finalvent 読書会 『八十日間世界一周』第3週!

finalvent 読書会 『八十日間世界一周』が第3週に入ります。というアナウンスは昨日にするべきでしたが、昨日は、終日外出していたので、一日遅れのアナウンスです。前週でも書きましたが、この作品は非常に読みやすいので、今から読み始めても大丈夫です。光文社文庫だと、下巻に入ります。下巻はKindle Unlimitedには入っていないのが、ちょっと残念ですが。
一応スケジュールはこんな感じです。

スケジュール
第1週 5/1 〜 5/5 第1章 〜 第11章
第2週 5/8 〜 5/12 第12章 〜 第21章
第3週 5/15 〜 5/19 第22章 〜 第29章
第4週 5/22 〜 5/26 第30章 〜 第31章

第12章 〜 第21章の話題 サティについて

第12章 〜 第21章はこの作品の、おそらく最大の山場、アウダ夫人の救出がある。Wikipediaにも項目があるが、「ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすることである。日本語では「寡婦焚死」または「寡婦殉死」と訳されている。本来は「貞淑な女性」を意味する言葉であった」というもので、物語では、若きアウダ夫人がこの強制焼殺となるのを、フォッグ氏が救出するという話である。

物語としては、いかにもヒューマニズムではらはらどきどき、かな、という冒険譚の部類だが、現代の読者としては、微妙な問題がある。単純なところでは、ポストコロニアリズムとの関連だが、幸いにしてというか、ポストコロニアリズムは、『八十日間世界一周』のような大衆小説はほぼ扱わないので、あまり話題でないとも言える。総じて、この作品は、文学としては看過されてきたが、プルーストも影響受けていたりなどで、再評価の傾向はあるにはある。というか、きちんと文学研究対象にもなるだろう。が、それはさておき。

まず重要なのは、この恐ろしい風習が現在でもあるのかというと、ざっと調べた限りでは今は禁止され、ないとされている。だが、2012年の倉敷芸術科学大学産業科学技術学部・西川高史『インドにおけるサティー (寡婦殉死)の風習 その宗教性と社会的背景』では、次のように、1987年の事態を報告している。

夫亡きあと未亡人となった妻が、夫のあとを追って焼身自殺するというサティーの風習 はインドではかなり古くから行われていたらしい。 イギリス統治時代にはこの風習は法律 で禁止されたが、 現代においてもこの風習は続いている。 筆者がインド留学中の1987年9月4日に、 ラージャスターン州の州都であるジャイプー ルから北に 50kmほどのデーオラーラ村でサティーが行われた。 この村は人口約一万人 の、比較的開けた、いわゆるへんぴな村というイメージではない。 サティーを行った女性 は、ループ・カンワルというまだ18歳の未亡人で、結婚して8ヶ月しか経っていなかっ た。 彼女は都会の裕福な家庭で育ち、教育も受けていたラージプート族の美人であったの で、その若さとあいまってインド中にサティー論争を巻き起こした。

サティは現在では禁止されているが、禁止は、1818年のヒンドゥー社会改革運動家の運動から始まったが、法的な禁止は、1829年、英国統治下のインドの初代総督ウィリアム・ベンティンク卿から始まる。『八十日間世界一周』は1873年の作品なので、禁止法が定着している時代である。ただし、4月28日のBBC記事『Sati: How the fight to ban burning of widows in India was wonによると、その後、インド統治の都合から、法の規制は薄められていく経緯もあったようだ。(https://www.bbc.com/news/world-asia-india-65311042)

これをポストコロニアリズムの観点でどう見るかは、私は知らない。が、2009年田中鉄也『ポストコロニアル・インドにおける「伝統」の変革 : 現代のサティー論争におけるアシス・ナンディと批判的伝統主義』では、この問題の一部を議論している。

一九八七年インド北西部で一人の女性が夫の死に伴い、その遺体と共に荼毘に付された。サティーと呼ばれるこの慣行をめぐり、同年デモ活動は頻発し、知識人が意見を戦わせた。「現代のサティ論争」でアシス・ナンディは、サティーの禁止には賛成したが、焚死した女性への寺院建立なども規制の対象としたサティー禁止法に反対した。サティーを行った女性への尊敬心・信仰心まで非難されるべきでないと、彼は主張したのだ。この発言で「サティー擁護者」とみなされた彼の真意を汲み取るためには、彼の提唱する「批判的伝統主義」を理解する必要があった。このスタンスとは、現代インド社会の植民地主義及び西洋近代の影響を脱構築し、よりよい社会構築を求める。そして批判的伝統主義者は、サティーに批判的に取り組み、ポストコロニアルな状況下における「伝統文化」の多様な変革を追及する。しかし当時の論考で彼の企て全てが成功したわけではない。

アウダ夫人の描写

ポストコロニアリズムの観点を維持しつつ、『八十日間世界一周』の文脈に戻すと、『アウダ夫人』の描写も問題となるだろう。

Cette femme était jeune, blanche comme une Européenne.(その女性は若く、ヨーロッパ人のように白かった。)

アウダ夫人は、パルシとしてペルシャ人、つまり、イラン人として描かれている。イラン人には、肌の色が白く見える人もいるだろうが、ペルシャ語が印欧語族に属するように、いわゆる「アーリア人」学説との関連するだろう。この関連では、ジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー(Joseph Arthur Comte de Gobineau; 1816 - 1882)が連想されるが、まさに、『八十日間世界一周』は時代的にも地域的にも重なる。詳細に関連は調べていないが、この時代の通念をジュール・ヴェルヌが無意識的に採用したとはいえるだろう。さらに彼は、アウダ夫人を、完璧な英語話者とし、ヨーロッパ式教育を受けたとしている。

他方、アウダ夫人の美しさについては、ジュール・ヴェルヌはYusuf Adil Shahによる王妃賛美を印象しているが、当時の東洋趣味の一環であろう。このあたりは、歴史的にはアイロニカルだが、博物学的な面白さがある。ベナレスの記述などもそうした趣がある。

映画『八十日間世界一周』では、アウダ夫人をシャーリー・マクレーンが演じているが、イメージとしてはまさにはまり役だった。

ジャムセットジー・ジェジーボイ

アウダ夫人は、ジャムセットジー・ジェジーボイの家系としているが、彼は、1783 - 1859でこの小説の時代背景になる。彼は、パルシの商人また慈善家で、綿花と中国とのアヘン貿易で巨万の富を築き、イギリス騎士ともなった。こうした背景からも、『八十日間世界一周』での、インドと香港の描写の資料となっているだろう。なかなかに興味深い人物であり、こうした人物を知るガイドとしても『八十日間世界一周』は貴重である。


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