finalvent読書会 『幼年期の終わり』 の雑学的背景

『幼年期の終わり』とは

『幼年期の終わり』(ようねんきのおわり:原題 Childhood's End)はイギリスのSF作家、アーサー・C・クラーク(1917 - 2008)が、1953年に発表した長編SF小説です。

なぜ『幼年期の終わり』か

この読書会では、基本的に、近代西洋文学の古典を読んでいくことが趣旨ですが、一般的には、SF作品は、近代西洋文学古典に分類されることはありません。しかし、『幼年期の終り』は、もうそうした扱いを受けるべきでしょう。(余談ですが、これまで読んだ『80日間世界一周』もSF作品と言えるかもしれません)。この作品が、その後の文学のみならず、各種のメディアやものの考えかたに及ぼした影響は多大です。

「終わり」と「終り」

最初に、この話をしたいと思います。『幼年期の終わり』と『幼年期の終り』についてです。違いは、「終わり」か「終り」か、です。実は、この小説の翻訳の表題には、この二種類が存在していて、この差があります。

言葉の表記自体の差の理由は、昔の日本社会での表記監修と、教育的指針の差でによるものです。

日本語の送り仮名の決まりは、昭和34年内閣告示第1号「送りがなのつけ方」で告示され、昭和48年(1973年)6月18日に第2号が告示されました。その通則2に次のようにあります。

許容
読み間違えるおそれのない場合は,活用語尾以外の部分について,次の( )の中に示すように,送り仮名を省くことができる。
〔例〕
浮かぶ〔浮ぶ〕 生まれる〔生れる〕 押さえる〔押える〕
捕らえる〔捕える〕 晴れやかだ〔晴やかだ〕
積もる〔積る〕 聞こえる〔聞える〕
起こる〔起る〕 落とす〔落す〕 暮らす〔暮す〕 当たる〔当る〕
終わる〔終る〕 変わる〔変る〕

なんでこうなったかという説明をします。送り仮名は元来、漢字表記した和語を読みやすくするために補助的に付与する平仮名です。この付与を「送る」といいます。これは動詞の場合は、活用語尾を送ると考えます。「おわる」なら、「終る」です。なので、『幼年期の終り』は原則的です。しかし、「終る」は、「おわる」以外に「おえる」とも読めてしまうため、それを区別したいときは、余計に送ってもいいという許容になったのですが、告示ではこの逆の許容が告示になっています。

いずれにせよ、どっちでも間違いありませんし。「おえる」の名詞形「おえり」はないので、「終り」を「おえり」と読む可能性はありません。つまり、「終わり」と送っちゃったから、その名詞形を「終わり」にしたということです。

『幼年期の終わり』の翻訳史

このこと(表記の差)は、1973年にこの「終わり」表記が実質始まったことを意味し、これが『幼年期の終わり』の翻訳史に関係します。

1964年 『幼年期の終り』福島正実訳、早川書房
1969年 『地球幼年期の終わり』沼沢洽治訳、東京創元新社
2007年 『幼年期の終わり』池田真紀子訳、光文社

この翻訳史には、2つの重要事項があります。

1 1990年に、原作者が第一部を改稿
2 1989年に、冷戦が集結(マルタ会談)

この1の改稿が反映されたのが、2007年の翻訳で、前2つは1953年の翻訳です。

改稿について

作者の意向から単純に考えると、改稿された作品を原作として扱うべきですが、文学的には改稿前も高く評価されており、実際、読んでみるとわかるのですが、第一部の改稿は全体からすると不自然な印象も受けます。

そもそも『幼年期の終わり』とは何を訴えた作品か

この単純な解答は、文学作品の常として、存在しません。が、背景からまた改稿からもわかることですが、冷戦世界のアナロジー(喩え)であったことは明らかです。

そのため、文学作品として同作品を読むということは、冷戦を考え直すということです。そして、このことは、実質第二の冷戦期が始まった現在にとっても重要なことでしょう。

なぜ幼年期の終わりなのか?

この点の指摘をした評論家を私は知らないのですが、所定の教養のある人なら、マルクスが『経済学批判』で述べた、「ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。この社会構成でもって人間社会の前史は終わる」を思い出すでしょう。

ここから、「人類前史」は、マルクス主義歴史哲学の用語ともなっています。これを人間の一生に再対比させるなら、「幼年期」とも言えるでしょう。そして、この対比でいうなら、共産主義社会の成立をもって人類の幼年期は終わります。クラークはこれをたぶん、アイロニーとして使用しているのでしょう。共産主義の前段階である社会主義が終わってしまったということ。

余談ですが、文学作品を読むということは、高度なアイロニーの感覚を養うことです。単純に言えば、人はこの残酷な世界や他者との関係を生きることに困難を覚え、それはそのままでは必然的に絶望に至ります。ですが、絶望にあっても人間を肯定するというのが、アイロニーなのです。

ですがが、おそらく、アイロニーという感覚は、性格にも根ざした生まれつきの感覚ではないかと思います。そして、たぶん、その感覚をもっていない人がマジョリティでしょう。(そのこと自体も世界と人生を地獄に変えている要因でしょう。)

アイロニーは一般的には、「皮肉」として扱われ(皮肉骨髄から)、日本語では「皮肉屋」のような文脈で使われますが、「皮肉屋」は、英語では cynic や sarcastic であって、ironical という文学・哲学的な伝統陰影のある用語とは、程度の範囲でもありますが、異なる面があります。

こじつけのようですが、『幼年期の終わり』は高度にアイロニカルな作品でもあります。

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