『トニオ・クレーゲル』第4章 画家としてのリザヴェータ・イヴァノヴナ

『トニオ・クレーゲル』第4章には画家としてのリザヴェータ・イヴァノヴナが登場する。この女性の作品内部の位置づけではなく、あえて外部的な位置づけを考えてみたい。つまり、この作品が置かれている歴史文脈のなかで、フィクシャスではあるが、女性画家としてのリザヴェータ・イヴァノヴナとはどのような意味が前提的に付与されていただろうか。結論を先にいうと、あまり、興味深い考察にはならなかった。

まず、『トニオ・クレーゲル』の歴史文脈を探る。1903年の発表であり、作者・マンの生涯は、1875 - 1955年だから、28歳での発表ということになる。

彼の生まれは、すでに指摘したが、リューベックであり、自由ハンザ都市であった。つまり、帝国の支配勢力から自立生の強い帝国都市である。そこはドイツ帝国下にはあった。

『トニオ・クレーゲル』は自伝的作品なので、マンの生涯との関連で女性に視点を置くと、彼は1905年に結婚し、相手は、ミュンヘン大学のユダヤ系数学教授の娘カタリーナ・プリングスハイムであった。彼女はドイツ系なので、知的な女性というほかは、リザヴェータ・イヴァノヴナとの重なるところはない。

リザヴェータ・イヴァノヴナが1902年頃に30歳ほどの女性画家であるという点に着目すると、若干気になる外部要素が参照される。ドイツ表現主義の誕生が、1905年であったことだ。これは、ドレスデン(ドイツ帝国時代のザクセン王国)を拠点にエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーらの前衛絵画グループ「ブリュッケ」が原典ある。だが、ドイツ表現主義の活発な活動は「青騎士」などこの10年後と言ってよく、そうしてみると、リザヴェータ・イヴァノヴナは印象主義の時代に所属する。だが、その視点から該当する女性画家は見当たらなかった(私は知らない)。

小説に描かれるリザヴェータ・イヴァノヴナの画風は、「カンバス上では、雑然としたおぼろげな木炭デッサンに、最初の絵の具が置かれ始めていた」とあり、印象派とも異なるようだ。

リザヴェータ・イヴァノヴナのロシア人設定は、次のような展開のためだろう。トニオ・クレーゲルの言葉、「君の国の作家たちの作品のことを考えれば。尊敬すべきロシア文学っていうのは、君の言う神聖なる文学そのものだからね。」

ちなみに、『カラマーゾフの兄弟』の出版年は1880年で、すでに四半世紀経過している。19世紀半ばまでは文学的に後進国と見られていたロシアは、トルストイとドストエフスキーの影響で、むしろこの時期、西欧に対して優位に立ったかに見えた時代だった。なおドストエフスキー自身はフランスのバルザックの系譜にあると言ってもよいだろう。

また、同章で言及される『トリスタンとイゾルテ』だが、ヴァーグナーの文脈にあり、その『ニーベルングの指環』の『神々の黄昏』の初演は、1876年ですでに30年近く経過している。

音楽の観点を若干言及すると、『トニオ・クレーゲル』刊行の前年の1902年にグスタフ・マーラー交響曲第5番が完成し、1904年に初演だったので、ほぼ同時代だといえる。ただし、こちらはケルンである。マンとマーラーが親交を持つのは、1910年でこれが『ヴェニスに死す』に結びつく。

リザヴェータ・イヴァノヴナに表されているものは、第一次世界大戦前のドイツ自由都市の文化的な空気でもあるだろう。その意味では、『失われた時を求めて』が描く「失われた時」にも相当する。

画家ではないが、ローザ・ルクセンブルクが1871年の生まれで、リザヴェータ・イヴァノヴナと重なるので、この時代のドイツの知的女性の一つの参照になるだろう。

あと、リザヴェータ・イヴァノヴナが女性である視点をずらすと、トーマス・マンの兄、ハインリッヒの陰影はあるかもしれない。

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