『トニオ・クレーゲル』第4章 「道に迷った一般人(ein verirrter Bürger)」について
『トニオ・クレーゲル』第4章の最重要用語であり、この作品の最重要用語でもあるのが、「一般人(Bürger)」である。つまるところ、トニオ・クレーゲルという人間は、Bürgerの一種、「道に迷った一般人(ein verirrter Bürger)」だということである。
ここに光文社の浅井訳では、次のように長い注釈として、ドイツ文学者・伊藤白による次の解説がついている。
この箇所の原典の基本的な含みとしては、Bürger にとって進む道があるのに、そこからたまたま Irrwegen (迷い道)にある、ということだが、Bürgerであることには、ある種の規範性も託されていることがわかる。そう考えると、一部で支持されている「Bürger=俗人」は、その規範性の薄さからは十分に適切な訳語とも言えないだろう。
また、”ein verirrter Bürger”も”ein Bürger auf Irrwegen”と同義であり、むしろ、簡潔に言ったものとして、「迷っているBürger」だが、これも語構成から「道に迷う」の語感がある。ここは、聖書の「迷える子羊」が自然に連想される。
ルター聖書マタイ18章12節を参照すると、"verirrte"が使われおり、『トニオ・クレーゲル』のこの部分の参照と見てよいだろう。
3種類の訳文のなかでは、英訳がかなり意訳になっていることに気がつく。が、同じ聖書文化における聖書との対応とすれば、astrayの語はむしろ理解しやすいだろう。他方、Bürgerは、英訳では、an ordinary man、a commonerとされ、普通であることが強調されているが、erringには、規範性からの「間違い」の含みがあるだろう。こうした点は、非聖書文化の日本語訳からは感覚として反映することはむずかしいだろう。
”ein verirrter Bürger”と関連して重要なのが、第4章の最終文である。「これで心安らかに家へ帰れる」として。
私にはドイツ語の語感がわからないので、"Ich bin erledigt."をそのまま画像検索してみると、動物がぐったりしている光景がトップに出てくることに注意したい。をの感じだと、「僕はもう終わりだね」だろうか。
"Ich bin erledigt."には滑稽なトーンがあるのかもしれないが、さらに、「死んだぁ!」というアイロニーで「家に帰る」ということかもしれない。
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