finalvent読書会 源氏物語を読む。「夕顔」

夕顔を読んだ。瀬戸内訳をゆったりとした三田佳子の朗読で聞いた。あまり気に留めてなかったが、朗読というよりは、朗読劇なので効果音も入る。そんなのは不要だと思っていたが、夕顔を読むおりには、読経の響きや土鳩なども効果的だった。

大きく、三つ思った。一つは物の怪のこと、二つ目は空蝉の巻との一体感である。もう一つは藤壺のことである。

二つめの話からいうと、夕顔の巻と空蝉の巻は繋がっているというのは知っていたが、こうして読むと、帚木から三巻は一体化していることに驚きのようなものを感じた。特に、雨夜の品定めがこの三巻をうまく統制しているので、こうして見ると、あの部分はあとから付け足した下品なエッセイ的対話というわけでもなかった。そして、この一体感のなかで、空蝉と夕顔という女は、とてもよく描かれていた。これに、軒端の荻を加えてもいいし、人物造形の妙では右近や惟光も加えたい。

夕顔の話のクライマックスは物の怪と言っていいが、この登場のまえに、六条御息所への思いが振ってあることから、文脈的には、彼女の生霊でいいだろうと思っていた。が、学者間ではそうではないことが多数らしい。文脈が読めてないなあ、学者は、とも思ったが、読み進めると、なるほど、これは、六条御息所ではないし、その生霊でもないだろうと納得した。

ではあれは何かだが、原作の結論としては、土地の物の怪が夕顔に魅せられたとしているので、そう解釈するしかないだろうが、読み進めているとき、気になったことがあった。その前に、これは、「物の怪」ではない、そんな言葉は書かれていないという論があったが、些末なことである。「もの」は「もののけ」でいい。

源氏は、夕顔の死の理由を自身に見ている。田辺聖子もそうだった。つまり、源氏の軽率なアヴァンチュールが危険を呼んだのである的なもので、現代人としてもその解釈がわかりやすい。一般的な理解でもあるだろう。

が、この渦中、源氏は死ぬほど落ち込んでいるとき、源氏は、そうは思っていない。原文を参照する。

からうじて鳥の声はるかに聞こゆるに、「命をかけて、何の契りに、か丶る目を見るらむ。わが心ながら、か丶るすじに、おほけなくあるまじき心の報いに、かく来し方行く先の例となりぬべき事はあるなめり。しのぶとも、世にあること隠れなくて、内に聞こし召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬわらべの口ずさびになるべきなめり。ありヽヽて、をこがましき名をとるべきかな」と、おぼしめぐらす。

(やっとのことで鶏の声が遠く聞こえて、「命を賭けて、何の前世の因縁で、このような目に遭うのだろうか。このようなことで、畏れ多くあってはならない心情の報復として、このように、後にも先にも前例になることがあるのだろう。隠しても、世の中に起こった事は隠しきれず、内裏のお耳にも聞こえてしまうだろうことをはじめとして、人々が推測言うことは、良くない京童が口ずさむ話題になりそうである。遂には、馬鹿者というあだ名とになるだろう」と、お思いになられる。)

気になったのは、「命をかけて、何の契りに」「おほけなくあるまじき心の報いに」「内に聞こし召さむを」ということで、このスキャンダルが夕顔との恋のアヴァンチュールと死を指すというより、光源氏は、この物の怪殺人の原因と見ているように読めることだ。そして、この原因となるキャンダルは、藤壺との密通だろう。つまり、藤壺との密通という大罪の懲罰として軽い気持ちの恋を惨劇が変わった、と。

ここで藤壺との密通を光源氏が思ったとすれば、密通事件が夕顔との出会いの前でないといけないのだが、そんなことはあるだろうか? というか、田辺聖子の『新源氏物語』ではそのような配列になっていた。それはないんじゃないかと思っていたのだが、学説的には存在するようだ。

ということは、物の怪の正体は別として事件の渦中に光源氏が懊悩したのは、藤壺との密通であったという推測はなりたちそうだ。

とはいえ、物の怪自体は、先にも触れたが、藤壺との直接的な関連ではなく、一種の地縛霊のようなものだろう。光源氏自身がそれがどの女の生霊かという思いは巡ってもいないのだから。ただ、話者の企みとしては、文脈的に六条御息所を思わせるというのはあっただろう。

余談だが、夕顔の巻は空蝉と別れで終わるのだが、この食えない女に話者が思いを寄せているのは、紫式部の思いが反映しているのではないか。そして、この三巻では、話者の思いとしては、光源氏は超イケメンなのだが、うぬぼれが過ぎて高慢ちきのわりにビビリやというろくでもない像として描かれている。話者の悪意に近い。私は、源氏物語の話者は紫式部ではないと思っていたが、ここから浮かび上がる話者は女で、こうした高慢ちきのビビリやで高位の男と関係していた女が想像できる。となると、紫式部と道長との半ば強姦に近い関係性ではないかという気はしてくる。

それにしても、頭の抜けた女かと思いきやなかなかに癖玉だった夕顔といい、意外とアイロニーを解する軒端の荻といい、煮ても焼いても食えないやな女の空蝉といい、実に、女というものがよく描かれていて、圧倒される。女の造形において、こんなに興味深い文学はないだろうなという感じがしてくる。すごい面白いよ、これ。

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