ドゥルーズのバートルビー論――不安な上から目線

ドゥルーズの『批評と臨床』の第10章に彼のバートルビー論として、「バートルビー、または決り文句」(Bartleby, ou la formule)という評論がある。これが存外に興味深いものである。論点は、「決り文句」、つまり、la formuleではあるが、その前に、この章題の「ou」は「または」ではなく、「つまり」だろう。つまり、「バートルビーとは、あの決り文句なのだ」ということ。なお、formuleは、formules de politesseのように「決り文句」の訳語でよいのだが、この語には、trouver une bonne formule「便利な方法を見つける」のように、過程をこなす手順・方式の含みがあり、文脈に戻せば、「バートルビーはいかなる方法で人に接したか」という含みもすでにあるだろう。

この”la formule”は、"I would prefer no to”のことではあるが、これにドゥルーズは、「この決り文句にフランス語にはいろいろあるが、いずれにも理がある」と注を付している。この指摘には、日本人はある違和感を感じるだろう。ドゥルーズによって、英語は外国であるという当然のことであるが、このことが、彼の思索を誘導してもいるだろう。こう延長される。

しかし、文学の傑作は、それが書かれた言語の内部でつねに一種の外国語を形成するというのが真実だとしても、いかなる狂気の嵐が、いかなる精神病の息吹がそのときの言語活動の中に流れているのだろう?

『批評と臨床』

ドゥルーズは、”la formule”="I would prefer no to”を「外国語」、広義に生活言語活動外部の言語、として捉え、そして、バートルビーにおいて、精神異常として捉えている。

まだ、同種のコンテクストにおいて、ドゥルーズは「非文法性」を議論しているが、これは彼の他の著作にも見られるように、言語と言語活動の初歩的な混乱が含まれていて言語学的にはほぼナンセンスな議論のようにも見えるが、彼の言語学理解の混乱のなかにある言語行為論をその水準でのみ捉えるならば、その議論も理解できないことはない。すなわち、言語活動における「変則的な表現」のある種の「外国語」的な特性はありうるだろう。

こうしたドゥルーズに、日本人として共感するのは、『バートルビー』という作品を、外国語の文学であり、それを翻訳の表現の了解性のなかで捉える・読み出すということが一定の水準をもって打ち出されている点である。別の言い方をすれば、原典言語における真理性において翻訳を捉えることは、ドゥルーズも私たち日本人もしない、積極的にしない、のである。

こうしたドゥルーズの稚拙な言語学理解は、しかし、次のような興味深いインサイトを導く。

「できればせずにすませたいのですが」。この決まり文句にはヴァリエントがある。ある場合には、条件法[英語では過去時制]を放棄して、もっとそっけない言い方になる。つまり、「せずにすませたいですね」[I prefer not to]だ。

日本人からすれば、英語のModal Auxiliaryはフランス語の接続法の代替にすぎず文法機能的にはwillの過去時制といったものではないが、こうした言語学的な理解をドゥルーズはとることができない。あるいは、積極的に取らない。このある種の稚拙性こそが、メルヴィルが英語=米語をその模範でああった仏語文を超えたことの現れでもあるだろう。

この稚拙とも見える逆説的な装置性から、ドゥルーズは「決り文句」それ自体の社会機能を抽出し、次のように一般化する。

決り文句は行く先々を荒らし、蹂躙し、通ったあとには草木一本も残らない。

これは、バートルビーの奇妙な言い回し(決り文句)が事務所の人々に伝染していく、ある種の不条理劇の側面をよく捉えている。が、同時に、「決り文句」として抽出され、焦点化されたことで、バートルビーと「prefer not to」の関係性は逸脱せざるをえず、ドゥルーズの勇み足(毎度のあれだが)が見られる。が、こうした愛嬌あるドゥルーズの早とちりは、「好み」を巡って変奏され、こに思索の強靭さがあり、美点ではあろう。そしてこの変奏から、もう一点、やや帰結性に薄いとしても、興味深い論点がもうひとつ浮かび上がる。

なぜ小説家は、作中人物の振る舞いを説明し、理由付けをしてやらなければならないと感じるのか? 人生によって理由付けがされるのであって、人生を理由付けしてやる必要はない。

また。

アメリカの小説の根源的な行為は、それはロシア小説の場合と同じで、小説を理性の道から遠く運び去ることであり、そして、虚無の中にたち、虚空の中でしか生き延びられず、自分たちの謎を最後まで保ち、論理や心理に刃向かうああした人物たちを出現することである。

ここでおそらくドゥルーズは巧まずして道化を演じている。その浅薄な理解の率直な表明に加え、「アメリカ文学」なるもののクリシェ(決り文句)を語ってしまうからのである。なぜなのか?

『バートルビー』の逆説性にドゥルーズの評論の臨界があるからだろう。というのも、『バートルビー』という作品は、こうしたテンプレート的な「アメリカ文学」なるものの逆説として出現しているからだ。それは、この作品で読者はどの外国語話者であれ、バートルビー自身の「あなたはその理由をご自分でおわかりにならないのですか」に直面して、素朴で深刻な衝撃を受けるだろう。ドゥルーズのこうした「評論」が打ち砕かれる瞬間でもあるだろう。

厄介な問題なのだ、誰もが、『バートルビー』のなかで、バートルビーが問う、「あなたはその理由をご自分でおわかりにならないのですか」に問われ、逃れることができない。この逃れられない拘束力という「力」もまた問われるのである(これをメルヴィルは明瞭に文学と理解してすらいる)。

この状況をバートルビーはこう補助する。「今のところ、少しは物わかりのいい行動をしない方がいいと思います(At present I would prefer not to be a little reasonable.)」。

つまり、どういうことなのか。わかろうとする、理性的であろうとする、そうしないほうがいい状況にあるのが、わからないのですか?とバートルビーは読者にも問いかけている。理由付けは、現在のそれは、一時的に放棄されているだけなのである。

ドゥルーズのバートルビー理解は、しかし、「アメリカ文学」なる「決り文句」へ迷走し、次の帰結に至る。

緊張病と食欲不振症の兆候を示してはいても、バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医(めでぃしんI・マン)であり、新たなキリスト、あるいはわれわれすべてにとって兄弟なのである。

ほのかに、アメリカの精神性にアイロニカルな優位性を吐露して、ドゥルーズのこの論が閉められる。ドゥルーズにはおそらく耐えられないのだ、私たちがもうアメリカ人であることに。そう。バートルビーの異言語的な「決り文句」はその到達性・共感性において、かつてアメリカを対象化した言語文化圏の内側にすでに侵食しているのである。


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