『トニオ・クレーゲル』第2章と第8章の呼応 転倒する力の受容

『トニオ・クレーゲル』がある種、芸術家的志向つまり超越的志向を持つ青年の救済的な共感の魅力を持つのは、この小説が神秘的ともいえるイニシエーション儀礼を近代人の心性において再現・疑似体験させることにあるだろう。極端に言えば、一種の擬似的なオカルト体験であるとすら言える。

儀礼はこう進む。世界の違和感、内面の違和感、旅立ちと自己内の力による苦悩、自己欺瞞とそれを告知する巫女(エリザベータ)、オデュッセイア的な試練の旅、幻想との対決、そして、第8章ではひとつの終局を迎えるのだが、そのドラマの仕立ては、幻想と対決としての、第2章と第8章の呼応でもある、転倒する外部力の受容にある。

第2章において、トニオ・クレーゲルは、インゲというBürgerの青い目の少女を慕いながら、その思いは叶わない。他方、ダンスでよく転ぶマクダレーナ・フェアメーレンという黒い瞳の少女に慕われるが、彼女を拒絶し、その手を取ることはない。

インゲ金髪のかわいらしいインゲーがクナーク氏をあんなふうに見つめるのも、トニオにはよく理解できた。だが、自分をあんなふうに見つめてくれる女の子は、決して現れないのだろうか?
 ところが、現れたのである。その子はマクダレーナ・フェアメーレンという名で、フェアメーレン弁護士の娘だった。柔らかな口もとと、真摯さと陶酔をたたえた黒く輝く大きな瞳。ダンスの最中にはよく転ぶ。だが、女性が男性をダンスに誘う番になると、トニオのところへやってくる。マクダレーナはトニオが詩を書くことを知っていて、これまでに二度、見せてほしいと頼んできたことがある。そして、よくトニオのことを、遠くからうつむき加減で見つめている。だが、それがなんだというのだろう?...

浅井訳

トニオ・クレーゲルは、「愛されることは、吐き気がするような虚栄心の満足にすぎない」と考えている。このことは、愛そうとするものを拒絶することとして現れる。

マクダレーナ・フェアメーレンは第2章以降登場しないが、第8章の幻想のシーンにおいて、その代替としての再び転倒する力が彼に接近する。

一組のカップルが周囲の激しい動きに翻弄されて、旋回しながら猛烈な勢いで近づいてきた。娘のほうは青白く繊細な顔立ちで、痩せたいかり肩だ。不意に、トニオの目の前で、つまずき、足を滑らせ、くずおれる。さきほどの青白い顔の少女が転んだのだ。怪我をしても不思議ではない、すさまじい転び方だった。少女とともに、相手の男性も転んだ。男性のほうは痛みがひどいようで、相手のことをすっかり忘れてしまい、座り込んだまま、顔を歪ませて両手で膝をさすりはじめた。一方、少女のほうは、転倒の衝撃にすっかり呆然としてしまったようで、いまだに床に倒れたままだ。トニオ・クレーガーは少女に近づき、優しく腕を取って、立ち上がらせた。憔悴し、混乱し、辛そうに、少女はトニオを見上げた。すると突然、その繊細な顔一面が、薄い朱に染まった。
「ありがとうございます!ああ、本当にありがとうございます!」そう言って、少女は黒い瞳を潤ませ、上目遣いにトニオを見つめた。
「これ以上踊っちゃいけませんよ、お嬢さん」トニオは穏やかにそう言った。そしてもう一度、あのふたりのほうをハンスとインゲボルクを―振り返った。それからトニオは立ち去った。サンルームとダンスパーティーとを後にして、階上の部屋へ戻った。

同上

ここでは、トニオ・クレーゲルは、回転転倒した少女に手を差し伸べ、そしてその感謝を受容し、その上で、ハンスとインゲに別れを告げた。むしろ、転倒する力の受容が、ハンスとインゲとの別れを引き起こした。

『トニオ・クレーゲル』における、芸術家対市民(Bürger)の対立は、彼に受容を迫る転倒する力の拒否が架構する、いわば擬制の対立でしかないかもしれない。そこのことが、彼を真に芸術への向かわせる。

 これが第9章のいわば結語になっていく。

もし売文屋を真の詩人に変えるものがあるとすれば、それは、人間的なもの、生き生きとしたもの、平凡なものに対する僕のこの俗物的な愛情にほかならないからです。

同上

これは、ハンスやインゲに対する愛ではなく、マクダレーナ・フェアメーレンのように転倒する力をもって彼に接近する者の受容によって生じるものだと読みたい。

とはいえ、『トニオ・クレーゲル』がそのような構造を自覚的に有しているとまでは言い難いだろう。他方において、「僕のもっとも深く、最もひそやかな愛は、金髪で青い目の人間たちに向けられているのです」となっている。そこは、「真摯さと陶酔をたたえた黒く輝く大きな瞳」であるべきだったろうに。

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