『トニオ・クレーゲル』第2章と第8章の呼応 転倒する力の受容
『トニオ・クレーゲル』がある種、芸術家的志向つまり超越的志向を持つ青年の救済的な共感の魅力を持つのは、この小説が神秘的ともいえるイニシエーション儀礼を近代人の心性において再現・疑似体験させることにあるだろう。極端に言えば、一種の擬似的なオカルト体験であるとすら言える。
儀礼はこう進む。世界の違和感、内面の違和感、旅立ちと自己内の力による苦悩、自己欺瞞とそれを告知する巫女(エリザベータ)、オデュッセイア的な試練の旅、幻想との対決、そして、第8章ではひとつの終局を迎えるのだが、そのドラマの仕立ては、幻想と対決としての、第2章と第8章の呼応でもある、転倒する外部力の受容にある。
第2章において、トニオ・クレーゲルは、インゲというBürgerの青い目の少女を慕いながら、その思いは叶わない。他方、ダンスでよく転ぶマクダレーナ・フェアメーレンという黒い瞳の少女に慕われるが、彼女を拒絶し、その手を取ることはない。
トニオ・クレーゲルは、「愛されることは、吐き気がするような虚栄心の満足にすぎない」と考えている。このことは、愛そうとするものを拒絶することとして現れる。
マクダレーナ・フェアメーレンは第2章以降登場しないが、第8章の幻想のシーンにおいて、その代替としての再び転倒する力が彼に接近する。
ここでは、トニオ・クレーゲルは、回転転倒した少女に手を差し伸べ、そしてその感謝を受容し、その上で、ハンスとインゲに別れを告げた。むしろ、転倒する力の受容が、ハンスとインゲとの別れを引き起こした。
『トニオ・クレーゲル』における、芸術家対市民(Bürger)の対立は、彼に受容を迫る転倒する力の拒否が架構する、いわば擬制の対立でしかないかもしれない。そこのことが、彼を真に芸術への向かわせる。
これが第9章のいわば結語になっていく。
これは、ハンスやインゲに対する愛ではなく、マクダレーナ・フェアメーレンのように転倒する力をもって彼に接近する者の受容によって生じるものだと読みたい。
とはいえ、『トニオ・クレーゲル』がそのような構造を自覚的に有しているとまでは言い難いだろう。他方において、「僕のもっとも深く、最もひそやかな愛は、金髪で青い目の人間たちに向けられているのです」となっている。そこは、「真摯さと陶酔をたたえた黒く輝く大きな瞳」であるべきだったろうに。
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