源氏物語の各種現代語訳について

源氏物語の各種現代語訳について少し言及しておきたい。その前に、というか、前提ともなるのだが、源氏物語原文主義というか、源氏物語は原文で読むから味わい深いのであって、現代語訳はその劣化コピーか二次作品である的な立場がある。島内景二先生も『源氏物語ものがたり』でどの現代語訳もなじまないふうに述べているが、先生自身の『新訳 うたたね』はご自身の別の場でのコメントにもあるように、アーサー・ウェイリーの影響はあるだろう。同書では、原文との対応はあえて取れない(なので、私は別途直訳も試みているが)。

こうした原文主義は西洋文学についてもいえて、英語仏語ドイツ語など原文がよいという考え方である。

こうした文脈での原文主義は私は無意味だと思う。好きな人はそうすればよい。現代語訳者や翻訳者がどのような文学的な貢献をしているかという点において、原文主義の主張者がそれにまさるのは、微細な衒学趣味であることが多いだけに思う。

さて、源氏物語の現代語訳だが、その前に、近代語訳についても言及しておきたい。そもそも源氏物語は、実質定家の時代には読めなくなっていて、冷泉家のような学者の講読を要するまでになっていた。阿仏尼自身がそうした冷泉家の教育システムの一部すらあった。

源氏物語が実質、多数の人に読まれるようになったのは、と、いう話の前にで、ではそれまでは源氏は読まれなかったのかというと、絵巻はあり、挿話は知られていたし、それでも読む強者はいた。歌の伝統自体が源氏物語を前提にしていることもある。

それで、実質読まれるようになったのは、北村季吟の湖月抄(1673)による。これが、源氏物語の本文全文掲載、脇に傍注、上に頭注というスタイルを生み出し、これは現代でも踏襲されているが、ようするにこれが、実質近代語訳であった。宣長もここから入っている(契沖『源註拾遺』経由)。ここから、批判的に、『玉の小櫛』(1799)ができるのだが、この内容が、湖月抄の頭注に吸収された。ここで、いわゆる『増注湖月抄』ができ、以降、これが実質読まれている。与謝野晶子の現代語訳もこれの踏襲といっていいだろう。

こうしてみると、源氏物語の原文主義は、源氏学のなかから見ても、少なくとも『玉の小櫛』を踏まえているし、『増注湖月抄』が実質のベースなので、矛盾というか、そう理想形にはなりえない。

とはいえ、ここでやっかいなのは、『湖月抄』が河内本によっていることで、折口信夫ですら源氏の講義には河内本を使っていた。しかし、現代はより原典に近いとされる青表紙が使われることが多い。青表紙は現代学者でも意味が取りにくいところがあり、このあたりで、いわゆる非専門家による原文主義自体に衒学趣味以上の意味を見出すのは難しいだろう。

さて、現代語訳だが、話の前段が膨れて、ちょっと執筆時間も押されているので(すまん、走り書きである)。

与謝野晶子訳
まとまったのが1913年(大正2年)である。鷗外の序文などもあり、むしろ、大正文学として見てもよいだろう。その点からも、現代語訳とはいいにくく、読みにくい。吉本隆明は読みやすいと言っていたが、どうだろうか。

谷崎潤一郎訳
谷崎潤一郎の著作権が微妙に切れたのでパブリックドメインで流れている。三回現代語訳され、最後は、1965年である。学者の校閲も入り、与謝野晶子訳を上書きするかにも思える。読みやすいかという点では、個人の趣味の部類だろうが、私はあのヌメヌメした文体は読みづらい。源氏は本来、書き言葉ではないのに、エクリチュールが模されているように思える。

円地文子訳
どうでもいいが、円地文子が変換しなかった。そういう時代なのだな。1967年より着手され、1972年に完成。あきらかに、谷崎源氏を超えていくモチーフがある。私はこの同時代人なので、当時のある種の熱狂を覚えている。実際、これで「現代語訳」の水準が出来上がった。

田辺聖子訳
年代を見ると、1978年(昭和53年)から1979年(昭和54年)にかけて全5巻で出版。ということで、文化現象としては円地源氏を補う形だった。が、この田辺源氏は、原本現代語訳ではないので、その点で忌避される面があり、私もそのひとりであったが、今回参照すると、びっくりするほど優れている。そもそも現代語訳というのはこういうものかもしれない。

瀬戸内寂聴訳
時代は、1996年 - 1998年。出版界では話題だった。私は瀬戸内寂聴があまり好きでなく、その感性から訳されている源氏物語も、なんか、下品だなと思っていた。今回読み返して、評価を変えた。これはまた別に議論したい。

橋本治訳
これはかなり翻案であり、書名『窯変源氏物語』で知られている。全14巻1991年–1993年に刊行。こうしてみると、瀬戸内源氏より前になっている。この作品は、当時読んで驚愕したことがある。

林望訳
『謹訳 源氏物語』とされている。2010年。製本にけっこうこだわりがあって作られたが、現在は単行本化している。つい最近に思っていたが、もう14年も経つ。国語学者であり、芸術活動もされている林望先生らしい現代語訳でこれが現代水準では決定版かと思っていた。

角田光代訳
池澤夏樹=個人編集 日本文学全集の一部として、2017年-2020年に出版。その意味で、池澤夏樹プロデュースの印象がある。その後、ここだけ受けたということか、別刷りになっている。これは源氏物語好きには大きな話題になった。もっとも新しい現代語訳であり、現代日本人の感性に合う、ということだが、私はそうも思わない。特徴は、敬語が排されていること。

ウェイリー新訳
A・ウェイリー版 源氏物語が日本語に翻訳された。びっくりした。2019年に完結。昔から、ウェイリー版は読まれていたが、正宗白鳥以降、英語で読むのが常であった。この翻訳書は、島内裕子先生の講義で知った。肯定的な評価であった。読むと、これまたびっくりした。びっくりなんていうものではなかった。英語で読むときでも、女御・更衣と頭で訳していよんでいるのが、この訳本は、そうじゃない。

さて、で、どれがよいか。他にも、原文注的な学者の訳もあるし、さらにあるのかもしれない(ど忘れか)。簡単にいうと、原文主義でないなら、どれでもいいだろう。

私は、瀬戸内寂聴訳がいいと思っている。理由は、敬語が訳されているからだ。そして、オーディブルに収録されている三田佳子ののんびりとした朗読で聞くと、源氏物語が、声の文学であることが愕然とわかる。

あと、田辺聖子訳が、今回、参照すると、すごいと思った。

とりあえず。

追記
大塚ひかり訳は?というご指摘を受けた。失念していた。自分のなかでは『筑摩文庫版』だった。敬語を抑えたプレーンな訳で、参考書や学習者の補助の印象をもってた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?