称世界に接続され、トニオがインゲボルクに「おまえ」と呼びかけているかに見える。だが、そうではない。ここは、一人称叙述に書き換えが不可能なのだ。あきらかに三人称叙述のなかに、Duが出現ている。

ここは、この小説でどうやら唯一の作者の超越的な介入なのである。浅井晶子訳注ではこれを特記している。

「トニオの心臓は暖かく……から、著者が作中に顔を出してインゲボルクに語りかける体裁となっている。

浅井注

浅井晶子はここがどうしても日本語に訳せないが、注意してほしくてこの注を付したのだろう。

他方、植田寿郎はこの部分をこう訳している。

だって当時、トーニオの心は生きていたのだもの。この心は君のために暖かく、悲しく脈打っていてのだ、インゲボルク・ホルムよ、そして僕の魂は自分を否定することに恍惚として、君の金髪の、明るい、朗らかで平凡な、小さな人格を抱きしめていたのだ。

植田寿郎訳

これを誤訳とまで言っていいかわからないが、意訳ではある。「僕の魂は」と原文を読むことはできない。

さて、そもそもなぜ著者は、ここで超越的な叙述者を登場させたのか。おそらく、トニオといおう内面の主観性が虚構である暗示としての伏線であろう。このことが二番目の小説装置である。雰囲気程度のものかもしれないが、この装置を配備することで、トニオの主観世界それ自体が虚構性を帯びさせる効果が生じる。

このことが、後半における、「インゲボルク」の再登場と関連しているだろう。つまり、再登場するインゲボルクとハンスは、トニオの主観性のなかで、超越的作者のなかの虚構性として提示されるのである。これはまた別途議論しよう。

いずれにせよ、三人称的な客観世界が、一人称世界接続しつつ、さらに超越的な叙述者を介在させることで、三人称的な客観世界が一人称的な世界のかに循環させ、幻想的な異世界的なテキストを出現させる。こうした世界は、内省を超えた現前となるところに、単に『トニオ・クレーゲル』の、甘ったるい青春回想ではない、妖しい魅力があるのだろう。


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