『トニオ・クレーゲル』と日本の昭和青年像


『トニオ・クレーゲル』は日本の文学シーンや日本の現代史にも関連が深い。山室信高『「教養市民」であることの困難――トーマス・マン『トーニオ・クレーガー』再訪――』を参考に、北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』も合わせてまとめてみたい。

日本で『トニオ・クレーゲル』が翻訳されたのは、1927年、つまり昭和2年である。同年に岩波書店から刊行された日野捷郎訳『トオマス・マン短篇集』に『トニオ・クレエゲル』という表題で含まれていた。現在、国会図書館にログインするとこの書誌は検索できるが原本の写真コピーはまだ掲載されていない。

この昭和2年(1927年)を起点に考えてみたい。原作刊行が1903年、B.Q.Morgenの英訳が1914年とすると、ドイツから米国そして日本へと翻訳にはだいたい10年の差がある。この時代の日本の同時代西欧化への時間差を暗示しているだろう。なお、昭和元年は6日しかないので、昭和2年は実質、昭和という時代の始まりであった。

昭和2年という年号をどう見るかは多様だが、欧米文化と『トニオ・クレーゲル』翻訳の関連でいうなら、レクラム文庫を模範に岩波文庫が創刊された年であり、新潮社「世界文学全集」や研究社「新英和中辞典」も刊行された年でもある。欧米文学や語学が旧制高校の高校生を中心に普及していった時期といえるだろう。

旧制高校の二高から五高は1887年(明治20年)に成立していたので、昭和2年にはすでに40年が経過していた。最初に『トニオ・クレーゲル』を読んだ旧制高校の学生を20歳と想定すると、この高校生は1907年の生まれになる。そのなかには、高見順(一高)、亀井勝一郎(旧制山形高等学校)、井上靖(四高)、藤枝静男(八高)などがいる。高校は出ていないが、中原中也や石井桃子も同年生まれである。彼らは、西洋文化的教育システムから算出された教養日本人量産化の第一世代と言えるだろう。
 さらに、1918年の改正高等学校令によりその翌年から1919年から10年間に、松本高校や浦和高校など地名校、成蹊高校や府立高校など7年制高校ができ、日本の知識人の量産化が進む。このピークは1930年頃に想定してよいのではないか。『トニオ・クレーゲル』の日本訳登場は、まさにこの渦中にある。山室信高は「教養」の文脈でこう指摘している。

「教養」、すなわち”Bildung“の理念は19世紀から20世紀の変わり目に――ちょうど『トーニオ・クレーガー』が書かれた頃――日本に入ってきた。当初は儒教的な伝統を引く「修養」の理念と不可分に混じり合っていたが、大正時代を通じ、広く大衆的基盤を持つ「修養」から、高学歴のエリート層が自らを差異化するべく「教養」が自立してくる。いわゆる「大正教養主義」の成立であるが、ここで「教養主義」とは「教養」という理念(Idee)を核とした集合意識、もっと言うと集団的なイデオロギー(Ideologie)、しかも単に意識にとどまらず、意識を具現化するための諸種の装置を含めた総体とひとまず理解しておこう。『トーニオ・クレーガー』の場合、岩波文庫も旧制高校も「教養」という集合意識ないしイデオロギーを支えるそうした教養主義的装置として機能したが、そこで日野あらため実吉捷郎(1895-1962)という訳者が果たした役割もまた大きい。

 『「教養市民」であることの困難』

奇しくも、この1927年(昭和2年)は、『トニオ・クレーゲル』に心酔した北杜夫が生まれた年である。ペンネーム「杜夫」は、考案当初は「杜二夫(とにお)」であった。彼がトーマス・マンを知ることになったのは、改正高等学校令に基づいて9番目の官立高校となった松本高校で、当時在任していたドイツ文学者・望月市恵と知り合いになったことからだった。『どくとるマンボウ青春期』には、彼ら高校生は望月市恵を仲間内ではモチさんなどと呼んでいた挿話がある。なお、松高の彼の先輩に辻邦生がいる。

北杜夫の『トニオ・クレーゲル』への心酔ぶりも同書に描かれている。これは極端な例だが、それでも、どれほど昭和青年にこの小説が読まれてきたかの一つの指標にはなるだろう。この典型例のなかには、1925年生まれで一高卒の三島由紀夫もいる。

 この小説の好きな箇所を抜きだしたら、それこそきりがなく、結局、全部を書き写すより方法がない。そうすると翻訳を盗んだということで、私は牢屋に入れられる。ここにあげたのは、私が最初に読んだためいちばん懐しい実吉捷郎氏の訳だが、牢屋とまではいかずとも罰金くらい払わされそうで、わざとごくちょっぴり変えておいた。
 それにしても、私は一体、どのくらいこの作品を読み返したことだろう。それはもともと古本で買って、はじめから汚れていた岩波文庫だったが、そいつをほとんど常にポケットに突っこんでいて、何回も何回も読み返したあとになっても、校庭に寝そべってはいい加減な箇所をぱらりと開き、どこを開いてもあまりに周知な数ページをよみ、喫茶店の一隅に坐っては、一杯のコーヒーを前にして、自分の名前よりよく暗記している特別に好きな箇所(またそれが一杯あって、私は百の名を持つ怪盗の気分もした)の数行をぼんやりと見やり、じっと小一時間も考えこんだりした。そういうときの私の顔は、おそらくこのうえなく憂鬱げで、同時にこのうえなく白痴みたいであったろう。
 その昭和十年発行の第七刷の文庫本は、ついに表紙がとれ、セロファンで貼ったのがまたとれ、カバーをかぶせて貼り直し、各ページの綴じがバラバラになりかけながら、どうにかまだ本の形をして、今も私の手元に残っている。
 小さな粗末な本が傷んでこわれかけてゆくにつれ、こちらの心のほうは傷みに傷みぶっこわれ、その挙句、私は本気で信じこんでしまった。――つまり、このおれという人間は、トニオのように呪いを受けており、額に極印があり、ものを書いてゆくより仕方がない存在なのだ、と。この迷妄、この妄想の強烈さは、私がのちに精神科医となって診たずいぶんと沢山の分裂病者たちのそれの中でも、たしかに保護室に監禁すべき部類に属するといってよい。
 私は、今や、これからのち自分は外面こそ医者になろうが患者になろうが、とにかく絶対にものを書いてゆかねばならぬこと、それどころか、いつか忽然として詩人か作家になってやるのである、と断乎として決めてしまった。まさしく、化かされたのである。

『どくとるマンボウ青春期』

ここで私は些細なことに関心を持つ。その文庫である「昭和十年発行の第七刷の文庫本」である。これは、実吉捷郎訳『トオマス・マン短篇集Ⅲ』(1935)であり、岩波文庫の実吉捷郎訳『トニオ・クレエゲル』が出版されたのは戦後の1952年である。こちらの岩波文庫が戦後第一世代、つまり、団塊の世代における教養日本人量産化に関わっていったのではないか。
 とすると、ここには逆説がある。『トニオ・クレーゲル』という小説は、芸術的な教養(Bildung)と自我の典型的な葛藤として教養日本人量産化の社会装置であり、人間形成としての(Bildung)としては、芸術的な教養への否定の言い訳を提示してくれる個人装置である。ひどい言い方をするなら、この小説は、戦後は、日本型知識人の知的おしゃぶり(pacifier:鎮静器)として機能したのではないだろうか。つまり、北杜夫や三島由紀夫といった芸術的傾向のある青年の拠り所というより、そのようにはなれなかった次世代にって、戦後経済の牽引の多数のなかの少数に吸収されていった墓標のようなものではないだろうか。

このことは、露悪的に言えば、『トニオ・クレーゲル』の劣化コピーとしての『どくとるマンボウ青春期』が、1968年に中央公論社より刊行され、ベストセラーとなったことに釣り合う。昭和32年(1957年)生まれの私より、10歳年上の団塊世代は、まさに正しく劣化コピーされたことで、Bürger(市民)のなかに融解していった。そこで『トニオ・クレーゲル』は、終わったのであり、『トニオ・クレーガー』として、今日の日本で読み出される小説はそれとは違う志向を内包しうるだろう。

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