finalvent読書会 D 田中小実昌・短編集『ポロポロ』 、『鏡の顔』と『寝台の穴』
finalvent読書会 D 田中小実昌・短編集『ポロポロ』 、『鏡の顔』と『寝台の穴』を読む。短編であり、特段難解ということもないので、その点では読むのに苦労しない。が、それでも、冒頭二作の衝撃感からやはり構えてしまう。どんな恐ろしいしかけが仕組まれているのか、と。
『鏡の顔』は中国に従軍中、下痢を繰り返す伝染病の疾患で隔離された日々と描いている。淡々とユーモラスとも言える筆致だが、凄惨極まる世界がそこにあり、実際のところ、日本兵の死者の実態をよく描いている。言うまでもなく、日本兵の多くは戦争の戦闘で死んだのではない。栄養失調と感染症から死んだのある。さらに余談だが、日本人がうまくもない雑なお茶を飲むようになったのは、戦地で水が飲めないからでもあっただろう。内地でも同じだった。白湯やそれを冷ましたものでもよいが、茶のほうがましだろうということで、飲んだのだろうが、お茶というには、雑な機械摘み製法で以降それが日本のお茶になった。お茶は茶摘みといって手摘みものもであったのに。
『鏡の顔』が描いているのは、そうした戦争の実態、あるいは大局面での日本の戦争の実態の一部を描いているとして、いわば戦争小説として読んでもいいだろうし、そうも読まれている。だが、この短編が告げるのは、そうした死地にあるある日、田中小実昌は自身の顔が父の顔に見えた、ということである。
男ならだれしも中年になって自分の顔に父の顔を見るようになる。母方の顔を継いでいても、ふと老いてくると父が現れる。女によっては母だろうか。だが、そういうことをこの短編が描いているのではない。また、田中小実昌はその父が40歳過ぎての子で、出生時には老人の相貌であったので、田中小実昌自身が病で衰退すると老人のようになって、ゆえに老人のような父の顔が浮かび上がったというのでもない。そのどちらでもない。
ただ、気がつくとそこに父の顔があり、そし父の顔は消えたというのだ。それだけで、つまりは、奇跡というしかない何かであった。が、奇跡というのなら何の奇跡なのだろうか。掌編には何が仕組まれているのか。二、三度読み返すが、それは奇跡であり、その奇跡の意味は、という仕掛けはないように思われた。
死地を過ごす時、父の相貌が現れたというだけである。が、しいていうなら、父を思い出した。この掌編やゆえに、父の回想に満ちている。
奇跡はあったが、啓示があったわけではない。しいていうなら、この奇跡は彼が生き延びることに付随したできごとであった。であるなら、父の信仰のご利益でも、と考えたくもなるが、もちろん、そんなことはない。
こうしてなにか思考が蜘蛛の巣のように捉えられてしまうのは、奇跡には啓示があり、恩恵があると思いたい私たちの隠された素朴な信仰であり、多面では奇跡を排したりもする。
だが、こう考えられるだろう。啓示もない奇跡が、人の人生に起きる。そして、その意味は、延々とわからず、しかし、語り続ける。
そうしたものがこの小編なのだろうと、私はとりあえず受け止める。というか、そのように受け止めるべきこととして、この作品の読解がそうした奇跡を模倣しているからだ。
『寝台の穴』は蠱惑的な作品である。これまでの田中小実昌の不可解な作品群に批評的な救済を与えるかのような、悪魔的な仕掛けを出しているからだ。つまり、物語を拒否する物語。馬鹿な批評家がすぐさま食らいつきそうな餌である。
いや、もちろん、そう受け止めてもよいだろう。だが、この小編が描きだすのは、そうした避けがたい物語なのに、その物語が静止したということ、いや、それも田中小実昌は物語だと循環させる。しかし、私は読者として踏み込むべきだろう。この小説は、死が終わった世界を描いている。
私の思考的な悪癖を開陳するが、『寝台の穴』があった、ということは、死んだイエス・キリストが立っていたそこにいた、と同じである。いや、イエス・キリストが立っていた、というだけで、そこから復活、つまり、死と再生の「物語」が脱落する。
それは今生きているというただ、刹那の生の感覚でもある。
寝台に穴がある。なぜあるのか。これら患者の便を排出させるためである。合理的に存在する。だが、意味は存在しない。意味というのは、恐ろしい伝染病であり罹患者は死ぬといった物語はそこにない。
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