finalvent読書会 『嵐が丘』今週(6/19〜)は、第22章から第28章

読書会のペースメーカー的には、今週は、『嵐が丘』の第22章から第28章。主要な新訳の1つ光文社版が上下巻に別れ、上巻は14章までで、15章が下巻の1章になるので、

  通し章番号 = 光文社下巻の章番号 + 14

光文社本ですと、下巻の第8章から第14章です。

章をあらすじ的に追っていきましょう。


第22章

第22章は、10代の少女であるキャシーの自然との描写から始まるが、このようすが、母のキャサリンとほとんど同じ気質を継いでいるのに、対するヒースクリフの息子のリントン・ヒースクリフはヒースクリフの気質を継いでいない。むしろ、リントンは、その名前のとおりリントン家の、つまり、力なくだめになっていく家の気質を継いでいる。

なぜこの『嵐が丘』という小説はこのような、キャサリン=キャシーでかつ少年少女の野性的な恋の循環という構成になっているのか。まるで、科学実験でキャシーというコントロール群を設定し、実験のバリエーションを重ねているかのようだ。というか、そもそもがこの小説は、そうした思考実験として作られている可能性がある。

ヒースクリフの発言も興味深い。

ご立派なディーン姐さん、俺はあなたのことが好きだが、気持ちに裏表があるところはどうもね。

「裏表」の原文は、「double-dealing」である。意味は、「dishonest behaviour and actions intended to deceive」で「騙す意図をもっている行為」つまり、ヒースクリフからは、ネリーの行いは騙す意図を持っているということだが、奇妙なのはそれをネリー自身が語っていることである。つまり、ネリーはヒースクリフを騙す意図をもって行動してきたが、ヒースクリフはその行動を見抜いていたということだろうが、加えて、ネリー自身の語りもまた、騙しであり、そこで描かれたヒースクリフも騙しというやっかいな、小説的構成がある。

第23章

キャシーが「嵐が丘」邸に来てリントン・ヒースクリフの泣き落としに合うという場面で、リントン・ヒースクリフのくず具合が非常に読んでいて心地よい。そもそも、アーンショウ当主にとってのヒンドリーもくず息子だった。アーンショウもヒースクリフも、単純な親子間で人を見ていない。

で、ここで、なぜか、都合よく、ネリーが病気になる。ご都合主義なのか、ナラティブの嘘なのか、ざっと読むと構成の甘い小説のように思えるが、しかし、こんなところにも、微妙にネリーの悪意が潜んでいるかもしれない。

第24章

この章で重要なのは、ヘアトンとキャシーの恋の種が巻かれるところ。というか、あたかも超自然的な力で、ヘアトンとキャシーの関係が生まれる。

このあたりの描写は、べたに、現代のラノベとそっくりなのも面白い。

ここでもネリーは微妙な立ち位置にいる。ネリーは自身をヘアトンの母とみなしているから、実際にはヒースクリフと共犯でもある。そうした思いもこの章には現れる。

第25章

第25章の冒頭はやや唐突に現在のロックウッドとの語りシーンになる。枠構造が露出するわけである。

この章では、物語的には、ヒースクリフによる悪巧みが、エドガーの気弱さもあって推進されるという筋立てになっている。

自分の血を分けた子供あるリントンに対すヒースクリフの対応は、ネリーが言うように「乱暴なひどいことをするような親」とも見えるが、ヒースクリフの活動に血の論理はなく魂の論理だけがあり、そして、その魂の論理が、アーンショウ家という血の論理を維持する装置となる、という仕組みがある。

第26章

物語上は、ヒースクリフの悪計にキャシーが落ちるという筋立てになっている。

第27章

いよいよヒースクリフの暴力発動。キャシーとネリーは、実質強制的に「嵐が丘」邸に監禁される。ヒースクリフは、キャシーがリントンと結婚しなければ、ここから出さないと迫る。

加えて、実に陰惨な暴力シーンで、R15+である。が、実際の描写では、ふっとちょなネリーがヒースクリフに襲いかかるという、極めて笑えるシーンも有り、作者のエミリー・ブロンテは、このあたり、ぶひぶひ笑いながら堪能して書いていたんだろうと思われる。

私のぶっとんだ感想をいえば、「嵐が丘」の嵐というのは、このヒースクリフの力そのものであり、ヒースクリフは暴力というより、自然力である。そして、ヒースクリフとしては、復讐と屋敷を手に入れる欲望とより、キャサリンを降臨させる宗教儀式といての暴力という祭祀なのではないか。これによって、キャシーのなかに、ヒースクリフを打ちのめす対抗暴力としてキャサリンが降臨するからだ。

ヒースクリフが求めているのは、キャサリンが彼に与えるようなサディズム的な力のリアリティなのだろう。

第28章

キャシーの「力」はヒースクリフの暴力に屈しないことの象徴のように、「嵐が丘」邸を抜け出す。率直にこのシーンにおけるネリーはヒースクリフと共謀であるかのように見える。

今週は

以上、第22章から第28章のあらすじで、しかも私の視点の独断だが、そのようにならざるをえないのは、ネリーの語りのいかがわしさがあるからである。

物語はあたかも、ヒースクリフが自分の復讐と私利私欲で行っているかだが、ヒースクリフには特段、リントン家の復讐もないし、私欲もない。ヒースクリフは、キャサリンの現世の肉体であるキャシーのなかに、キャサリンの暴力性という力を降臨させることで、キャサリンの力に包み込まれたいという願いだけで生きている、と私は読んでいる。


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